大徳寺 芳春院 その2
大徳寺 芳春院(ほうしゅんいん)その2 2009年11月29日訪問
芳春院の本堂南庭は花岸庭と呼ばれる新しい庭。松子が好んだとされる桔梗の花が一面に生い茂る庭を1989年に中根金作が禅宗の南庭の様式を守り、なおかつ、どことなく女性的な雰囲気を漂わせる美しく優しい庭に改めている。白砂を敷き詰めた方形の庭の奥に苔地と石組みを築くことは、南禅寺本坊庭園などと同じ手法である。単に自然の雄大さを表現すると白砂の大海に対して陸地を表わす苔地の曲線が単調なものとなってしまう。二次元的には小さな入り江状の部分を何箇所か設け、苔地全体に緩やかな三次元的な動きを与えることで女性的な柔らかさが表われたと思う。また南庭正面に中門がないために、軸線や対象性を必要としない庭となっていること。さらには平面的で丸みを帯びた石を多く用いたことなどがこの庭の印象を深めることとなっている。 本堂西庭は呑湖閣へのアプローチ空間となっている。また飽雲池へ注ぐ水も西庭の西南から採っていることが分かる。ここには北庭の要素も現れているものの、南庭と結ぶために表現過多となっていない点が好感を持てる。
本堂南庭が禅宗の様式を守った枯山水となっているのに対して、北庭は大徳寺山内では唯一の池泉庭園となっている。確かに禅刹の大徳寺の庭といえば枯山水の印象が強く、このような池泉回遊様式の庭を思い浮かべることが少ない。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも呑湖閣は以下のように記されている。
呑湖閣〔横井氏田屋等造る〕又有飽雲享打月橋
また、方春院の図絵も掲載されている。この図絵は寛政8年(1796)の焼失直後に発行されたものであるため、焼失前か再建後の姿を表わしたものかは判断できない。 飽雲池や打月橋の形状は現在と同じように見える。しかし打月橋の架けられた角度が異なる点、中之島へ架かる木橋が切り石橋に変わっている点、そして庭の広さと楼閣の規模のバランスが異なっているように思われる。また図絵では滝石組より飽雲池に水が注いでいたことが確認できるが、現在は枯れている。恐らく西庭から水を引いているのは、水路の変更があったためであろう。あくまでも図絵であるので全てを信用できないが、少なくともこの図絵に描かれ後にも、何度か庭は改造されているようだ。
ほあぐら さんのHP 日本庭園紀行に掲載されている芳春院では、
庭園は書院と呑湖閣という楼閣の間に展開しており、斜面を利用して立石多く意欲的な意匠となっている。石が散漫で雑然としているのは、江戸中期の庭の特徴でもあるが、やはり植栽が繁茂し過ぎているように見える。
と指摘し、以前の写真を掲載されている。確かに現在の庭よりも木々が繁茂していたことが分かる。ただ植栽を減らしたことによって、特に祠のある築山のあたりの石組みがよく分かるようになっている。そのため律動感もなくただ雑然と並べたように見えるのは如何なものかと思う。植栽も見栄えの良い紅葉樹を多く残し、その分低木の刈り込みを少なくしたため、地肌がのぞくような状況になっている。智積院の例を出すまでもなく、斜面地の庭はもう少し密度を上げないと疎に見えてしまう。せめて苔あるいは芝がもう少し青々とすれば印象が良くなるのではないだろうか。
現在の北庭において、呑湖閣の存在が大き過ぎるように思われる。多分、今回の訪問が2度目となるが、最初に訪れた時にも同じ印象を得た。大正5年(1916)本堂北側に書院を建て増したため、北庭の間口が半分になったのではないだろうか? 書院西面が浮殿のような表現となっているのは、本来の飽雲池の汀がもう少し東側にあったことを意味しているように思える。もしそうであれば、呑湖閣の規模は適正であったのであろう。
書院の東側には、迷雲亭と四畳半下座床の如是庵が見える。これ以外にも芳春院には二畳二台目の落葉亭と七畳出床席の松月軒などがあるとされている。
かつて東隣に高林庵があった。高林庵由緒書によると、法名を求めた片桐石州に大徳寺第185世玉舟宗璠が応じ、高林庵三叔宗関居士を授けている。その片桐石州が累代の香華院とすることを発願し、寛永15年(1638)に一庵を創建し、玉舟宗璠を開山として迎えたのが高林庵である。また天明7年(1787)にまとめられた大徳寺末寺帳には準塔頭という位置付けになっている。しかし明治期に入り衰退し、明治11年(1878)には仏像を安置する小室となり、芳春院が法務を行なってきた。この時、境内地580坪、宅地238坪と墓地を所有していた。その後、再興され玉舟宗璠の像を祀る。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも高林菴は下記のように記されている。
高林菴〔芳春の寮舎、芳春の裡にあり、玉舟和尚塔所。慶長中立。其後寛永中片桐石見守貞昌再建、貞昌は和州小泉邑領一万石〕
客殿中ノ間 山水 探幽筆
檀那ノ間 人物 同 筆
礼ノ間 山水 安信筆
衣躰ノ間 山水 益信筆
大書院 山水 常信筆
玄妙ノ額 後西院帝宸書
なお、竹貫元勝氏の「紫野 大徳寺の歴史と文化」(淡交社 2010年刊)によると、この高林庵以外にも芳春院には寮舎として松月軒、通玄庵、貞岳庵、大源庵、瑞源院などがあったとしている。
通玄庵は創建年次不詳となっているが、玉室宗珀の法嗣で第171世義峯宗寔が開祖の寮舎。通弦院は、江戸時代初期の大工頭であった中井大和によって芳春院裏に建てられるが廃れている。文政年間(1818~30)大徳寺第418世で芳春院13世の宙宝宗宇が場所を般若池北草山裏に移して小宇を造り復興したとも、芳春院内に移建したともいわれている。北派の寮舎として護持されてきた。
貞岳庵は第111世春屋宗園の安禅室といわれ、天正年間(1573~92)に播磨三木(兵庫県三木市)の別所主水正重棟が聚光院北に創建し、後に芳春院に所属する。明治維新後芳春院に統合される。
大源庵は元和8年(1622)近江の浅井氏の出とされる横井氏正栄尼が玉室宗珀のために大徳寺北の上野村(北区紫竹牛若町)東の源義朝の別荘があったという跡地に創建した退居坊。あるいは正栄尼が先に亡くなった2人の子供の冥福を祈るために建てたともいわれている。玉室宗珀は大源庵を法嗣の第190世天室宗竺に付与したため、大源庵第2世の天室を開祖とする説もある。その後、蜂須賀家が檀越となる。芳春院六寮舎の一つで北派独住により護持されてきた。なお大源庵の旧地には、源義経産湯井遺址の碑が建つ。碑文には、この地に源義朝の別業があったこと、玉室宗珀が大源庵を開きその後に荒廃したことも記されている。
松月軒は寛永年間(1624~44)に始まる。西加茂の正伝寺裏に旧地が在リ、澤庵宗彭の弟子の説渓演首座が聚光院の裏に移す。説渓演首座の没後、第211世で芳春院第3世の一渓宗什が芳春院門内の左に移建する。これ以降、芳春院住持の退休の坊となる。文化5年(1808)東海寺輪番を終えた芳春院13世宙宝宗宇が退居している。北派の寮舎として護持されるも、明治維新後に芳春院に統合される。
瑞源院は龍光院の開山となった江月宗玩の法嗣で第176世安室宗閑が開祖となる寮舎。福山城主の水野勝成が父の忠重のために大光院の西に創建し、忠重の法名を院号とし江月宗玩に開祖を請う。江月が安室宗閑に付し塔頭としている。そのためか安室の伝では瑞源院二世となっている。元禄11年(1698)水野氏が断絶したため、塔頭を辞している。北派独住で護持されてきたが、明治の廃仏棄釈で廃寺となる。紫野高校北門横に瑞源院趾の石標が残る。なお寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会では、瑞源院を下記のように芳春院の寮舎としている。
瑞源院〔芳春院の寮舎、大光の西にあり。江月を開祖とす。水野日向守源勝成所造、備後福山の城主なり〕
客殿中ノ間 墨絵人物 等益筆
礼ノ間 山水 同 筆
檀那ノ間 耕作 同 筆
芳春院は特別公開の際でも撮影禁止となったという記事がネット上で多く見かける。しかし今回の訪問の時にはそのような説明も注意も受けずに自由に行なえたことより写真を掲載いたしました。
「大徳寺 芳春院 その2」 の地図
大徳寺 芳春院 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 大徳寺 芳春院 山門 | 35.0443 | 135.7455 |
02 | ▼ 大徳寺 芳春院 中門 | 35.0449 | 135.7454 |
03 | ▼ 大徳寺 芳春院 庫裏 | 35.0451 | 135.7453 |
04 | ▼ 大徳寺 芳春院 玄関 | 35.0449 | 135.7452 |
05 | ▼ 大徳寺 芳春院 方丈 | 35.0451 | 135.7451 |
06 | ▼ 大徳寺 芳春院 呑湖閣 | 35.0452 | 135.7448 |
07 | ▼ 大徳寺 芳春院 書院 | 35.0452 | 135.7451 |
08 | ▼ 大徳寺 芳春院 迷雲亭 | 35.0453 | 135.7452 |
09 | ▼ 大徳寺 芳春院 如是庵 | 35.0452 | 135.7453 |
10 | ▼ 大徳寺 芳春院 花岸庭 | 35.0449 | 135.7451 |
11 | ▼ 大徳寺 芳春院 墓参門 | 35.0449 | 135.7449 |
12 | 大徳寺 芳春院 霊屋 | 35.0451 | 135.7444 |
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