カテゴリー:訪問地
法成寺址 その3
法成寺址(ほうじょうじあと)その3 2009年12月10日訪問 法成寺址 法成寺址の碑 既に興福寺、極楽寺そして法性寺から東福寺への変遷を見てきた。この項では法住寺と法興院そして平等院について書いてみる。 法性寺を造営した藤原忠平の長子実頼は法性寺の院家のような形で東北院を営み、弟の師輔は叡山横川に楞厳三昧院を建てている。藤氏長者第7代の実頼は、摂政関白太政大臣を歴任した藤原忠平の長男として順調に栄達し、村上天皇のときに左大臣として右大臣の弟・師輔とともに朝政を指導して天暦の治を支える。しかし後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。冷泉天皇が即位すると、精神の病を持… ►続きを読む
法成寺址 その2
法成寺址(ほうじょうじあと)その2 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎 藤原氏の氏寺についてもう少し続ける。 藤原忠平によって開創された法性寺への参籠が増えると、近くに御所あるいは山荘が造営されている。藤氏長者第19代の藤原師通の寛治の頃(1087~94)になると白河法皇により鳥羽殿の造営が始まる。南殿の御堂証金剛院が供養されたのが康和3年(1101)3月29日のことであった。また白川の地に法勝寺、尊勝寺を造営し、承久2年(1114)11月29日には、付近に設けた御所の一つとなる泉殿の中にある蓮華蔵院の御堂で供養している。師通の子で藤氏長… ►続きを読む
法成寺址
法成寺址(ほうじょうじあと) 2009年12月10日訪問 法成寺址 現在の荒神口通 左鴨沂高校グランド 右校舎 京都府立医科大学付属図書館の敷地の隅に建てられた立命館学園発祥地の碑の前を過ぎ、広小路通を西に進むと寺町通に突き当たる。ここより先は京都御苑となり、広小路に面して清和院御門が設けられている。京の通りの名称が分からない時には、いつもヌクレオチドさんが管理されている「大路・小路」を参照させて頂いている。特に平安京の大路小路と現在の通りを比較できる点でWikipediaなどより重宝する。 かつての都の最も東を南北に走る通りは東京極大路であった。今まで寺町通がこれに一致していると思っ… ►続きを読む
立命館学園発祥地
立命館学園発祥地(りつめいかんがくえんはっしょうのち) 2009年12月10日訪問 立命館学園発祥地 京都府立医科大学付属病院内にある療病院碑を後にして河原町通を渡ると、広小路通が始まる。この通りの北側に赤御影石を使用した立命館学園発祥地の碑が見える。廬山寺から南側の敷地には現在は、平成4年(1992)竣工の京都府立医科大学附属図書館と平成5年(1993)竣工の看護学学舎が建つが、その東南角を借りるように記念碑が造られている。碑の建立年が図書館と一致することから、この地が整備された時に建碑されたのであろう。 東三本木町に建つ立命館草創の地でも既に記したように、この碑の地には、かつて清輝… ►続きを読む
療病院碑
療病院碑(りょうびょういんひ) 2009年12月10日訪問 療病院碑 鴨川の西岸にあるみそそぎ川の取水口と思われる場所を確認した後、鴨川公園から京都府立医科大学付属病院の敷地を横断して河原町通に出る。その途中の旧附属図書館棟の前に療病院碑が建つ。 療病院については石田孝喜氏の「続・京都史跡辞典」(新人物往来社 2006年刊)に詳細な記述があるので、これを参考にまとめてみる。幕末維新時には200年間に及んだ和蘭医学が未だ主流であった。佐賀藩出身、佐倉順天堂で佐藤泰然、そして長崎精得館でオランダ人医師ボードインにより医学を学んだ相良知安は、文部省医務局長など歴任し、明治初期の医療行政におい… ►続きを読む
みそそぎ川
みそそぎ川(みそそぎがわ) 2009年12月10日訪問 みそそぎ川 取水口と京都府立医科大学付属病院の位置関係 この日は梁川星巌邸址の碑を見つけることなく、再び川端通丸太町の交差点から丸太町橋を渡り西岸に戻る。ここより鴨川沿いの遊歩道に下りる。鴨川の西岸をみそそぎ川の取水口まで歩く。 古くより鴨川は氾濫を繰り返す暴れ川として知られてきた。これは大都市を流れる河川としては勾配が急であるためだ。北山の深泥池と九条の東寺の間には東寺の五重塔分の高低差があると言われる。単純に一様勾配とすると、凡そ8.7kmの間に55m下ることとなる。河川勾配で表すと1/158(158m下流で1m低くなる勾配)… ►続きを読む
是枝柳右衛門の寓居
是枝柳右衛門の寓居(これえだりゅうえもんのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 是枝柳右衛門の寓居 GoogleMapより 田中河内介の寓居 その4では臥龍窟の凡その場所を推定してみた。この臥龍窟には多くの有志が訪れたことが伝えられている。そして寺田屋事件の発生した夜、ここに薩摩の是枝柳右衛門が居たことから京での寓居とされる。 文久2年(1862)4月23日の夜、すなわち田中河内介が計画した義挙を実行するはずだった夜、伏見の寺田屋で薩摩藩の上意討ちが行われ、京都挙兵は行われなかった。この計画は既に書いてきたように、京で兵を挙げ関白九条尚忠及び京都所司代酒井忠義邸を襲撃、さらには青蓮… ►続きを読む
田中河内介の寓居 その4
田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その4 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 京都都市計畫圖より 田中河内介の寓居 その3では、田中河内介・左馬介父子、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計そして青水頼母の最期を記した。最後に川端通丸太町上ル東側にあった臥龍窟と維新後の田中河内介の扱われ方について書いてみる。 豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)によると田中河内介は度々転居していた。嘉永3年(1850)頃と考えられている書簡には4月朔日を以って寺町五条上ルに転居したことが記されている。高瀬川に臨み、比叡、東山を望み、二階を臨川楼と号したようだ… ►続きを読む
田中河内介の寓居 その3
田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その3 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより 田中河内介の寓居 その2では、寺田屋事件発生後の薩摩藩の対応について田中河内介一党以外について記してみた。ここでは河内介等の最期を描いてみる。 寺田屋事件に関わった薩摩藩士の本国への移送、そして真木和泉の列の久留米藩への引渡しがすむと田中河内介等の処遇を残すのみとなる。田中河内介・左馬介父子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門は薩士21名、監察4名と多数の足軽に警固され、大阪から日向細島までは海路、それより陸路で鹿児島に向かうこととなった。 左馬介は弘化2年(1… ►続きを読む
田中河内介の寓居 その2
田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その2 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 豊田小八郎著「田中河内介伝」より 田中河内介の寓居では、安政の大獄が始まるまでの河内介の暮らしぶりについて記してきた。特に梁川星巌、梅田雲浜そして頼三樹三郎に対する人物評を読むと、「性、狷介、自らに恃むところ頗る厚く」という言葉を思い浮かべざるを得ない。ここでは安政の大獄以降、寺田屋事件の勃発から大久保一蔵達が行った後始末までを眺めて行く。 安政の大獄が執行された安政5年(1858)から文久元年(1861)にかけて、田中河内介は西国の各藩を廻り多くの志士と連絡を取っていた。豊田小八郎… ►続きを読む
田中河内介の寓居
田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ) 2009年12月10日訪問 田中河内介の寓居 GoogleMapより 石碑や駒札もないため、その正確な場所は特定できないものの、川端通丸太町上ルには梁川星巌の鴨斤小隠とともに田中河内介の寓居・臥龍窟があった。石田孝喜氏の著書「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)の左京区の18番目に梁川星巌邸跡が採り上げられている。その2つ前では田中河内介宅跡について記述している。また京都市教育会の主要人物であり、京都の幕末史の先駆者でもあった寺井萬次郎の「京都史蹟めぐり」(西尾勘吾 1934年刊)でも左京区の部の6番目に贈正四位 梁川星… ►続きを読む
梁川星巌邸址 その2
梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと)その2 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址 2011年6月18日撮影 安政4年(1857)10月、梁川星巌は8年暮らした川端丸太町から、東三本木の貸家に居を移し鴨沂水荘と称している。この項では若干脱線するが、三本木に移り住んだ後の星巌と紅蘭、そして鴨沂水荘の変遷について書いていくこととする。 伊藤信著の「梁川星巌翁 附紅蘭女史」によると、 庭中怪松あり。因りてまた老龍庵と名づく。(但し老龍庵の名は丸田町の宅に住せし時にも之を用ひたり)もと中島棕隠の寓せし所にして、頼山陽が修史の亭(山紫水明処)とも相隣り、鴨水叡嶽の勝を一欄に収め、風煙絶佳… ►続きを読む
梁川星巌邸址
梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと) 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址 立命館草創の地の碑から山紫水明処の前を通り丸太町通に戻る。そして丸太町橋を渡り左京区に入る。昭和47年(1972)から始まった三条・出町柳間の地下化工事は、平成元年(1989)に完成し現在では京阪鴨東線として営業している。川端通の下を京阪電車が走ることで京都の南北間の輸送力を飛躍的に増強させ、自動車による地上の交通緩和に大いに寄与している。それは鴨川とその奥の東山の景観美化の上でも大きな貢献を果たしている。 川端丸太町の交差点は、京阪鴨東線 神宮丸太町駅の地上出入口以外には特に目立ったものもない、ごく普… ►続きを読む
立命館草創の地
立命館草創の地(りつめいかんそうそうのち) 2009年12月10日訪問 立命館草創の地 頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い丸太町通より新三本木町に入り込んだ。現在では、どこにでも見かけることの出来る普通の住宅街だが、開町からの歴史を眺めると実に奥深い町であったことが分かる。頼山陽書斎山紫水明処では山紫水明処へ導く道標を建立した人物について記した。新三本木の町並みとその2では、町の形成から、この町に住んだ秋月悌次郎について触れた。山紫水明処では内部の見学もしないのに、その5までを使い、山紫水明処についてはもちろん、頼山陽の生涯とその系譜、さらには山陽の転居歴について書いてみた。また吉田屋・… ►続きを読む
吉田屋・清輝楼・大和屋 その2
吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや)その2 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋 ついに纏めきれずに、吉田屋・清輝楼・大和屋の紙数が尽きてしまった。nakaさんのブログ「よっぱ、酔っぱ」に掲載されている「吉田屋・清輝楼・大和屋」には、清輝楼、吉田屋、信楽楼の所有者の変遷とその地番が記されている。これを元にして三本木の変遷をもう少し書き続けてみる。 一番北に位置する立命館草創の地にあったのは清輝楼で、三本木中之町の北から2軒目の501番地。現在は株式会社英の事務所と駐車場となっている。清輝楼は神谷ゑいから“みね”に継がれ、明治30年(1897)5月31日… ►続きを読む
吉田屋・清輝楼・大和屋
吉田屋・清輝楼・大和屋(よしだや・せいぎろう・やまとや) 2009年12月10日訪問 吉田屋・清輝楼・大和屋 頼山陽の書斎・山紫水明処の石碑の前から、さらに東三本木通を北に上ると、駐車場の一角にまだ新しい立命館草創の地と記された石碑が建つ。立命館の前身となる京都法政学校が設立したことを示す石碑である。このことに就いては後に触れることとして、石碑に描かれた写真について考えてみる。 新三本木の町並みから何回か書いてきたように、新三本木は宝永5年(1708)3月8日に発生した火災の後に出来た町である。宝永の大火後の皇宮地と市街地の整備に伴い、東洞院通にあった元の三本木1丁目から3丁目までの… ►続きを読む
山紫水明処 その5
山紫水明処(さんしすいめいしょ)その5 2009年12月10日訪問 山紫水明処 文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月 9年10ヶ月 頼山陽没後、3人の子供を連れた梨影は天保5年(1834)10月、福井藩医の安藤静軒に水西荘を譲り渡し、富小路通押小路下ルに移る。生活を切り詰め、山陽の残してくれた遺産を長く使うためだろう。さらに安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」によると嘉永3年(1850)正月には“姉小路お池下ル”へ転宅し、梨影は安政2年(1855)9月に、この家で病没している。享年59。 山… ►続きを読む
山紫水明処 その4
山紫水明処(さんしすいめいしょ)その4 2009年12月10日訪問 山紫水明処 文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月 9年10ヶ月 山陽は両替町押小路の家(薔薇園)に入居した年から早くも転居を考え、新しい家の物色を始めていた。緊まりのない町中が、学者文人の住む環境でないことに気が着き、鴨川や東山の景観との別れに惜しみを感じるようになってきたためであろう。そして終の棲家となる場所を探し始めたとも言える。 文政4年(1823)9月には東三本木丸太町の地に見込みをつけている。しかし狭斜(中国長安の道幅の狭い遊里のあった街の名)の巷… ►続きを読む
山紫水明処 その3
山紫水明処(さんしすいめいしょ)その3 2009年12月10日訪問 山紫水明処 木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生 増補版」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)の年譜に従うと、文化8年(1811)の入京以来下記のように転居を繰り返していることが分かる。文化8年 (1811) 閏2月 入京 新町通丸太町上ル春日町に開塾文化9年 (1812) 正月 車屋町御池上ル西側に転居文化12年(1815) 6月 二条高倉へ転居文政2年 (1819) 3月10日 先発帰京、二条木屋町仮寓文政4年 (1821) 4月26日 両替町押小路上ル東側に転居 (薔薇園)文政5年 (182… ►続きを読む