京都御苑 染殿井
京都御苑 染殿井(きょうとぎょえん そめどのい) 2010年1月17日訪問
縣井に続き京都御苑内に残る井戸として京都迎賓館の東側にある染殿井を取り上げる。井戸の傍らに建てられた案内板の説明は、かつてこの地にあった染殿第が中心となっている。その末尾に
ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれているのも、かつての染殿第にちなんだものでしょう。
と井戸の来歴に少し触れている。この井戸が染殿第の頃から使われてきたかは、どうも明らかではないようだ。
駒札にもあるように染殿第は、人臣として初めて摂政となった藤原良房の邸宅のことである。良房は藤原北家・藤原冬嗣の二男として延暦23年(804)に生まれている。その子孫達も相次いで摂関となったことから、藤原北家全盛の礎を築いた人物とされている。嵯峨天皇より厚い信任を受けた良房は、皇女・源潔姫が降嫁されたことから始まるといってもよいだろう。この降嫁は史料の上から明らかとなっている最初の事例でもある。潔姫が正室となった良房は側室を迎えることが出来なく、後嗣に恵まれなかったことから兄の長良の三男・基経を養嗣子とせざるを得なかった。少し話しが後の時代に逸れてしまうが、良房の跡を継いだ基経は清和・陽成・光孝・宇多の四代の天皇に仕えることとなる。実際のところ、仕えるという言葉とは似合わないことを行っている。先ず陽成天皇を暴虐であると廃し、光孝天皇を立てている。そして宇多天皇には最大の屈辱を与えることとなる阿衡事件を引き起こしている。このような振る舞いができたのも天皇をも越える権力を掌握していたためである。つまり良房、基経の二代によって人臣による摂関政治が始められた訳である。
良房は妹の順子を当時東宮にあった正良親王の妃としていた。天長4年(827)に順子は正良親王の子として道康親王を生んでいる。正良親王は天長10年(833)に即位し仁明天皇となると、良房は天皇の実父である嵯峨上皇の支援を受けて急速な昇進を始める。承和年間(834~48)に正三位に叙せられ、蔵人頭、参議を経て権中納言に遷り、陸奥出羽按察使、右近衛大将を兼ねている。
仁明天皇の東宮には淳和上皇の皇子恒貞親王が立てられていたが、承和9年(842)の嵯峨上皇の崩御直後に起きた承和の変により、恒貞親王は廃され道康親王が立太子されている。事件後に、良房は大納言に転じて、民部卿、左近衛大将を兼ね、さらに承和15年(848)には右大臣を拝している。承和の変と橘逸勢については、御霊神社・下桂、変と檀林皇后については梅宮大社 その2で触れているので、そちらもご参照下さい。ともかく良房は承和の変によって道康親王を皇太子に立てることに成功したばかりか、大伴氏と橘氏に対して痛撃を加え同じ藤原氏の愛発と吉野をも失脚させている。一般的には良房は変を利用して自らの権力拡張と他氏排斥を行ったとされているが、桓武天皇の子である平城、嵯峨そして淳和天皇の兄弟王朝迭立が解消され嵯峨天皇直系王統が成立した事件とも見ることもできる。良房にとって長く権力を維持する上で、王統を嵯峨天皇系に収束する必要があったことは確かである。
承和の変が終結した後の嘉祥3年(850)、道康親王が即位し文徳天皇となると良房は潔姫が生んだ明子を女御に入れている。同年中に明子に第四皇子惟仁親王が生まれると、異例にも生後8カ月で立太子させている。文徳天皇には更衣・紀静子との間に第一皇子惟喬親王が既にいたが、良房の圧力により惟仁親王を皇太子とすることを認めざるを得なかったのであろう。良房も嘉祥4年(851)正二位に昇り、その翌年には左近衛大将を兼ね続日本後紀の監修も行っている。さらに斉衡4年(857)太政大臣を拝命し従一位へ進んでいる。このような良房への権力の集中化とともに、実の娘を女御として入内させ外戚関係を築いてきたにもかかわらず、文徳天皇との間の軋轢はさらに拡大していった。そして惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位をも検討していた最中の天安2年(858)文徳天皇の病状が急変している。
文徳天皇の崩御に伴い惟仁親王は清和天皇としてわずか9歳で即位する。そして元服の2年後となる貞観8年(866)に良房は兄長良の女の高子を25歳で入内させ女御としている。高子は基経の同母妹にあたるため、良房は次代の外戚関係の構築をも果たしたこととなる。
この貞観8年の年には応天門が放火炎上する事件が起きている。伴善男が右大臣・藤原良相に対して源信が犯人であると告発を行っている。つまり伴氏を恨んでいた源信が、大伴氏造営の応天門に火を付けたという理由である。良相は源信の捕縛を命じて兵を出したが、良房が清和天皇に奏上し源信を弁護したことにより、源信は無実となり邸の包囲を解かれている。
その後、応天門放火の犯人は伴善男・中庸親子であると訴えが出たため、天皇は勅を下し伴善男の取調べを命じている。1か月を超える取り調べにより伴善男らが放火を行ったと断罪され、流罪が決している。約20年前の承和の変をここに再現した良房は、さらに伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、同年8月19日に清和天皇より摂政宣下の詔を与えられている。
染殿井の位置は、京都迎賓館の築地の北東角から少し南に入った、苑路から少し離れ迎賓館に近づいた場所にある。この染殿井のある場所は左京四坊北辺八町にあたり、染殿があったと考えられている左京四坊北辺七町の北側の敷地となる。この地の来歴については、「京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 平安京左京北辺四坊八町跡」(京都市埋蔵文化財研究所 2004年発行)が詳しい。正に京都和風迎賓施設建設工事に伴う発掘・試掘調査の報告書である。先ず、藤原時平の娘の藤原褒子の邸宅・京極院、そして東南部にあったと考えられている藤原顕忠邸の名があがるが、「他にどのような人が住んでいたか不明である。」としている。時代が下り平安時代中期後半となると、藤原道長の妻となった源倫子の西北院の敷地となっている。中世以降は当地域の住人を記録した史料がなくなる。周辺では鎌倉時代から室町時代の遺構・遺物が検出され、高倉通と正親町通に面した上京の東南辺部に含まれたことから、町屋となっていたと考えられている。さらに室町時代には一条道場が造られるが、東洞院土御門殿が内裏となると、信長や秀吉による御所修造が行われるのに伴い周辺に公家の邸宅が建てられ、公家町が形成されている。 染殿井はかつての染殿があったと考えられている左京四坊北辺七町とは異なった場所に存在していることから、後の時代に染殿に因んで設けられたものと考えることが出来る。
京都の三名水として縣井、醒ヶ井とともに染井をあげることがある。縣井についても拾芥抄には下記のように記されている。
井戸殿 又縣井戸 一条北東洞院西角
縣井と染殿井は、京都御所を挟んでほぼ御苑の西端と東端に左右対称となるように並んでいる。しかし三名水にあげられている染井は、染殿井ではなく御苑外の梨木神社にある井戸である。染井は現在も現役の井戸で、水を取りに来る人が絶える事がないほどの人気である。梨木神社の公式HPには染井の由来が掲載されている。もともと藤原良房の染殿にあった井戸の水は宮中御用の染所の水として使われてきたようで、甘くまろやかな味は茶の湯に適するとされてきた。神社では昭和35年(1960)に染井会を発足し名水の保存を図っている。現在も社中にある虚中庵で月釜を開催している。
ちなみに貞享2年(1685)の纏められた「京羽二重」(京都叢書第6巻 京羽二重 京羽二重織留大全 光彩社 1968年刊)にも以下の名が見える。
落星井 少将井 いさら井 墨染井 常盤井
走井 甘露水 菊水井
「京羽二重」の補遺として元禄2年(1689)の「京羽二重織留大全」(京都叢書第6巻 京羽二重 京羽二重織留大全 光彩社 1968年刊)では霊泉として次の名をあげている。
千代野井 児の井 百夜月井 山の井 利休井
威徳井 式部井 常盤井 橘次井 小醒井
法印井 畠山井 松本井 漱玉泉 五井
ほぼ同時期の元禄3年(1690)に出版された「名所都鳥」(京都叢書第9巻 名所都鳥 堀川の水 都名所車 京内まいり 光彩社 1968年刊)では郡毎に順番を付けて記している。
愛宕郡
第一 千代野井
第二 常盤井
第三 縣井
第四 石井
第五 少将井
第六 鴨井
第七 松井
第八 滋井
第九 飛鳥井
第十 玉井
第十一 内記井
第十二 山之井
第十三 菊水井
第十四 松本井
第十五 半井
第十六 醒井
第十七 橘次井
第十八 安居院法印井
第十九 利休井
第二十 児井
第廿一 和泉式部井
第廿二 威徳井
葛野郡
第一 薬師井
第二 潦井
第三 落星井
紀伊郡
第一 甘露水
第二 墨染井
乙訓郡
第一 塩汲井
宇治郡
第一 百夜月井
第二 和泉式部井
第三 走井
少し時代の下った宝暦4年(1754)の「山城名跡巡行志」(京都叢書第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑 光彩社 1968年刊) に名井として下記の名をあげている。
御井 井戸ノ井 縣井 滋野井 石井
内記ノ井 常盤井 山ノ井 飛鳥井 少将ノ井
桜井 千貫井 少井 醒井 亀ノ井
椋木井 槿花井 柳井 梅雨井 清和水
清明水 常盤井
上記の江戸時代に出版された地誌や「京都坊目誌」に染井の名が見えないことから、後の時代になってから藤原良房の染殿に因んで名付けられた井戸と思われる。昭和36年(1961)年に刊行された竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻3」(白川書院 1961年刊)の梨木神社には井戸の記述がないが、昭和59年(1984)の「昭和京都名所圖會 洛中」(駸々堂出版 1984年刊)には下記の記述を見ることが出来る。
染井は境内の手水舎の井水をいい、水は極めて清冷で、四時枯れることがない。藤原良房の染殿院の旧知に因んで名付けたいわれ、県井・祐ノ井とともに京都御所三名水の一に数えられている。
この記事へのコメントはありません。