山紫水明処
山紫水明処(さんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問
頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ばれている。新三本木の町並み その2でも書いたように、新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そして南町で構成されている。山紫水明処は最も南に位置する南町の鴨川に面した場所に建てられている。
頼山陽は江戸時代後期の儒者で安芸の人。名は襄、字は初め子賛、後に子成、通称は久太郎で山陽は号。他に三十六峰外史、改亭、悔亭そして憐二などといった時代もあった。安永9年(1781)12月27日、大阪で生まれている。
一見中国風の姓にも見える頼氏の先祖は、代々小早川家に仕え三原に住んでいたとされている。しかし慶長2年(1603)小早川隆景が没すると、三原付近の頼兼に退き、その後竹原に移住し屋号を頼兼屋と称し海運業を営んでいる。これが頼家初代となる頼正茂、通称は総兵衛、号は道円である。ただし「日本の名著 28 頼山陽」(中央公論社 1972年刊)の解説として頼惟勤氏が著わした「頼山陽と『日本外史』」でも第2代道喜から第3代良皓までの記述は、あまり明確ではない。頼惟勤氏は、後で説明することとなるが山陽の長男・聿庵の家系に連なる。頼家・第4代の頼享翁は通称・又十郎、諱は惟清。宝永4年(1707)に生まれた享翁は紺屋を業とし、その傍ら国学を志し京都に出て馬杉亨安に和歌を学んでいる。晩年京都の小沢蘆庵、伊勢の谷川淡斎などにも師事している。天明3年(1784)没。 享年77歳。享翁は春水、春風そして杏坪の三人の子供への教育に非常に熱心な人物であった。恐らく海運業から紺屋に家業を移したことから、安定した生活をおくることができるようになったためであろう。そして春風が竹原賴家、杏坪が杏坪賴家のそれぞれ初代となっている。
第4代の頼享翁の長男・頼春水は延享3年(1746)に安芸竹原に生まれている。春水は4歳頃より京坂の学者・平賀中南や塩谷鳳洲に就いて学問に勤しみ、19歳のとき病を得て大坂にて医師を探すうちにそのまま留まり、片山北海に入門し経学・詩文を学ぶ。明和元年(1764)師の北海を盟主に創立された混沌詩社に加わり、漢詩の才能を開花させる。安永2年(1773)大坂江戸堀北に自らの私塾・青山社を開く。妻の静子は梅飃の号を持ち和歌に秀でていた。そして安永9年(1780)山陽が誕生する。
翌年に広島藩7代藩主・浅野重晟に藩儒として招聘され、一家は安芸に移る。藩内に学問所を創立、天明3年(1783)江戸勤番となり、春水は単身で赴任し世継ぎの教育係を務める。同5年(1785)朱子学を以って藩の学制を統一する。その後友人である古賀精里、尾藤二洲、柴野栗山と語り合い、彼らを朱子学に転向させる。後に寛政9年(1797)松平定信が老中となると、朱子学を幕府正学とし、林家の私塾を官学化し昌平坂学問所としている。そして寛政12年(1800)昌平坂学問所に召されて自らも講義を行っている。寛政8年(1796)次男大二郎が病没、寛政12年(1800)には長男山陽が藩を出奔するという大事件を起す。座敷牢に閉じ込め、4年後に山陽を廃嫡している。弟の春風(竹原頼家)の子の景譲を養嗣子として迎える。この出奔事件によって、正確には頼家第6代は頼山陽ではなくなる。文化12年(1815)養子の景譲が病死、その翌年には春水も死去している。享年71。頼家は山陽の長男・聿庵が家督を継いでいる。
上記のように安永9年(1781)12月27日に大阪に生まれた山陽も、天明元年(1781)12月に父春水が広島藩の藩儒として招聘されたことで一家は広島に移ったが、山陽は天明2年(1782)6月21日に広島に入っている。その後春水が江戸勤番になったため、天明3年(1783)8月16日に母の梅飃とともに大阪の母の実家に戻っている。梅飃の父・飯岡義斎は大坂で代々医を業とする篠田家に育ち、儒者の鈴木貞斎に学び先祖の姓飯岡を称している。石門心学を修めたが、後に朱子学に転じている。山陽は物ごころつく時期より当時の日本の経済的首都である大阪の裕福な医家で不自由のない生活を送っている。天明5年(1785)5月12日に春水・梅飃に伴われ、広島に移っている。当初は借家住まいであったが、寛政元年(1789)に藩から杉ノ木小路の屋敷を拝領し、翌年8月1日に転居している。この屋敷は原爆で失われたが、その後に頼山陽史跡資料館が建てられている。
頼山陽は父と同じく幼少時より詩文の才があり、また早くも歴史に興味を示している。春水が江戸在勤となると叔父の頼杏坪に学び、寛政5年(1793)14歳の時に癸丑歳偶作という有名な詩を残している。
十有三の春秋 逝く者は已に水の如し
天地 始終無く 人生 生死有り
安んぞ古人に類して 千載 青史に列するを得ん
歴史に名を残す人物になるという気持ちは山陽の終生を通じて変わらないものとなった。しかし青少年期の山陽は父の春水と同じく病弱であり、さらに精神的にも不安定であったようだ。18歳の寛政9年(1797)には江戸の昌平黌に遊学するも一年余りで広島に帰っている。山陽の生涯において江戸で暮らしたのは、この一時期だけであった。寛政11年(1799)2月22日、藩医の御園道英の娘淳子と結婚するが、翌12年(1800)9月5日、大叔父伝五郎(頼惟宣 祖父頼亨翁の弟)の弔問のために竹原へ向かう途中、突如脱藩・逐電している。杏坪によって京都で発見された山陽は11月3日に広島へ連れ戻され、ただちに屋敷内の一室に幽閉されている。幕末の藩体制が緩みきった時期では未だないため、山陽の取った行動は大きな問題となった。御手討、御家断絶も有り得た中で、賴家の提出した廃嫡の申請は寛容にも受理されている。山陽の出奔時に妊娠していた淳子は直ぐに離縁され、里方に帰されている。享和元年(1901)生まれた子は頼家に引き取られ、表向きは春水夫妻の子として育てられる。この子は後に頼聿庵となり、廃嫡された山陽に替わって頼家第6代を継いでいる。
山陽の幽閉は享和3年(1903)末に屋内に限り解かれる。そして、文化元年(1804)1月15日山陽は正式に廃嫡される。この後も謹慎が2年間続き、文化2年(1805)5月9日についに謹慎が解かれる。そして文化6年(1808)30歳の時、春水の親友である菅茶山の廉塾に引き取られている。ここで3年過した後、文化8年(1810)32歳で京都に出て町儒者として自立する道を選択する。この新町丸太町での開塾を藩は2度目の脱藩と見なし、親族や師友とも気まずい状況になったことは確かである。これより先に、頼家は春水の弟の春風の子の景譲を養嗣子として迎え、藩儒の家を継がせている。しかし家督を譲る前の文化12年(1815)に景譲は享年26歳で亡くなっている。
文化10年(1812)山陽は美濃、尾張、三河、伊勢の各地を遊歴し、美濃の大垣で江馬細香に出会っている。蘭学者で蘭方医の江馬蘭斎の長女で、詩文の才に恵まれ、文学の世界で自立を志す新しい女性であった。山陽は才色兼備の細香に愛情を感じ求婚したが、山陽の素行の悪さを嫌った父蘭斎が拒絶したとされている。年末に帰京した山陽は、ほどなく りえ という女性と同棲を始め、親友の小石元瑞の養女として文化12年(1814)に梨影を入籍している。細香も山陽を慕っていたようだが、梨影と結婚した後は山陽を文学の師として慕い、梨影や山陽の母の梅飃とも家族同然の交際を生涯続けている。
これより少し前の文化10年(1812)、京都に出て町儒として暮らし初めて以来拒絶されていた父の春水との再会を許されている。春水にとって人生最後の後始末を果たすことは、山陽を許すことであった。これを遂げた春水は、文化13年(1816)2月19日に亡くなっている。享年71。孫の頼聿庵が家督を継いでいる。
文政元年(1818)父の三回忌のため広島に帰省したのを契機とし、4月から12月までの9ヶ月に渡る九州への大旅行を実施する。博多の亀井昭陽、熊本の辛島塩井、竹田の田能村竹田、そして日田の広瀬淡窓など、各地で学者文人との交流をしたことは、山陽のその後の人生の大きな財産となったであろう。
文政2年(1819)母の梅飃を伴い帰洛する。山陽の後半生は母への孝行で満たされている。山陽が没するまでの14年間に、京都に迎えること4回、広島に見舞うこと5回。このうち2回は母を送迎するために広島を訪れている。何れも初夏の気候の良い時期を選び、宇治、嵐山、吉野などの名所での花見や芝居見物から、祇園や島原での茶屋遊びなどが行われていた。日頃の質素な生活とは全く異なり、母を喜ばせるためには金銭を惜しまなかった。江馬細香も大垣から上洛し梨影とともに毎度の事ながら加わっている。もともと梅飃は大阪の裕福な医家の出であり、社交的な性格であったため、このような息子の歓待を喜んで受けたことと思う。84歳と当時では考えられないほど長寿を保ち、晩年まで健康を維持していたことから、広島からの長旅も苦にしなかったのであろう。
このように波乱に満ちた前半生徒は異なり、山陽の後半生は非常に穏健着実に過している。そして50歳を越したころから健康を害するようになり、ついに天保3年(1832)8月18日に喀血し、9月23日に没している。享年53、京都東山の長楽寺に葬られる。
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