東福寺 その4
臨済宗東福寺派大本山 慧日山 東福寺(とうふくじ)その4 2009年1月11日訪問
東福寺 その2、東福寺 その3に続き、創建の頃の東福寺の歴史と共に、東福寺の開山となる聖一国師が住した普門寺と東福寺の北側にあった三聖寺、後の時代に移転してきた万寿寺の歴史についても眺めていく。
東福寺開山堂・普門院その3でも記したように、東福寺自体が完成する前に創建された普門寺の存在も現れてくる。凌霄山普門寺は、東福寺常楽庵(現在の開山堂と普門院のある寺域)の西方低地に実在した寺院で、かつては京都十刹の六位に位置付けられていた。開山は東福寺と同じ聖一国師(円爾)である。東福寺の建立に先立つ寛元4年(1246)に創建され、当初は普門院と称されていた。室町時代に入り寺号となり十刹に列せられるようになる。後に、東福寺の末寺となるが、現在は廃寺となっている。ただし普門寺の名称は、東福寺常楽庵の客殿・庫裏・塔司寮に継承されている。 上述のように普門寺は寛元4年(1246)に九条道家によって開堂している。道家は既に嘉禎2年(1236)に東福寺の建立を思い立っているが、その規模の大きさと九条道家の権勢の衰退により、造営工事は思いの外長引いたと思われる。そして伽藍の完成を見たのは建長7年(1255)のこととされているから、建長4年(1252)の道家の没後のことである。この16年間、招聘したが円爾が住するための寺院が必要となり普門寺が創建されたとされている。
普門寺の第2世となったのは無外爾然である。爾然は京都の生まれで、幼くして円爾に参じ、大事了畢している。入宋して高僧達を訪れたが、帰国すると再び円爾に付随している。円爾は臨終に託して、「正法眼蔵を爾然に付嘱する」と言ったとされている。爾然は三河の実相寺の開山となっている。九度も東福寺の住持となるよう求められたが、そのたびに拝辞し、文保2年(1318)実相寺の丈室で示寂している。
かげまるくん行状集記の管理人さんによる本朝寺塔記に京都十刹の一つとして、普門寺について記載されています。建立から廃寺までの詳しい歴史と寺域の特定が為されているので、是非興味をお持ちの方はご参照ください。
この東福寺が造営されている時期に、その隣地に三聖寺も創建されている。万寿寺の項で触れたように、三聖寺も弘長元年(1261)頃、円爾禅師に帰依した十地覚空とその弟子の東山湛照(宝覚禅師)が建立した寺院とされている。後に(天正年間(1573~1592))三聖寺の隣に移転してくる万寿寺が、十地覚空と東山湛照により六条御堂から万寿禅寺に寺号が改められた時期とも一致する。阪口貢氏の日本建築学会論文「三聖寺伽藍について」(日本建築學會研究報告 (11), 21-24, 1951-05)よると、三聖寺は弘長元年(1261)頃、十地覚空の弟子で円爾禅師に帰依した宝覚禅師が開山として建立された寺院としている。これは六条御堂から万寿禅寺に改められた時期と同一する。万寿寺がこの地に移転してきたのも三聖寺の開山が万寿寺の開山の法嗣であったとも考えられる。
三聖寺創設の目的は、「沙弥行蓮為成二世之悉地」とあり、文永4年(1267)4月頃には堂舎の造営はほぼ終わっていたようだ。そしてこの頃に覚空から弟子の湛照に譲られている。三聖寺の開山は、本来は覚空であった。しかし湛照が聖一国師の弟子となり、そして弘安3年(1280)国師が示寂すると東福寺の第2世住持となったため、湛照の法嗣達によって三聖寺の開山とされているらしい。ちなみに湛照は、東福寺の住持をおよそ3ヶ月勤めた後、再び三聖寺に戻っている。そして正応4年(1291)押し入った盗賊により刺殺されたとされている。ブログ「つらつら日暮らし」に、東山湛照刺殺事件というタイトルで、そのあたりの事情が記されている。これも三聖寺の資料が東福寺に残されたものしかないために生じたともいえる。つまるところ詳細は不明ということである。
そして東福寺の第3世住持は、無関普門が勤めている。無関は信州保科の人で、関東・北越の寺院を歴遊した後、京都東福寺の円爾の名声を聞いてこれに参じ、5年間随侍する。再び越後に戻り、建長3年(1251)宋に渡り霊隠寺の荊叟如□(王へんに「玉」)に参じ、ついで浄慈寺の断橋妙倫に参じる。景定2年(1261)法衣・頂像を授けられて印可されている。断橋の寂後に江南の禅刹を歴参し、停泊している日本船に乗り、薩摩河辺部に帰着している。2年間留まった後、京に上り東福寺の円爾に相見している。この時、東福寺の第2世に請ぜられたが、辞して関東から越後に赴いて安楽寺に住する。円爾の病が重いことを聞いて京に上る。再び東福寺に請住されたが辞して摂津の光雲寺に住する。弘安4年(1281)藤原実経の要請を受けて、上記のように東山湛照を継いで第3世住持となる。そして正応4年(1291)無関は、亀山上皇の離宮である禅林寺松下殿を禅寺・南禅寺に改めた際に、南禅寺第1世住持として迎えられている。そのため東福寺と南禅寺の両寺を兼帯した。しかしこの正応4年(1291)12月12日に示寂しているので、南禅寺にあった時間は僅かなものであった。無関は元亨3年(1323)に大明国師と追諡されている。
再び三聖寺に話しを戻す。湛照が没した後、無為昭元、虎関師錬、性海霊見が住持となっている。無為は京都の人、円爾の法嗣で東福寺、円覚寺の住持を勤める。虎関は京都の人、東山湛照の法嗣で東福寺、南禅寺の住持となっている。そして性海は信濃の人、虎関の法嗣で、やはり東福寺、南禅寺そして天龍寺の住持を歴任している。錚々たる禅師達が三聖寺の住持を勤めていることが分かる。
三聖寺の伽藍がどのようなものであったかは、東福寺に残されている三聖寺古図(s_minagaさんのHPに掲載されている三聖寺・三聖寺愛染堂小宝塔万寿寺・東福寺 の中に三聖寺古図が掲載されています)によって窺い知るしかない。三聖寺は明徳2年(1391)の火災で全山焼失している。阪口貢氏は「三聖寺伽藍について」で、古図はこの火災以前の状況を現わしていると推定している。伽藍構成は総門、三門、仏殿、法堂そして前方丈が南北一直線上に並び、回廊は山門から前方丈に至る。この古図より以下の5つの特色を挙げている。
1 伽藍中心部に六角三重塔
仏殿の前庭の部分に六角三層の塔が見える。禅宗寺院に塔を設ける場合は、伽藍の後方や側方に伽藍から離して建立する例が多い。だから、伽藍中心部に建てる例は他に無いに近い。また重層多角形の塔の例も中国には多くあるものの、日本ではかつて西大寺や法勝寺などにあったとされ、現存するものは、信州塩田にある安楽寺の八角三重塔(初重裳階付)くらいではないだろうか。
2 法堂が重層二階
東福寺法堂や建長寺法堂などに見られるだけの珍しい事例であるらしい。東福寺に合わせて建立された可能性は高い。
3 前方丈
法堂と方丈の間に堂舎を設ける事例は中国では存在するらしいが、日本での事例は珍しく、やはり東福寺や建長寺に見られる。
4 方丈が二階造
上閣の事例は、再建ではあるものの東福寺常楽庵の開山堂にも見られる。より宋風建築を強く感じさせる意匠となっている。
5 宋風建築からの逸脱
特に仏殿の下層屋根の中央部が一段上がっている点である。平等院鳳凰堂、東寺金堂あるいは東大寺大仏殿などに類例を求めている。これらは純粋な宋風建築ではなく、日本において変容したものである。上記4とは相反する要素も取り入れられている。
先に触れたように、十地覚空と東山湛照により六条御堂から万寿禅寺に改め、開堂の儀が行われたのは、三聖寺が創立した弘長元年(1261)のことであった。六条御殿はその名の通り、白河上皇が六条内裏に建てた御堂である。永長元年(1096)皇女の郁芳門院が早世し、その菩提を祀るために建てたとされている。その場所は万寿寺通高倉よりはやや南方と考えられている。
暦応年間(1338~1341)、万寿禅寺は十刹の第四位に列せられていたが、延文3年(1358)第2代将軍足利義詮が五山制を京都と鎌倉のそれぞれに五山を置くように改訂した際、万寿寺が京都五山の第五位に加えられている。
永享6年(1434)の大火で類焼し、永享9年(1437)大殿、山門、方丈などが再建されるが、天正19年(1591)東福寺北側にある天台宗寺院・三聖寺の隣地に移転してくる。万寿寺がこの地に移転してきたのも三聖寺の開山が万寿寺の開山の法嗣であったとも考えられる。
鎌倉時代には大伽藍を持つ有力寺院であった三聖寺も次第に衰微し、明治6年(1873)に隣地の万寿寺に合併される。そして明治19年(1886)に今度は万寿寺が東福寺の塔頭となる。明治14年(1881)に東福寺の仏殿が焼失した際、万寿寺にあった釈迦三尊像を東福寺に移して新しい本尊としている。これが現在東福寺の本堂に安置される本尊釈迦三尊像で、元来は三聖寺に安置されていたものである。このほか、東福寺境内にある愛染堂と仁王門、万寿寺入口にある鐘楼ももとは三聖寺の建物であった。昭和10年(1935)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなっている。
「東福寺 その4」 の地図
東福寺 その4 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 東福寺 万寿寺 | 34.9811 | 135.7711 |
02 | ▼ 東福寺 勝林寺 | 34.98 | 135.7737 |
03 | ▼ 東福寺 盛光院 | 34.9802 | 135.7724 |
04 | ▼ 東福寺 海蔵院 | 34.9796 | 135.7731 |
05 | ▼ 東福寺 霊源院 | 34.9797 | 135.7724 |
06 | ▼ 東福寺 龍眠庵 | 34.9774 | 135.7748 |
07 | ▼ 東福寺 退耕庵 | 34.9795 | 135.7717 |
08 | ▼ 東福寺 同聚院 | 34.9785 | 135.7724 |
09 | ▼ 東福寺 霊雲院 | 34.9783 | 135.7717 |
10 | ▼ 東福寺 一華院 | 34.9779 | 135.7726 |
11 | ▼ 東福寺 栗棘庵 | 34.979 | 135.7732 |
12 | ▼ 東福寺 善慧院 | 34.9787 | 135.7731 |
13 | ▼ 東福寺 大機院 | 34.9784 | 135.7731 |
14 | ▼ 東福寺 龍吟庵 | 34.9774 | 135.7748 |
15 | ▼ 東福寺 即宗院 | 34.9772 | 135.7753 |
16 | ▼ 東福寺 天得院 | 34.9767 | 135.7723 |
17 | ▼ 東福寺 芬陀院 | 34.9763 | 135.772 |
18 | ▼ 東福寺 東光寺 | 34.9756 | 135.7725 |
19 | ▼ 東福寺 桂昌院 | 34.9755 | 135.7722 |
20 | ▼ 東福寺 荘厳院 | 34.9757 | 135.7714 |
21 | ▼ 東福寺 願成寺 | 34.9751 | 135.7725 |
22 | ▼ 東福寺 正覚庵 | 34.9749 | 135.7736 |
23 | ▼ 東福寺 光明院 | 34.974 | 135.7736 |
24 | ▼ 東福寺 永明院 | 34.9734 | 135.7735 |
25 | ▼ 東福寺 南明院 | 34.9728 | 135.774 |
26 | ▼ 東福寺 最勝金剛院 | 34.976 | 135.7763 |
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