文書と写真・地図による「記憶」の再現

立命館学園発祥地

立命館学園発祥地(りつめいかんがくえんはっしょうのち) 2009年12月10日訪問

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立命館学園発祥地

 京都府立医科大学付属病院内にある療病院碑を後にして河原町通を渡ると、広小路通が始まる。この通りの北側に赤御影石を使用した立命館学園発祥地の碑が見える。廬山寺から南側の敷地には現在は、平成4年(1992)竣工の京都府立医科大学附属図書館と平成5年(1993)竣工の看護学学舎が建つが、その東南角を借りるように記念碑が造られている。碑の建立年が図書館と一致することから、この地が整備された時に建碑されたのであろう。
 東三本木町に建つ立命館草創の地でも既に記したように、この碑の地には、かつて清輝楼があり、清輝楼→茨木屋→あづまや→大和屋と変遷して行った。頼山陽も清輝楼を良く利用したようで、山陽亡き後も、茨木屋と頼家の関係が明治になっても続いていたことも山紫水明処 その5吉田屋・清輝楼・大和屋 その2で触れておいた。そして立命館の創立の歴史についても、立命館草創の地で説明したが、ここでも簡単に触れておく。最初の立命館、すなわち「私塾立命館」は幕末の公卿西園寺公望によって創設された。

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立命館学園発祥地

 西園寺公望は嘉永2年(1849)、清華家の一つ徳大寺家の徳大寺公純の次男として誕生する。4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続している。幼少時には住まいが御所に近く、年齢も近かったことから、嘉永5年(1852)生まれで後の明治天皇となられる祐宮の遊び相手として度々召された。嘉永生まれの公望は若年であったため、岩倉具視や三条実美のように幕末期の政治活動に身を投じることはなかった。しかし戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、奥羽征討越後口大参謀として各地を転戦し、新潟府知事などを歴任している。
 明治2年(1869)9月23日、京都御所内にあった自邸に私塾立命館を創設している。私塾立命館も公家の家塾と同様に賓師として漢学者らを招いていたが、家塾よりは一般的な教育機関を目指したものであったようだ。白柳秀湖著「西園寺公望伝」(日本評論社 1929年刊)によると、この私塾立命館も維新直前より毎月西園寺邸内で催された詩筵、すなわち詩人や文人などが開催する会合に由来している。この詩筵は小野湖山、頼支峰、梁川星巌の未亡人紅蘭女史、山中静逸等が常連であった。私塾の教師としては広瀬青村、松本龍、江馬天香、神山鳳陽などの名家があたった。塾生には西園寺門客や家臣のみならず多くの若者が遠方からも集まり、塾は次第に内外の時事問題を議論する場になっていった。諸藩から集まる若い塾生の中には地方の郷士の出も多く、西園寺の側近として最後まで行動をともにする中川小十郎の郷里である丹波の人々も加わっていたようだ。塾の評判が高くなるにつれ、さらに多くの若者が集まるようになり、ついには100人程度までにふくれあがった。明治3年(1870)4月23日、塾のあり方に不穏な空気を感じた京都府庁は差留命令を発し、私塾立命館を閉鎖している。先の西園寺公望伝でもその理由については詳しくは触れていない。

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立命館学園発祥地

 西園寺は明治2年(1869)3月15日付けで「依願陸軍将被免候事」の辞令を受理し、次いで7月に「勤学中官位辞表被聞食候事」の辞令に接している。陸軍将を辞し洋行の準備に入ったと思われる。そして明治3年(1870)10月に正式にフランス留学を命じられている。木戸や大久保の推薦ではなく、自らの意思によって洋行を決意したことを西園寺は後年述べている。大村益次郎に師事し軍事の教育を受けていたので、大村には洋行の相談をしている。大村は西園寺が軍人を志してフランスに留学すると誤解し、軍人の適性がないから止めたほうが良いと忠告している。しかし西園寺は法制を学ぶための洋行だということを説明すると、大村も賛成してくれ、これを以って西園寺も決心を固めている。明治13年(1880)10月21日の帰朝まで、凡そ10年間をフランスで過している。
 大村益次郎は西園寺に次の世代の政治的なリーダーとして期待したようで留学を勧めている。また刺客に襲われた明治2年(1869)9月4日の夜も西園寺を招いての宴であったようだが、たまたま公家の旧友に誘われ欠席したことが命拾いとなったと、司馬遼太郎が「花神」で書いていたことを思い出した。

 明治33(1900)5月、西園寺公望の秘書官であった中川小十郎は、法律と政治の二科による私立京都法政学校を開校している。平成12年(2001)に建立された副碑によると、清輝楼を仮校舎として明治33(1900)6月5日の夜間授業から開校している。翌34年(1901)12月には、広小路河原町の新校舎、すなわち立命館学園発祥地が建つ地に移転している。清輝楼に立命館の前身となる私立京都法政学校の仮校舎があったのは1年6ヶ月位のことであった。立命館の広小路キャンパスも手狭になり昭和56年(1981)北区等持院北町の衣笠キャンパスにさらに移転している。

 立命館草創の地の碑には清輝楼の写真が嵌められているのに対して、立命館学園発祥地の碑にもかつての広小路キャンパスの写真が残されている。この写真からは敷地がいかに狭かったかは伝わらないので、竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻3」(白川書院 1961年刊)に所収されている広小路キャンパスの鳥瞰図を貼っておく。

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立命館学園発祥地
竹村俊則著「新選京都名所圖會 巻3」(白川書院 1961年刊)の立命館広小路キャンパスの挿絵

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