廬山寺 その2
天台系圓浄宗本山日本廬山 廬山寺(ろざんじ)その2 2010年1月17日訪問
寺町通を挟んで梨木神社の東側に廬山寺の山門が見える。前回2008年5月13日は、仙洞御所と京都御所の拝観前の時間を利用して、廬山寺の「源氏庭」と呼ばれる庭園を鑑賞させて頂いた。今回は本堂には上がらず、境内の様子と前回訪問できなかった東側の廬山寺墓地を調べる。
廬山寺の公式HPには、天台圓浄宗大本山 廬山寺とある。また、いつもお世話になっている「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)によれば、廬山寺は圓浄宗の本山で山号は日本廬山、本尊は薬師如来とある。その成立は天慶元年(938)に良源が北山に創建した与願金剛院である。良源は延喜12年(912)近江国浅井郡虎姫(現在の滋賀県長浜市)に生まれた平安時代の天台宗の僧侶。諡号は慈恵大師であるが一般には通称の元三大師で知られている。第18代天台座主、比叡山延暦寺の中興の祖とされている。中世以降は厄除け大師として信仰を集める。 良源によって北山に建立された与願金剛院が、寛元3年(1245)後嵯峨天皇の勅により船岡山の南麓に法然上人の弟子である住心房覚瑜によって再建されている。この時、中国の廬山の慧遠が住心の戒香薫修に応じて来現し廬山の二字を残したことにより寺名を廬山天台講寺と改めている。戒香薫修とは「戒律を保つと、その功徳がしぜんに身にそなわり、やがては広く人々に伝わって、徳高き人と尊敬されよう」という意味で、芳香が四方に薫る様を喩えている。慧遠とは中国の東晋時代に廬山に住んだ高僧であるので、鎌倉時代の住心を訪ねて日本に来た訳ではなく、住心の眼前に「現れた」ということである。廬山天台講寺は天台宗の別院となり天台・法相・真言律・浄土の四宗兼学の寺院となる。
「山城名勝志」(「新修京都叢書 山城名勝志 乾」(光彩社 1967年刊))には仁空上人が記したとする「廬山寺住持ノ次第」に以下のように説明している。
本願住心上人開山本光上人禅仙云云 寛元三年覚瑜住心上人建テ二仏閣ヲ於出雲路ニ一号ス二廬山ト一 本光上人結テ二草菴於北小路ニ一開ク二法崛ヲ一 故ノ明導上人伝ヘ二両方之師跡ヲ於一身ニ一合ス二二箇ノ之寺院ヲ於一処ニ一
廬山天台講寺の本願を住心、開山を本光禅仙としている。住心が出雲路に仏閣を建て廬山と号し、本光は北小路に草庵を結び道場を開いている。そして明導上人が二人の跡を伝領しニヶ寺を一処に併せている。「山城名勝志」は明導が一寺院に統合した時期を元享(1321~23)の頃としている。さらに「応仁記」より「廬山寺ノ南一条大宮ハ細川備中守ガ館也」を引用し、「元在二安居院北大宮廬山寺町一、今遷二京極鷹司北一天台律法相浄土四宗兼学」と説明している。また「山州名跡志」(「新修京都叢書 山州名跡 坤」(光彩社 1968年刊))では「初ノ所レ開ク猪ノ隈一条ノ北也。」としている。応仁の戦以前の京の景観を現わしたとする中昔京師地圖には七ノ社の南に廬山寺と記されている。七ノ社は檪谷七野神社であるから、現在の上京区中社町から東社町にかけて存在していた。この両町ともに廬山寺通の南北町であり、その通りに名を残している。この旧寺地はかつて比叡山東塔竹林院の安居院があった前之町の西、船岡山の東南に位置する。ただし「応仁記」の一条大宮の北に廬山寺があったとする記述はどうも正しくないように思える。
これまでの経緯を纏めると以下のようになる。平安時代中期、良源が北山に与願金剛院を建立する。しかし鎌倉時代になり衰退して行く。鎌倉時代中期、後嵯峨天皇の勅により住心が船岡山南麓に移転し再興する。その際、寺名が廬山天台講寺に改められている。また住心が出雲路に建てた寺院と本光の北小路の草庵から生まれた道場を、鎌倉時代末期の明導上人が一寺院に統合している。この廬山寺は廬山寺通大宮あたりにあったことが中昔京師地圖によって確かめられる。
そして応安元年(1368)明導の死後を実導が継承し廬山寺流と呼ばれるようになる。廬山寺の建物は応永4年(1397)に焼失している。その後、再建されたが応仁元年(1467)の戦火で再び焼失している。以後、明応3年(1494)と永禄12年(1569)に類焼した記録が残されていることから、応仁の乱後も再建されていたことが分かる。元亀元年(1570)には竹中坊、金光院、宝林院などの塔頭が廬山寺にあったことが分かっている。
廬山寺が現在の地に移転したのは、天正年間(1573~93)に行われた秀吉による洛中整備の時で、寺領57石が給されている。寛永14年(1637)の洛中絵図から南北52間、東西55間の寺域を有していたことが分かる。正徳2年(1712)には寺裏の493坪の御土居が寺領として払い下げられている。現在、御土居の遺構が繁華街の中に残ることが出来たのも、この時の払い下げによっていると云って良いだろう。
宝永5年(1708)に宝永の大火、天明8年(1788)には天明の大火と、いずれも御所とともに焼け落ちている。寛政6年(1794)から幕末にかけて再建がなされた。「京都坊目誌」(「京都叢書 京都坊目誌 上京 乾」(光彩社 1968年刊))によれば、明治維新時に金光院、十輪院、不動院の三塔頭があったが、いずれも本寺に統合されている。
現在、廬山寺の境内には本堂、大師堂と地蔵堂などの諸堂がある。本堂の御本尊は聖徳太子作と伝わる三尺の薬師如来坐像。摂津四天王寺造営の際に疫病が流行り工人も病に罹ったため、太子自らが薬師仏を彫り病患の平癒を祈念したと云われている。小屋の薬師と称されている。大師堂には元三大師自作像があり、脇壇には最澄作の俗に船迎観音と謂われる聖観音と、空海作と伝わる不動と弁財天が祀られている。地蔵堂には明智光秀の持仏であったとされる地蔵菩薩がある。
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