法界寺
真言宗醍醐寺派 法界寺(ほうかいじ) 2008/05/11訪問
萬福寺から再び京阪電鉄黄檗駅に戻り、宇治線で2つ目の六地蔵で降りる。ここから法界寺まではかなり離れているのでタクシーを使うこととした。15分ほどで山門前に到着した。
法界寺は醍醐寺の南方、宇治市の境界に近く、現在の行政区分では京都市伏見区日野にある。古くから山城国宇治郡日野と呼ばれ、方丈記の著者である鴨長明が晩年に庵を結んだ場所でもある。また日野は浄土真宗の宗祖 親鸞聖人の生誕地でもある。そのため法界寺の隣地には日野別院(現在の日野誕生院)が文化年間(1804~18)が建立されている。
もともと日野は藤原北家の流れをくむ日野家の領地であった。日野家の初代当主は藤原内麻呂の長男 真夏であるが、その孫にあたる家宗が弘仁13年(822)に最澄自作と伝わる薬師如来の小像を祀るために、日野の地に法家寺を建立した。代々この薬師如来を伝承し、永承6年(1051年)、家宗から数えて6代目の当主にあたる日野資業が薬師堂を建立し、この氏寺を法界寺とした。
日野一族の菩提寺として多くの堂宇を持ち、繁栄してきた法界寺も鎌倉時代以降数度にわたる兵火を受け、衰退していった。再び復興したのは江戸時代に入り、本願寺が宗祖の生誕地整備を始めたころと思われる。
真言宗醍醐寺派に属し山号は東光山。
法界寺の現在の薬師堂は明治37年(1904)に奈良県斑鳩町にあった伝燈寺本堂(室町時代)を移築したもので、当時の建物とは異なる。堂内に安置されている薬師如来立像は、胎内に日野家に伝承されてきた薬師如来像を納めるために建立されたものである。胎児を宿す婦人の姿として、安産、授乳のご利益があり、特に若い女性の厚い信仰を集めてきたといわれている。法界寺を乳薬師と呼ぶのも、この薬師如来立像に由来している。
平安後期の末法思想と阿弥陀信仰の高まりにともない、法界寺にも阿弥陀堂が建てられ、阿弥陀如来像が祀られた。当時の記録によると法界寺には丈六の阿弥陀如来像が5体存在していたらしい。現在、阿弥陀堂に安置されている国宝 阿弥陀如来坐像は定朝様式の仏像で、平等院鳳凰堂の本尊に類似点が多く、当時の記録にも残るように「定朝仏を写す」ということが行われたのかもしれない。
国宝 阿弥陀如来坐像を納める阿弥陀堂もまた国宝に指定されている。承久3年(1221)の兵火で焼失後、まもない頃の建立と推定されるため、鎌倉時代初期の建築とされている。方五間の堂の周囲に1間の裳階をめぐらした形で、屋根は檜皮葺きの宝形造である。
非常に安定したおさまりの良い姿をした建物のように思う。鎌倉期の建築としては繊細な感じを与える。
それほど大きくない山門をくぐると右手に池泉があり、その脇を避けるように敷石が境内の奥 薬師堂の方向へ走っていく。山門の位置と角度からすると境内の軸線は山門から庫裏の前を通り阿弥陀堂の中心を通るように思うのだが、敷石はそんなこととは関係なく敷かれたようだ。右側の池泉は草木が鬱蒼とし、どのような構成になっているかよく分からなかった。阿弥陀堂の前に広がる庭であるならば浄土式庭園であるのだろうか。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、
「観音堂五大堂大門の蹟、今田畑の字となりて当寺のまへにあり。」
と記され、阿弥陀堂と池泉の配置が分かる日野薬師の図会が掲載されている。現在の薬師堂の位置には鐘楼があり、その右には草庵らしきものが描かれている。現在の誕生院保育園のあたりと思われる。また草庵の裏側に見える小高い丘は日野誕生院にあたるのかもしれない。いずれにしても今より大きな池泉が阿弥陀堂の前に築かれていたようだ。
それにしても庫裏でいくら拝観を申し出ても誰も出てきてくれなかった。境内では脚立を持って作業をされている方がいるのにもかかわらず…。たまたまそういう日だと思っていたが、同じような経験を何回もしてきた方のブログを拝見して思わず納得してしまった。
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