泉涌寺 觀音寺陵
泉涌寺 觀音寺陵(かんおんじのみささぎ) 2008年12月22日訪問
来迎院の山門を出て石橋を渡り、左手の石段を登る。この来迎院と善能寺の敷地が、泉涌寺の境内に比べると谷筋にあることが分かる。すなわち泉涌寺が東山へと続く一様の斜面上ではなく、複雑な起伏の上に造られてきた。これがまた泉涌寺を散策する上で方向感覚を失う原因ともなっている。
善能寺と来迎院の間の石段を登り切ると、目の前に泉涌寺の主要伽藍である仏堂と舎利殿が現れる。ここから中に入ると拝観料が必要になるので、觀音寺陵と後月輪東山陵の参拝を先にする。
孝明天皇陵・英照皇太后陵・後堀河天皇陵参道の道標を目印にし、その先に続く参道を上って行く。後堀河天皇陵である觀音寺陵は、来迎院の東、今熊野観音寺の南に位置している。後月輪東山陵へと続く参道の途中から分かれ、觀音寺陵に向かうこととなる。この来迎院の南から始まる参道は御座所の東で終わるが、実際の孝明天皇の後月輪東山陵はさらにその東南の山中、丁度、月輪陵・後月輪陵の真東にあたる場所に築かれている。道標にあった英照皇太后陵すなわち後月輪東北陵は觀音寺陵の東に位置している。
第86代後堀川天皇は、第80代高倉天皇の第2皇子の守貞親王を父としている。
高倉天皇には第1皇子に平徳子を母とする言仁親王、そして守貞親王と同じく藤原殖子を母とする第3皇子尊成親王がいた。治承2年(1178年)生まれた言仁親王は、同年中に立太子している。そして治承4年(1180)に2歳で安徳天皇として即位している。当然のこととして、政治の実権は平清盛が握ることとなっている。
しかし清盛が治承5年(1181)に亡くなると反平家の反乱を止めることができなくなる。そして寿永2年(1183)木曾義仲軍が京都に迫ると、平氏は安徳天皇と剣璽を奉じて西国に逃れる。一ノ谷の戦い、屋島の戦いに次ぎ寿永4年(1185)壇ノ浦の戦いで平氏軍は源氏に対して敗北する。祖母の二位尼すなわち清盛の正室であった平時子が安徳天皇を抱き、海中に身を投じたとされている。平家物語・巻第十一の先帝身投に記された有名な場面である。
平氏とともに安徳天皇が京から落ちた後、残された朝廷は政務の停滞を解消するために新主践祚が必要となり、寿永2年(1183)に神器なくして尊成親王を即位させ、後鳥羽天皇としている。建久3年(1192)までは、後白河法皇による院政が続くが、建久9年(1198)土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳、仲恭と承久3年(1221)まで、3代23年間に渡り上皇として院政を敷く。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が死去すると、後鳥羽上皇は名実ともに治天の君となる。そして鎌倉幕府に対して親和政策を執ってきたが、建保7年(1219)第3代将軍源実朝が暗殺される状況は変化する。鎌倉幕府の実権を握る北条氏との間に不信が増大し、後鳥羽上皇も鎌倉幕府倒幕を考えるようになる。そして承久3年(1221)後鳥羽上皇は、執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こす。しかし幕府の大軍が上京し、わずか2ヶ月で乱は終結する。後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流される。また討幕計画に反対していた土御門上皇も自ら望んで土佐国へ配流されている。
さらに鎌倉幕府は仲恭天皇を廃している。すなわち後鳥羽上皇と2人の子である土御門上皇と順徳上皇、そして順徳上皇の子の仲恭天皇まで、後鳥羽上皇から3代にわたり処罰の対象となっている。さらに守貞親王の第3皇子の茂仁王を即位させ後堀河天皇としたのは、後鳥羽上皇の子孫の皇位継承は認めないとする方針により、非後鳥羽系皇族の擁立が図れた結果である。この時、茂仁王以外に出家していない皇族がいなかったために決まったとも言われている。この時10歳であった後堀河天皇を補佐するために、行助入道親王、すなわち高倉天皇の第2皇子である守貞親王を治天の君として、院政を行わせている。これは天皇に即位していない者が、後に太上天皇号を贈られ院政を行うことは異例の措置である。後高倉院は戦後処理と幕府との関係修復を行うも、2年後の貞応2年(1223年)に亡くなっている。
父の後高倉院の死去以後。親政を行い、貞永元年(1232)院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位している。しかし元来病弱であり、院政開始後2年足らずの天福2年(1234)に23歳の若さで崩御している。その崩御が中宮竴子の死から間もない時期だったため、後鳥羽法皇の生霊のなせる怪異であるなどと噂された。
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