京都御苑 閑院宮邸 その2
京都御苑 閑院宮邸(きょうとぎょえん かんいんのみやてい) 2010年1月17日訪問
四世襲親王家の最後は、東山天皇の第6皇子・直仁親王が享保3年(1718)正月に創設した閑院宮。すでに2008年5月に京都御苑 閑院宮邸として一度書いているのでそちらもご参照下さい。
閑院宮の宮号は霊元上皇より賜ったものであるが、清和天皇の皇子・貞元親王の号であった閑院に由来する。宮家創設にあたっては新井白石の建議があった。すなわち、伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧されるならば天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという考えである。
閑院宮は第5代まで順調に父子相続が続く。第2代典仁親王は、寛保2年(1742)2月、桜町天皇の御猶子となり、翌3年(1743)9月に親王宣下を受けている。第3代美仁親王も宝暦12年(1762)12月、先代と同じく桃園天皇の御猶子となり、翌13年(1763)10月に親王宣下を受ける。第四代孝仁親王は、文化4年(1807)12月、光格天皇の御猶子となり、翌5年3月に親王宣下を受け、第5代愛仁親王も、文政7年(1824)2月に父宮の薨去によって7歳で家督を継ぎ、同11年(1828)4月光格上皇の御猶子となり、まもなく親王宣下を受けている。
第2代典仁親王の第1王子が第3代閑院宮となった美仁親王であるが、第6王子の師仁親王が安永8年12月4日(1780)に第119代光格天皇として即位している。元々は聖護院に入寺し出家する予定であった。しかし皇子のいなかった後桃園天皇が安永8年10月29日に崩御し、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者として伏見宮貞敬親王、閑院宮美仁親王と美仁親王の弟・祐宮師仁親王の3人が上げられ、先帝の唯一の遺児である欣子内親王を新帝の妃にすること、世襲親王家の中で天皇と血筋が近いことから師仁親王が選ばれている。安永8年(1780)11月25日に践祚、直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。光格天皇は性格温厚で周囲の信望も厚く、多くの尊敬を集めたとされる。朝廷の儀式の復旧にも努め、石清水八幡宮や賀茂神社の臨時祭の復活にも寄与している。また平安末期に断絶した大学寮に代わる朝廷の教育機関の復活を構想していた。これは仁孝天皇の時代に実現し、孝明天皇により学習院の名称が定まった。
世襲親王家からの即位は、伏見宮貞成親王の第1王子・彦仁王が第102代後花園天皇に、そして有栖川宮第2代の良仁親王が第111代後西天皇、そして第119代光格天皇の3例だけである。後西天皇の父は後水尾天皇であったが、伏見宮貞成親王には文安4年(1447)太上法皇としての院号・後崇光院が奉られ、法皇として遇されることになっている。しかし翌年には院号を辞退している。
光格天皇も実父である典仁親王に尊号を贈ろうと考え始めたのが何時のことかは定かではないが、中山愛親の家記には天明8年(1788)4月に後高倉院と後崇光院の前例を調べたことが残っている。当時光格天皇は18歳であった。偶然ではあるが時の将軍・徳川家斉も安永2年(1774)10月5日に一橋治済の子として生まれ、天明元年(1781)閏5月18日、将軍家治の養嗣となり同6年(1786)9月8日家治を継いで第11代将軍となっている。光格天皇が明和8年(1771)8月15日生まれであるから、ほぼ同じ時期に良く似た境遇のもとに天皇と将軍に就任している。さらに将軍家斉もまた生父治済に大御所の称号を贈ろうとしていた。このことが、天明7年(1787)6月19日に老中上座に就いた松平定信を辞職に至るまで苦しめることとなった。徳富蘇峰の「近世日本国民史 松平定信時代」(時事通信社出版局 1964年刊)にもこの第24巻のほぼ半分を尊号一件の経緯に費やしている。この事件はその後の尊王思想の台頭にもつながるため、蘇峰はことさらに詳しく書いたのであろう。
寛政3年(1791)正月26日に鷹司輔平からの尊号宣下についての再考を促す照会文が届く。定信が再度不可であることを説いたところ、尊号宣下を行わず待遇の改善を申し出てきた。家康の時代に定められた禁中並公家諸法度17箇条では、極位の親王であっても殿上の席次は、関白は勿論として左右大臣よりも下に設定されている。尊号宣下が政治的な闘争ではなく、光格天皇の孝心から生じたことが分かる。江戸側は在来の1000石、天明4年(1784)以来の一品宮一代限りの1000石に、更に1000石を追加することで対応することにした。しかし同年8月20日に鷹司輔平が関白を辞し、同日一条輝良に替ると京都側の態度が一変して強硬となる。そして同年12月に参議以上の諸公卿に対して尊号宣下についての諮問を行っている。5人の反対は出たものの35人の賛同を得た。江戸側は寛政4年(1792)8月4日に太田備中守を病と称して免じ、新たに堀田相模守を所司代に任命し尊号宣下御無用を明確に表明している。この後、尊号宣下は停止、武家伝奏の正親町公明と議奏の中山愛親の江戸下向を認めざるを得なくなった。2月10日に江戸に到着した両卿は計3回の問答が行われ、官職を免じた上で閉門逼塞の処分が決定する。この一件に於ける首謀者を中山愛親と見なした江戸側は、定信の辞職後も中山に対する監視は続けられた。それは天皇に近づくことで新たな事件の勃発や尊号宣下の再発を引き起こす可能性を考えての予防策でもあった。
明治17年(1884)3月19日、明治天皇は太上天皇の号を贈り、慶光天皇と称するようになった。そして同年に中山愛親に対して従一位が贈られている。
閑院宮は第5代の愛仁親王が、継嗣のないまま天保13年(1842)9月に25歳で薨じたため、先代の妃藤原吉子(微妙覚院)を御家主御同様として宮家の維持を図っている。さらに慶応元年(1865)9月に伏見宮邦家親王の庶子として生まれ、既に醍醐寺三宝院に入っていた易宮に空主の閑院宮家を継がせている。明治5年(1872)正月、第6代載仁親王となった。ついで同35年(1902)8月に生まれた春仁王が、昭和二十年(1945)5月に父宮の薨去により第7代を継いでいる。昭和22年(1947)10月、他の十宮家と同じく皇籍離脱し閑院を家名とし、閑院純仁に改名している。戦後は実業に成功するも実子がなく、後に夫人とも離婚している。昭和63年(1988)に死去したことにより閑院宮家は断絶している。
閑院宮邸は公家町南西にあり、明治に入り閑院宮家が東京に移ってからは華族会館や裁判所として一時使用された。明治16年(1883)の大内保存事業完了後は宮内省京都支庁、厚生省管理事務所などを経て近年は環境庁京都御苑管理事務所として使われてきた。平成18年(2006)3月に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた収納展示室と庭園を開放している。
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