修学院離宮
修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう) 2008年05月20日訪問
禅華院の山門前を通り過ぎ、そのまま北に50メートルほど歩くと修学院離宮参観者の入口となっている表総門が右手に現れる。京都御所や仙洞御所と同様にインターネットによる申し込みを行った。京都御所と仙洞御所が最初の応募で希望日が得えられたのに対して、桂離宮は落選、修学院離宮は数度目でこの日の9時からの参観に入り込むことが出来た。今回の旅行の日数が思わず長くなったのは、この修学院離宮の参観日に依っている。8時40分に表総門を潜り、参観者休所に入り開始時刻を待つ。参観者休所は椅子とロッカーが用意され、離宮内の説明ビデオが流れているが、どちらかと言うとお土産物の販売所というイメージが強い。これは皇居も含めて皆同じである。 開始時刻が近づいても、なかなか参観者の数が増えない。ついに5人での参観となった。説明員の話しによると、前日の夜の雨と朝早い集合時間のため参観者が減ってしまったようだ。早朝は不安定な天候であったが、この時間には日差しが現れ、絶好の参観日和となった。
現在の修学院離宮の造営は、明暦2年(1656)から万治2年(1659)の間に行われている。修学院村に造営された離宮であるため、私たちは修学院離宮と呼んでいるが、もともとは10世紀頃に修学院という寺院があり、それが地名となったとされている。離宮の造営に至る以前に、後水尾上皇はこの地に隣雲亭という茶屋を持っていたし、上皇の第一皇女である文智女王は寛永18年(1641)に円照寺という草庵を営んでいる。
文智女王の実母は正二位権大納言四辻公遠の娘・四辻与津子である。与津子は元和4年(1618)頃より後水尾天皇に出仕し典侍となる。そして賀茂宮と文智女王の1男1女を生んでいる。この時期、2代将軍徳川秀忠は、娘の和子の入内を進めていた。その最中に尚侍が親王を生み、更に懐妊していることを秀忠は知り激怒する。元和5年(1619)後水尾天皇の側近である万里小路充房をはじめとする公家6名を処罰し、与津子の追放と出家、和子の入内を強要する。いわゆるおよつ御寮人事件である。元和6年(1620)和子の入内が実現すると、今度は処罰した6名の赦免と復職を命じる大赦を出している。
宮中から追われ、出家して明鏡院と称した与津子は寛永15年(1639)に没している。その娘である文智は寛永8年(1631)鷹司教平に嫁したが3年後に離縁している。本来ならば内親王になってもおかしくなかったが、やはり、およつ御寮人事件による影響があったのかもしれない。そして母の死後の寛永17年(1640)後水尾上皇が帰依していた禅僧一糸文守について得度し、大通文智となり修学院村に翌18年(1641)円照寺を結んでいる。
その後、文智は京から離れることを望み、正保2年(1646)には近江国永源寺に移り、明暦2年(1656)大和国添上郡八島村に草庵を結んで隠棲したとされている。このとき東福門院の助力により、幕府から200石(のちに300石に加増)、金1,000両の寄進を得、八嶋御所と称されるものとなった。寛文9年(1669)八嶋の近くの現在地に再度移転している。林丘寺の項でも触れたように、後水尾上皇は寛文8年(1668)頃、第8皇女の朱宮光子内親王のため、楽只軒を山荘として建てている。大通文智と円照寺が修学院村から出て行った後のことにも考えられる。しかし後水尾上皇が文智を外し、光子のために楽只軒を建てたという記述も見られるが、実際のところは如何であったのだろうか? 文智は寛文7年(1667)仙洞御所で行われた徳川家光17回忌追善の観音懺法の導師を務めており、延宝6年(1678)東福門院の最期を見とったのも後水尾天皇と文智女王の2人だけだったとされている。
フィールド・ミュージアム京都の桂離宮と修学院離宮によると、明暦元年(1655)東福門院とともに、円照寺の草庵に御幸した上皇は、この地の素晴らしさを改めて認識し、翌年から大規模な山荘造営に着手したとしている。この離宮造営の第1期が完了した万治2年(1659)から10年後、第3期完了の寛文3年(1663)から5年後の寛文8年(1668)頃に楽只軒の建設に着手したということになる。 朱宮光子内親王と楽只軒が林丘寺となり、その一部分が修学院離宮に編入されていく歴史は、林丘寺の項を参照下さい。
修学院離宮は、下御茶屋、中御茶屋そして上御茶屋の3つの部分と、その間には広がる田畑、細い松並木道で構成されている。面積54万平方メートル。五冨利建築研究所のHPに掲載されている修学院離宮(http://www.geocities.jp/gobken89/t-050615-shuugakuin_01.html : リンク先が無くなりました )には、承応4年(1655)時点で既に隣雲亭が存在しており、円照寺にあった文智女王の草庵が後水尾院の清遊のための拠点とされていたとしている。先にも触れたように明暦2年(1656)より造営に着手したのは下御茶屋であった。鹿苑寺の僧で、後水尾上皇が離宮建設の相談を行ったといわれている鳳林承章の日記「隔冥記」によると万治2年(1659)に招待されており、寿月観などの建物も完成していたことが分かる。この時には上離宮の隣雲亭だけが出来ていたようだ。そして次に手がけたのは、浴龍池の造成で寛文元年(1661)に完成している。再び「隔冥記」には寛文元年(1661)に承章が浴龍池や建物を拝見した記述が残されていることから推測される。そして第3期として止々斎、洗詩台ならびに雄滝が加えられている。寛文3年(1663)に一通りの造営が完了していたとされている。繰り返しになるが、中御茶屋は後水尾院の皇女の緋宮光子内親王の山荘として、離宮完成後の寛文8年(1668)より営まれている。
後水尾院の行幸は約25年間で70回以上に及んでいる。しかし離宮には宿泊施設がないため、仙洞御所から日帰りの清遊であったとされている。これは当時の院の立場が現されていると考えてよいだろう。長期間御所を空けることは江戸幕府が許さなかったと思われる。下御茶屋の寿月観は、離宮内での清遊のベースキャンプの役割を果たしていたのであろう。そのため行幸に供奉した者の控所も兼ねていたと考えられている。
参観者休所を出て北側に進むと、下離宮(下御茶屋)の御幸門が現れる。下離宮の中に入り中門を潜り、左に折れると上り道となるが、この道は参観路とはなっていない。石段を上り切った先には寿月観の玄関が現れる。参観者は右側の池泉のある庭園の中の苑路を歩き、寿月観の南面に出る。
寿月観は池を掘った土を盛り、石垣で土留めをした上に建つ、数寄屋風書院造起り屋根、柿葺の建物。先に触れたように後水尾上皇行幸の際の御座所に当てられている。西和夫著「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年)によると、後水尾上皇時代に建てられた寿月観は取り壊され、文政7年(1824)の光格天皇の行幸の際に再建された建物が現存するものとしている。水墨の襖絵も江戸後期の絵師・岸駒および岡本豊彦の筆になる。北側の主座敷の一の間から鉤形に折れて二の間、三の間が連なり、それぞれの間の前面には明障子を建てて濡縁を巡らしている。また屋根を軽くみせるために、柿葺の軒先は薄い一重軒付となっている。一の間の南の縁には後水尾上皇宸筆の寿月観の扁額が掲げられている。
寿月観の前庭は一面白川砂が敷かれた平庭に一の間と三の間をつなぐ飛び石が置かれている。一の間の東にある小さな滝は上御茶屋から引かれた流れを落としている。後世に付け加えられたものであるが、滝口に据えられた三角形の石を富士山に見立て、水の細かく分かれて落ちる様子が白糸を引いたように見えるところから白糸の滝と呼ばれている。この滝から遣水を巡らせた庭園は華やかさはないものの、建物と庭園が一体となり洗練された雰囲気を醸し出す空間となっている。
寿月観の北東にある門から下離宮を出て行く。光格天皇と後水尾天皇を結ぶ線上に寿月観があったとは、何かの偶然なのだろうか?廬山寺の項や閑院宮邸の項で触れたように、朝廷権威の復権に務めてきた光格天皇は、父・典仁親王に太上天皇号を送ろうとした。これが幕府の反対ににあったため、尊号一件と呼ばれる事件が寛政3年(1791)頃に起きている。結果的には天皇は断念し、待遇改善のために典仁親王に1,000石の加増が成されることで妥協している。このような事件が朝廷と幕府の間に発生したこと、そしてそれ以降の尊王思想を助長することになったことから見ると決して小さな事件ではないと思われる。尊王思想の高まりは、およそ70年後の幕末維新へと引き継がれて行くこととなる。そういう意味で光格天皇は後水尾天皇の朝権復活を引き継いだ天皇とも考えられる。
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