文書と写真・地図による「記憶」の再現

アーカイブ:2010年 2月 08日

御辰稲荷神社

 

御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ)  2008年05月17日訪問 御辰稲荷神社  積善院と須賀神社の前から、再び丸太町通に戻る角に、小さなお稲荷さんがある。ここが御辰稲荷神社である。 祭神は本社 宇迦之御魂神、猿田彦神、天宇受賣神。末社・初辰大明神社は初辰大明神。末社・福石大明神社は福石大明神。  聖護院の森の神の霊夢を見た新崇賢門院は、宝永2年(1705)東山天皇の勅許により御辰稲荷神社は創祀される。 新崇賢門院は延宝3年(1675)櫛笥隆賀の娘として生まれている。東山天皇の後宮に入り、新大典侍となる。中御門天皇と直仁親王および3皇子1皇女を生む。直仁親王は、世襲親王家の一つ閑院宮家を創設する。直仁親王から2代下った師仁親王が光格天皇となり、その皇統が現在まで続いている。このことについて… ►続きを読む

 

須賀神社

 

須賀神社(すがじんじゃ)  2008年05月17日訪問 須賀神社 左に交通神社 右に須賀神社の碑が並び建つ  積善院の道路を挟んで南側に須賀神社がある。 祭神は素戔嗚尊、櫛稲田比売命を主神に久那斗神、八衢比古神、八衢比売神を加え、五柱を祀る。 貞観11年(869)現在の平安神宮内にある西天王塚辺りに、西天王社として創建されたのが始まり。現在の岡崎神社である東天王社と一対をなしていた。その後、平安時代末期の永治元年(1141)美福門院が白河の地に建てた歓喜光院の鎮守として創祀された。 美福門院は永久5年(1117)藤原長実の子・藤原得子として生まれている。類まれな美貌の持ち主と言われ、長承3年(1134)頃には鳥羽上皇に召され、大いに寵愛されている。叡子・暲子(後の八条院)の両内親王を生んだ後… ►続きを読む

 

積善院

 

積善院(せきぜんいん) 2008年05月17日訪問 積善院 五大力尊の赤い幟が立つ  聖護院門跡の東隣には、五大力尊の赤い幟が立つ積善院がある。五大力とは、不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五つの明王の総称である。毎年2月23日には五大力尊法要が行われている。 積善院は聖護院の塔頭寺院で鎌倉時代初期の創建と伝わる。聖護院門跡が支配していた本山派山伏の統括事務を代行する院家で栴ノ坊(なぎのぼう)と呼ばれていた。元々は熊野神社の西北、現在の京都大学医学部付属病院のあたりにあった。 凖提堂は江戸時代に建立された準提観音を本尊とする寺院で、熊野神社の東南にあった。明治の初めに積善院と凖提堂の2つの寺院が合併し、大正3年(1914)に建物を現在地に移転している。そのため元の準… ►続きを読む

 

聖護院門跡

 

本山修験宗総本山 聖護院門跡(しょうごいんもんぜき) 2008年05月17日訪問 聖護院門跡  熊野神社の境内を出て、東山丸太町の交差点を東側に渡り、丸太町通の一本北側の道、金戒光明寺へと続く春日上通を東に100メートルも進まぬうちに、築地塀に囲まれた大きな地所が現れる。ここが聖護院門跡である。 聖護院の創建は、熊野神社の項で既に触れたように、寛治4年(1090)増誉大僧正が白河上皇から熊野三山検校を任命されると同時に賜った聖体護持の2字を取った聖護院である。  増誉大僧正は長元5年(1032)に大納言藤原経輔の子として京に生まれている。その後、6歳で園城寺(三井寺)の乗延に師事し、行円の下で得度、そして延久元年(1069)行観から灌頂を受け、密教の阿遮梨となった天台宗の僧である。顕教や密教… ►続きを読む

 

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