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大徳寺 興臨院 その3



大徳寺 興臨院(こうりんいん)その3 2009年11月29日訪問

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大徳寺 興臨院 方丈南庭

 芳春院の長い参道を歩き、再び大徳寺の庫裏と法堂に戻る。この後は春と秋に特別公開を行なっている興臨院と黄梅院を訪問するため、勅使門まで南に下る。

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大徳寺 興臨院 山門 2008年5月19日撮影
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大徳寺 興臨院 庫裏と玄関へと続く参道

 興臨院は2008年5月に訪問して以来、昨年の秋にも訪問しているので、3回目の訪問となる。同じ時期ではあるものの、昨年より一層紅葉が美しいので非常に楽しみである。

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大徳寺 興臨院 方丈玄関
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大徳寺 興臨院 方丈南庭
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大徳寺 興臨院 方丈南庭

 大永年間(1521~ 28)能登の戦国大名畠山義総が、大徳寺86世小溪紹怤を開山として興臨院を建立し、以来畠山家菩提寺となる。
 畠山義総は延徳3年(1491)能登畠山氏の第5代当主畠山慶致の子として生まれている。祖父で第3代当主であった畠山義統が明応6年(1497)に没し、家督は義統の嫡男であった義元が継ぐこととなる。父の義統と違い統率力が無かった義元は、3年後の明応9年(1500)守護代遊佐統秀らの謀反により越後に追放されている。畠山家の家督は、義元の弟畠山慶致に移り、第5代当主となっている。
 しかし永正3年(1506)北陸で一向一揆が起こる中、義元と協力関係にあった足利義稙が将軍に復帰している。このような情勢の変化により、畠山家臣団の中で義元復帰を望む声が上がる。自分の嫡男である畠山義総を義元の養嗣子とする条件で、慶致は隠居して義元が当主として復帰することとなる。当主に復帰した義総は上洛して義稙の側近として仕えた。永正10年(1513)能登で家臣による反乱が起こると帰国し、義総と共に鎮圧している。永正12年(1515)死去。
 永正12年(1515)家督を継ぎ第7代当主となった義総は、実父である慶致と共に共同統治を開始する。そして大永5年(1525)慶致が没する。

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大徳寺 興臨院 方丈南庭
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大徳寺 興臨院 方丈南庭

 義総の時代に居城を七尾の城山に移し、天下の名城ともよばれる七尾城を建設している。また、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、さらには商人や手工業者にも手厚い保護を与えている。そのため義総治世の七尾城下町は、小京都とまでよばれるほどに発展している。天文14年(1545)病死。享年55。後を次男の畠山義続が継ぐが、義総の死により重臣たちの主導権争いが始まり、この後能登畠山氏は急速に衰退していくこととなる。そういう意味でも、義総の時代は能登畠山氏の全盛期であった。
 興臨院が開創したとされている大永年間(1521~ 28)とは、義総が第7代当主となり実父の慶致と共同統治を行なっていたか、あるいは自らの力で歩み始めた時期だと思われる。

 開山として迎えられた小溪紹怤は、文明7年(1475)美濃国金華に生まれている。はじめに建仁寺で掛錫していた小溪は、後に龍源院派の東溪宗牧に師事している。永正14年(1517)に東溪が寂すると、法兄の第79世悦溪宗忢を師とし、永正17年(1520)印可証が与えられる。そして大永5年(1525)大徳寺第86世として奉勅入寺している。天文元年(1532)には、後奈良天皇より仏智大通禅師の諡号を賜る。天文5年(1536)入寂。

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大徳寺 興臨院 方丈南庭
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大徳寺 興臨院 方丈南庭

 竹貫元勝氏の「紫野 大徳寺の歴史と文化」(淡交社 2010年刊)によると、大永年間に創建された興臨院は火災に遭い、天文年間(1532~55)に第9代当主畠山義綱によって建立されたとしている。そして畠山義綱は、天文14年(1545)に没し、法名の興臨院殿伝翁徳胤に因って塔頭名として創まるとしているが、これは畠山義総の誤りであろう。義綱は文禄2年(1594)まで生きており、法名も興禅院華岳徳栄としている。畠山義綱は天文21年(1551)父の義続が前年に起きた能登天文の内乱での責任を取って隠居したことで、家督が譲られている。そのため義綱政権の初期では、義続が後見人となっていたため、義綱の主体的な行動はこの時期に見られない。また同様の記述は、寛政11年(1799)年に刊行された都林泉名勝図会の興臨院にも見られる。
     興臨院〔仏智大道禅師小渓紹応和尚塔所、
          天文年中能州畠山左衛門佐義綱建立、
          法号興臨院伝翁徳胤、天
          文十四年七月十二日卒〕

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大徳寺 興臨院 方丈西庭

 これに対して、川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)で、興臨院の創立は小溪紹怤の大徳寺退院後の退居寮として営まれたと考えている。小溪は大永6年(1526)2月に退院し、天文2年(1533)の院敷地の拡充のための土地取得している。すでにこの時点には興臨院が存在していなければならないことから、この7年間に興臨院が開創したと推測している。
 その後畠山家が没落すると、前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となり庇護される。先にあげた林泉名勝図会の興臨院にも以下のような記述がある。

     加州大守大納言前田筑前守菅原利家卿重修す、
     法号高徳院贈一位、慶長四年閏三月三日卒、六十二歳

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大徳寺 興臨院 方丈西庭

「大徳寺 興臨院 その3」 の地図





大徳寺 興臨院 その3 のMarker List

No.名称緯度経度
01  大徳寺 興臨院 山門 35.0423135.7457
02  大徳寺 興臨院 庫裏 35.0424135.7455
03  大徳寺 興臨院 玄関 35.0423135.7454
04  大徳寺 興臨院 方丈 35.0424135.7453
05  大徳寺 興臨院 南庭 35.0423135.7452
06  大徳寺 興臨院 西庭 35.0424135.7451
07  大徳寺 興臨院 北庭 35.0425135.7452
08  大徳寺 興臨院 涵虚亭 35.0425135.7454

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