白沙村荘 橋本関雪記念館 その2
白沙村荘 橋本関雪記念館 その2(はくさそんそう) 2008年05月17日訪問
今出川通に面した北門を潜ると、供待と呼ばれる待合の脇に不許葷酒入山門の碑が立つ。庭園に入ると木々の中に静御前の供養塔との言い伝えもある国東塔が現れる。総高さは750センチメートルと国内に現存する中で最大のものであり、個人が所有する大きさとは思えない。関雪が大正時代の初期に大分の別府に訪れたときに購入したものである。そのまま進むとかつての主屋で現在は和食を供する瑞米山とその前に広がる庭へ続く中門が現れる。この建物は後で説明する存古楼と同じく大正5年(1916)に建てられていることからも、このあたりが白沙村荘で最初に造られたことが分かる。この門は閉じられているため左側の石橋を渡り、庭へ回り込む。石橋の下にはこの先にある池泉に注ぎ込む流れがある。関雪が白沙村荘を建設した当初は、哲学の道に沿い、銀閣寺橋の下を潜り、今出川通の北側を並走して来た疎水分線を水源としていたが、現在は地下水を使用している。
この白沙村荘の中心となる建物は、大正5年(1916)に大画室として建てられた存古楼である。建物は東面より採光できるように南北軸線上に建設されているが、わずかに南北軸から振れている。これは五山送り火の大文字山(如意ヶ岳)大文字に正対するようにしているためだと思われる。一見すると存古楼は三階建てのようにも見える。東面に張り出した軒の上の開口部は二階のものではなく、天井の高い一階の大画室のハイサイドライトとなっている。二階には望楼のような形状で特別室が設けられている。この特別室の正面には大文字山が広がる。大作の作成も可能な大画室を、現在はシンポジウムや講演会、展示会または婚礼などの会場として使われている。
この存古楼と瑞米山の東側には芙蓉池を中心とする庭園が造られている。大文字山を借景とする池泉回遊式庭園となっている。芙蓉池に面する存古楼東面の軒下の三和土には庭を眺めることができるように椅子が置かれている。庭の木々も大きく育ち大文字山の姿も見えなくなりつつある。恐らく当初の庭の姿とは異なっていると思われる。それよりも問題は、敷地の外に見える電信柱と電線が美しい景観を破壊しているのは残念なことである。このことは白沙村荘が努力して行える範囲を超えている。
存古楼とともに問魚亭、憩寂庵、倚翠亭の3つの草庵や茶室が芙蓉池の周りに建てられている。
問魚亭はむくりを持った茅葺の宝形屋根の草庵で、大きな開口部と池に面して縁台を持っている。大正13年(1924)頃に建てられている。元は如舫亭と呼ばれ、関雪が画稿を練る時に使っていたと言われている。池を挟んで建つ憩寂庵、倚翠亭からの眺めが美しく、日本というよりは中国の田園風景を思い起こさせる。
憩寂庵、倚翠亭は隣接して昭和7年(1932)に建てられている。これはお茶をたしなむ妻ヨネのために作られた茶室とされているが、そのヨネは昭和7年(1932)東京で急死したため叶わなかった。これは東京に住む長男節哉の妻のお産のために訪れた時の出来事である。憩寂庵は高台寺の塔頭圓得院にあったとされている遠州好みの四畳台目席の型を取り入れている。関雪は妻と老後を穏やかに暮らすためにこの憩寂庵を建てたものと思われる。
倚翠亭の路地から眺める芙蓉池は美しかったが、残念なことに2009年3月31日、倚翠亭は全焼している。
存古楼の南側から西側の庭園への苑路が続く。昭和初期に建てられた苔のむした丸い屋根の夕佳門を過ぎると西の庭園が始まる。西の庭は昭和10年代(1935~1944)に建立された持仏堂を中心に造られている。この持仏堂は亡くなった妻ヨネを弔うための堂宇で、鎌倉時代初期(1200)の地蔵尊立像が祀られている。また代表作である玄猿は妻の死後、中断していた創作活動を再開した第1作目である。
この白沙村荘には関雪の憧れた中国を思わせる石造美術が多く置かれている。関雪は篆刻家・呉昌碩や画家の王震、考古学者の羅振玉など一流の文人・学者とたびたび交流していたとされている。白沙村荘にある巨大な舞台石の側面には鬱勃縦横という呉昌碩の篆書が刻まれている。
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