天龍寺 その2
臨済宗 天龍寺派大本山 霊亀山 天龍寺(てんりゅうじ)その2 2009年11月29日訪問
琴きき橋の碑から渡月橋を眺めながら小督塚に至る。この塚自体は後世になって作られたものとされている。塚の西側には民家が建ち、三軒茶屋あるいは三軒家と呼ばれていたようだ。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の小督桜(塚)にも下記のように記されている。
小督桜は大井河の北三軒茶屋の東、薮の中にあり。
このことからも、江戸時代の中期には既に天龍寺の境内外にあり、民家が建っていたことが分かる。なお、この三軒茶屋は元治元年(1864)の禁門の変の後に行われた薩摩軍による長州兵掃討に巻き込まれ、天龍寺と共に焼失したようだ。このあたりのことについては、天龍寺の歴史の中で触れていくつもりである。
小督塚の周辺を歩きながら、嵯峨野の町並み その2、嵯峨野の町並み その3、そして嵯峨野の町並み その4と、かつての亀山殿について想いを巡らしてきた。塔頭の宝厳院の前を過ぎ、天龍寺の境内に入って行くと、正面に法堂が現れる。亀山殿はその建物の基礎まで取り除き、後醍醐天皇を祀るための天龍寺が創建される。この時に、嵯峨野の西に15度触れた道路軸から、ほぼ正確な東西軸の伽藍配置に改められたと考えられる。
正中2年(1325)後醍醐天皇の要請により、夢窓疎石は上洛し亀山法皇が開基となった南禅寺の住持となっている。これは正中元年(1324)に発生した正中の変の直後のことである。この時は、側近の日野資朝らが処分にあったものの、幕府は後醍醐天皇に対しては何の処分も行わなかった。そのため天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけていた。しかし、7年後の元弘元年(1331)に起きた元弘の変では、後醍醐天皇は三種の神器を持って挙兵し笠置山に籠城している。しかし圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に笠置山城は落城している。幕府は天皇が京都からした時点で廃位にし、皇太子となっていた持明院統の量仁親王を即位させ、光厳天皇としている。幕府の捕虜となった後醍醐は承久の乱の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年(1332)隠岐島に流されている。
元弘3年(1333)隠岐を脱出した後醍醐天皇は、名和長年に迎えられ伯耆国の船上山で倒幕の兵を挙げる。京で足利尊氏が六波羅探題を、鎌倉では新田義貞が北条高時ら北条氏一族を滅ぼしたことで、鎌倉幕府は滅亡する。これに伴い後醍醐天皇は赤松氏や楠木氏に迎えられて京に入り親政を開始する。先ず光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止する。その上で光厳天皇が署名した詔書や与えた官位の無効を宣言し、さらに関白の鷹司冬教を解任している。
後醍醐天皇が隠岐島から京に還幸された元弘3年(1333)の6月には、天皇は鎌倉へ勅使を遣わせ、足利尊氏に命じて夢窓疎石を京に迎えている。そして臨川寺の項でも触れたように、世良親王の河端御殿を禅寺に改め、国師を開山として迎えている。臨川寺の開創年を元弘3年(1333)とする説と建武2年(1335)の2つの説があるようだが、臨済禅 黄檗禅 公式サイトの天龍寺のページには、
元弘3年(1333)後醍醐天皇の詔により京都臨川寺開山
と記されている。
もともと臨川寺の地には河端殿があった。この地は亀山上皇の皇女昭慶門院の御所となり、嘉元4年(1306)この地で皇女は出家している。また昭慶門院は後醍醐天皇の皇子世良親王を養育したため、河端殿は世良親王にとって幼少時代を過ごした地でもあった。元亨4年(1324)昭慶門院は55歳で死去すると、亀山上皇より譲与された甲斐国、大和波多小北荘、越前小山荘、備後殖田荘などの多くの荘園を含めて、女院の遺領として世良親王に継がれている。優れた資質を備え、父である後醍醐の期待を一身に受けた親王は、元徳2年(1330)に20歳前後の若さで病没する。生前より夢窓疎石から教えを受けていた世良親王は、河端御殿を禅寺とする予定であったとされている。
建武2年(1335)には、後醍醐天皇を暗殺し政権転覆を企てる陰謀が発覚するなど、相変わらず新政府は安定しなかった。さらに東国でも、新田義貞に討たれた北条高時の遺児時行と叔父の泰家が挙兵して鎌倉を占領する事態が発生する。北条軍討伐を命じられた足利尊氏は、望んでいた征夷大将軍には任命されず、征東将軍という肩書で東国に向かうこととなる。尊氏は鎌倉から高時を駆使した後、政府の帰京命令に従わずに鎌倉に居を置くこととなる。そして鎮圧に従った将士に独自に恩賞を与えるなど、次第に親政に対して離反していく。
同年11月には新田義貞に尊氏討伐の命が下され出陣するものの、足利軍に敗退する。建武3年(1336)1月に足利軍は入京すると、後醍醐天皇は比叡山へ逃れるが、奥州から下向した北畠顕家や義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐することに成功する。同年、九州から再び東上した足利軍は、持明院統の光厳上皇の院宣を得て、5月に湊川の戦いにおいて宮方を撃破し、光厳上皇を奉じて入京する。ここにおいて後醍醐天皇による親政は2年半で瓦解する。
比叡山を降りた後醍醐天皇は、光明天皇に三種の神器を渡し足利方と和睦したかのように見えた。しかし同年12月には京都を脱出し、吉野へ逃れて吉野朝廷を立ち上げている。さらに光明天皇に渡した神器は偽器であり、自分こそが正統な天皇であると宣言する。ここに、吉野朝廷と京都の朝廷が対立する南北朝時代が到来する。そして元中9年(1392)南北朝合一まで約60年間にわたって南北朝の抗争が続く。
後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗しようとする。しかし劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年(1339年)8月15日吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で崩御する。享年52。
玉骨縦埋南山苔 魂魄常望北闕天
玉骨はたとひ南山の苔に埋むるとも霊魄は常に北闕の天に望まんと思ふなり
太平記には、上記のような朝敵を討滅し、京都奪回を望む壮烈な遺言が記されている。
入京した尊氏は光厳上皇の弟光明天皇を即位させ、持明院統による北朝を樹立する。建武3年(1336)11月
夢窓疎石は、後醍醐天皇による親政が始まった時期、すなわち建武元年(1334)南禅寺に再住している。そして建武の親政が崩壊し、後醍醐天皇が延暦寺に行幸する延元元年(1336)には、国師もまた南禅寺を辞任し臨川寺に帰休している。天皇の蒙塵を座視することができなかったための行動とも読み解ける。
夢窓疎石が足利尊氏を知りえたのも北条氏が滅亡する元弘3年(1333)の頃とされている。尊氏は臨川寺に国師を訪れ参禅し、後に入道し道号を仁山としている。暦応2年(1339)4月、疎石は西芳寺に移り、荒廃衰微した教院を復興するとともに禅寺に改めている。天平年間(729~49)行基が始めた49院の一つとして、法相宗の西方寺という教院が建てられた。後に嵯峨天皇なられる真如法親王が住され、真言宗開祖である空海が入山し黄金池にて放生会を行った寺院とされている。
また鎌倉時代に入り、摂津守の中原師員が再興し、西芳寺と穢土寺に分けている。法然により浄土宗に改宗され、親鸞も愚禿堂を建立し寺に滞在している。 鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼が桜堂を建立したためか、建武年間に再び寺は荒廃している。
夢窓疎石を西芳寺に招請したのは松尾大社の宮司藤原親秀であったとされている。この時に西方寺と穢土寺は再び統一され西芳寺と改められている。寺名の「西芳」は「祖師西来 五葉聯芳」という、禅宗の初祖達磨に関する句に由来している。
この暦応2年(1339)に国師は、自らが見た「吉野の天皇が法体で鳳輦に乗り亀山殿に入られる」夢を門人に語っている。正に南朝延元4年(1339)8月16日、後醍醐天皇は吉野で崩御されている。国師は足利尊氏に説き、朝廷に奏上して亀山殿を寺院に改めている。
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