カテゴリー:京都府
八条ヶ池
八条ヶ池(はちじょうがいけ) 2009年12月9日訪問 八条ヶ池 乙訓寺より再び文化センター通りを南に歩き、八条ヶ池に至る。長岡天満宮の歴史については次の訪問地であるため、そこで記すこととする。しかし創設時期を特定できる明らかな記録は、どうも残っていないようだ。それに対してこの八条ヶ池の開削については以下のようなことが残されている。 八条ヶ池 中堤の北側 八条ヶ池 中堤の南側は錦水亭 明治3年(1870)にまとめられた長岡天満宮の由緒書上によると、元和9年(1623)境内一帯は八条宮智仁親王の家領となっている。この家領は後に京極宮に継がれていく。長岡京市観光協会のブログ … ►続きを読む
乙訓寺 その2
真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら)その2 2009年12月9日訪問 乙訓寺 本堂 乙訓寺では、既に古い時代より多くの人々が乙訓寺の周囲に住んでいたことについて記してきた。縄文時代から古墳時代にかけての今里遺跡、5世紀前半の今里車塚古墳や6世紀後半から7世紀初頭にかけて造営された今里大塚古墳などからも人々の営みが良くうかがえる。また現在の乙訓寺本堂の北側から長岡第三小学校にかけての乙訓寺遺跡から、長岡京造営以前よりこの地に寺院が存在していたことも分かっている。昭和41年(1966)から始められた発掘調査により、講堂と推定される大規模(桁行九間27メートル、梁行四間12メートル)… ►続きを読む
乙訓寺
真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら) 2009年12月9日訪問 乙訓寺 山門 光明寺より光明寺道を東に進み、光明寺道の交差点で右折し文化センター通りに入る。そのまま300メートルほど南に下り、今里大通りを左折し東に進む。200メートルくらい歩くと、歩道上に小さな道標が建てられている。これに従い左手の細い道に入って行くと正面に乙訓寺の赤い山門が現れる。 乙訓寺 本堂 乙訓寺 本堂裏 延暦3年(784)の長岡京造営以前より、すでに乙訓の地には、多くの人々が住んでいた。乙訓寺のある台地およびその東側の台地下の傾斜面には、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡を見ることが出… ►続きを読む
乙訓の町並み
乙訓の町並み(おとくにのまちなみ) 2009年12月9日訪問 乙訓の町並み 光明寺道 粟生のあたり 光明寺の総門を潜り、光明寺道を東に進む。次の訪問地の乙訓寺までは1.6Km程度なので歩いて移動する。JR長岡京駅からバスに乗車して光明寺まで来たが、その道を途中まで戻ることになる。この光明寺道は西国街道の五辻から光明寺へと続く道である。現在では光明寺前と光明寺道の間は京都府道10号大山崎大枝線に含まれているようだ。そのため光明寺の総門を出て府道10号を東に進むという言い方になるのかもしれない。 乙訓の町並み 文化センター通り 今里のあたり 府道10号大山崎大枝線は、文字通り大山崎… ►続きを読む
京都の名庭巡り その6
京都の名庭巡り その6 龍安寺 京都の名庭巡り その1 から 京都の名庭巡り その6 までお読み頂きありがとうございました。今回のランキング作成するために参照した資料等を表にまとめておきました。もし庭園とか建築に御興味があれば、ご参照下さい。京都の名庭巡り作成資料。。 126 浄瑠璃寺庭園 127 裏千家庭園 128 官休庵庭園 129 酬恩庵(一休寺)方丈庭園 130 酬恩庵廟前庭園 131 小松亭址積翠園庭園 132 真如院庭園 133 表千家庭園 134 霊雲院庭園 135 勧持院庭園 136 西翁院庭園 137 泉涌寺練成道場前庭園 138 藪内宗家… ►続きを読む
京都の名庭巡り その5の2
京都の名庭巡り その5の2 このブログには文字数制限があるようで、1つ星の名庭を その5の1 と その5の2 に分けました。 ここは1つ星の名庭を掲載いたしました。「星1つの庭なんて?」とお考えの方も居られるかと思いますが、下記の写真を見て頂ければ、そんなことは全くないことがお分かりかと思います。ついに、ここまでで100庭を越えてしまいました。それだけ京都の庭のレベルが高いということだと思います。また、ほとんどの庭が現役の庭です。どんなに有名な作庭家が手掛けた名庭でも、人手が離れるとあっという間に遺蹟になってしまいます。今までも数え切れないほど多くの庭が私達の知らない所で消えていったことでし… ►続きを読む
京都の名庭巡り その5の1
京都の名庭巡り その5の1 このブログには文字数制限があるようで、1つ星の名庭を2つに分けました。続いて、その5の2 も御参照下さい。はっきり言いまして、星1と星1.5の差はほとんどありません。比較的有名であり、容易に鑑賞でき庭を星1.5に選んでおきましたので是非、こちらから順番に訪問してみてください。 なお洛翠は現在閉鎖していると思われます。またいつの日か新たな所有者のもとで再会できることを希望しております。そのような意味を含めて掲載させていただきました。 font-size:larger 記事へのlink → 1・2・3 font-size:larger 記事へのlink… ►続きを読む
京都の名庭巡り その4
京都の名庭巡り その4 font-size:larger 記事へのlink → 1・2・3 font-size:larger 記事へのlink → 1 font-size:larger 記事へのlink → 1 font-size:larger 記事へのlink → 1・2・3・4 font-size:larger 記事へのlink → 1・2 font-size:larger 記事へのlink → 1 font-size:larger 記事へのlink → 1 font-size:large… ►続きを読む
京都の名庭巡り その3
京都の名庭巡り その3 font-size:larger 記事へのlink → 1・2 font-size:larger 記事へのlink → 1・2 font-size:larger 記事へのlink → 1・2 font-size:larger 記事へのlink → 1 ★★★☆も同じく4つの庭を他より一段高く置きました。選んだ後で眺めてみると偶然ですが4つの作品とも東山に作られた庭でした。 高台寺円徳院は豪放な桃山文化を象徴する庭園です。少し上に入れた醍醐寺三宝院庭園には及ばないまでも見逃すことのできない庭だと思います。特に醍醐寺三宝院… ►続きを読む
京都の名庭巡り その2
京都の名庭巡り その2 font-size:larger 記事へのlink → 1・2・3・4・5 font-size:larger 記事へのlink → 1・2・3・4・5・6 font-size:larger 記事へのlink → 1 font-size:larger 記事へのlink → 1 ★★★★☆は4つの庭園に絞りました。★★★★の上位4ないし5にさらに☆を加えることも可能だと思いますが、あえて違いを作りました。 修学院離宮庭園は、後水尾上皇の指示で造営された離宮だけに、上皇個人というよりは王朝文化の美意識の到達点を示す庭となって… ►続きを読む
京都の名庭巡り その1
京都の名庭巡り その1 2013年新春企画ということで京都の名庭ランキングを作ってみました。このような企画は個人の主観でかなり変わってきますので、御承知の上で御参照ください。また☆はそのランクの中でも秀でた庭園ということで特筆いたしました。自分の目で確かめたものから選びましたので、一般公開や特別公開そして事前申し入れで拝観できる庭だけです。個人所有で非公開の庭などは含まれていません。「なぜ、この庭がないの?」という疑問に答えるため、まだ訪問できていない庭のリストを最後に追加しておきました。 自分で見た庭から選んだと書きましたが、どうしても2つだけは未訪問の庭を入れました。お分かりかと思いま… ►続きを読む
光明寺 その4
西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その4 2009年12月9日訪問 光明寺 勅使門 法然上人袈裟掛之松の西側には法然上人の石棺が残されている。光明寺の項で、叡山の衆徒の襲撃より法然上人の遺骸を護るため吉水から移したことに触れた。安貞元年(1227)6月22日の墓堂破却以前に遺骸は嵯峨に移されたが、ここも安全でないため同月28日にさらに太秦の広隆寺来迎院の圓空に託されている。太秦大映通り商店街の途中、三吉稲荷神社から南に入った右手に西光寺がある。圓空はこの地で上人の遺骸を七ヶ月間護ったとされている。 光明寺 法然上人の石棺古墳時代の石棺と推定されている 光明寺… ►続きを読む
光明寺 その3
西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その3 2009年12月9日訪問 光明寺 薬医門 江戸初期の建築 光明寺 その2では、法然と熊谷直実を中心とした光明寺の歴史について記してきた。この項では境内の風景について書いていきたい。 女人坂を登りきると正面に光明寺の本堂が見える。この女人坂が終わった箇所の左手に塩田紅果の句碑「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」がある。塩田紅果は本名・塩田親雄、芭蕉の生誕地である三重県上野に生まれる。昭和初期の弁護士で俳人。沼波瓊音に師事して俳句を学ぶ。作家を志したが父の反対に合い、判事となり、後に金沢で弁護士を開業する。昭和2年(1927)「蟻乃塔」… ►続きを読む
光明寺 その2
西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その2 2009年12月9日訪問 光明寺 圓光大師石棺 光明寺 その1では、法然上人没後の浄土宗の法難(嘉永の法難)とその後の浄土宗の分裂について記してきた。この項では法然と熊谷直実を中心とした光明寺の歴史について書いていきたい。 西山浄土宗の総本山である光明寺の歴史について、公式HPでは承安5年(1175)法然上人が粟生野の地で初めて念仏の法門を説かれたことより始めている。 上人は長承2年(1133)美作国久米南条(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国と母・秦氏君との子・勢至丸として稲岡庄に生まれている。その生誕地には、後に熊… ►続きを読む
光明寺
西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ) 2009年12月9日訪問 光明寺 女人坂 長岡京駅より阪急バス・光明寺循環20番に乗車すると、およそ15分位で粟生の光明寺前に到着する。かつての粟生村は光明寺背後の山より同門前の平地部を含む部分にあった。西山の一部をなし、古くは荒野や山野であったと考えられている。一般的に粟生という地名は粟ができた畑を指すことが多く、湿地や水辺から海辺を示す語としても知られている。「日本歴史地名大系第26巻 京都府の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)によると、光明寺の境内に光明寺古墳、また背後の山にも烏ヶ岳古墳などがあることが分かる。このように桂川右… ►続きを読む
神足駅五十周年開業記念碑
神足駅五十周年開業記念碑(こうたりえきごじゅうしゅうねんかいぎょうきねんひ) 2009年12月9日訪問 長岡京駅 神足駅五十周年の開業記念碑 今回は長岡京市の光明寺と長岡天満宮、そして松尾大社の重森三玲の庭園の訪問を目的とし、東京駅6:00発の新幹線に乗り込み京都に向かう。いつもと同じように新幹線が定刻の8:11に京都駅に到着すると、そのまま駅を出ることなく東海道本線下りに乗り換えJR長岡京駅へと向かう。光明寺への阪急バス乗り場を探し西口に出る。西口駅前は2棟の商業施設とその奥にある高層マンションが目に付くくらいで、特に目立った物のない普通の地方都市の駅前風景という感じである。むしろ東… ►続きを読む
東山の町並み その2
東山の町並み(ひがしやまのまちなみ)その2 2009年11月29日訪問 東山の町並み 八坂の塔 既に18時半も廻っているので、本日最後の訪問は人出の多い賑やかな場所を選ぶ。高台寺通から法観寺のライトアップを見ながら産寧坂を目指すこととする。 京都の地形が北から南に向かって下り傾斜となっていることは、あまりにも有名である。だから鴨川も桂川も北に発して南に下ってゆく。川の中に設けられた堰を見ると、穏やかな流れの鴨川でも比較的高低差があることに気がつく。高瀬川の源流となる「みそそぎ川」には各庭園に水を導くための取水口が設けられている。これらを一つ一つ眺めてゆくと京都の地形が思ったより傾斜し… ►続きを読む
石塀小路の町並み
石塀小路の町並み(いしべいこうじのまちなみ) 2009年11月29日訪問 石塀小路の町並み 圓徳院の裏 圓徳院を出た頃は、空にまだ少し明るさが残っていたが、高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。 八坂神社の南楼門から南に延びる下河原町通の東側、維新の道とよばれる京都霊山護国神社参道の北側で高台寺と霊山観音を含む地域は下河原町とされている。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この下河原町通は祇園社(現八坂神社)の表参道であったことより祇園大路という名称があり、中世には百度大路ある… ►続きを読む
高台寺 その10
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その10 2009年11月29日訪問 高台寺 この項では幕末において高台寺で起きたことをまとめてみることとする。 嘉永6年(1853)6月3日、フィルモア大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは、旗艦サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガを率いて浦賀に来航する。この内、外輪式フリゲート艦はサスケハナとミシシッピであり、プリマスとサラトガは帆船であった。そのため「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌は有名であるものの、蒸気船は2隻のみであった。老中首座阿部正弘は国書の受取りを回避することは不可… ►続きを読む
高台寺 その9
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その9 2009年11月29日訪問 高台寺 勅使門 高台寺 その8では、明治18年(1885)11月の火災によりした仏殿の東北に忠義堂が築かれ、近年の高台寺境内の整備事業に伴い、撤去される運命であったものを大原野の正法寺に移したところまで説明してきた。ここからは高台寺の主要伽藍について書いて行く。 忠魂堂の東北にはかつて桧皮葺唐破風の屋根を持った唐門があった。高台寺創建時の建築で、豊臣氏の船屋形を上屋とし、門扉には菊桐章が施されていた。唐門の北には方丈が南面していた。かつての方丈は文禄の役で凱旋した諸将を祝宴した殿舎を伏見から移したものとされ… ►続きを読む