文書と写真・地図による「記憶」の再現

梁川星巌邸址 その2

梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと)その2 2009年12月10日訪問

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梁川星巌邸址 2011年6月18日撮影

 安政4年(1857)10月、梁川星巌は8年暮らした川端丸太町から、東三本木の貸家に居を移し鴨沂水荘と称している。この項では若干脱線するが、三本木に移り住んだ後の星巌と紅蘭、そして鴨沂水荘の変遷について書いていくこととする。

 伊藤信著の「梁川星巌翁 附紅蘭女史」によると、

庭中怪松あり。因りてまた老龍庵と名づく。(但し老龍庵の名は丸田町の宅に住せし時にも之を用ひたり)もと中島棕隠の寓せし所にして、頼山陽が修史の亭(山紫水明処)とも相隣り、鴨水叡嶽の勝を一欄に収め、風煙絶佳なり。

とある。この鴨沂水荘が上記の通り梁川星巌の終焉の地となる。ペリー来航の嘉永6年(1853)から安政5年(1858)の安政の大獄の始まりまでの星巌の国事奔走については改めて別の項で触れることとする。安政5年の秋、異疫が京に流行し、星巌も8月末より下痢に冒されていた。久坂玄瑞が病床の星巌を訪ねた際には床上に会い、時事を談じて間部閣老に逢うことができないことを嘆いている。しかし9月2日になり病状が激変し、吐瀉を数度繰り返し衰弱甚だしくなる。門人の松本尺木が諸子に急を報じ、頼三樹三郎に続き、淡海槐堂の実弟の江馬天江が駆けつけている。緒方洪庵の許で蘭学を学んだ天江は、良医を呼ぶことを勧めるが、星巌は「吾年七十歳、豈亦余命を貪らんや」と謝絶している。そして手足が冷たくなり死期が近づくと、「男子婦女の手に死せず」と紅蘭を別室に退け、三樹三郎と天江に衾を排させ自らを正座させる。泊然瞑目して逝去したとある。

 星巌の死去から時を置かず、安政の大獄の捕縛が始まる。梅田雲浜に続き、星巌の最期を看取った頼三樹三郎、そして鵜飼吉左衛門、幸吉父子、橋本左内、日下部伊佐次、池内陶所、三国大学、宇喜多一恵、春日潜庵、小林良典、そして吉田松陰と星巌に関係していた人々は悉く捕らえられて行く。初め幕吏は星巌の病死を疑い、死因及びその日時を細かに鞠問している。そして葬送に従った者を捕え墓所を問い、その死屍を検して遂に星巌の死を確認している。さらに鴨沂水荘の捜索を行い、星巌が残した秘密書類を収容しようと試みたが、未亡人の紅蘭によって悉く焼却された後であった。幕吏は紅蘭女史を捕え、尋問している。京都町奉行の小笠原長門守は国事を謀議した志士の名を問うたが、女史は「星巌は男子なりき。故に事の大小となく、閨閣の女子に謀ること無し。」と言い放った。明けて安政6年(1859)2月16日、赦された出獄する。そして万延元年(1860)4月、紅蘭は再び川端丸太町の旧宅に帰住している。

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梁川星巌邸址 山紫水明処と鴨沂水荘

 梅田雲浜の弟子でもあった富岡鉄斎は、明治5年(1872)に山紫水明処で暮らしている。正宗得三郎著「富岡鉄斎」(錦城出版社 1942年刊)の鉄斎年譜の明治5年の条には以下のように記されている。

聖護院村より御幸町に移り更に10月頃御幸町より上京区新三本木南町なる山紫水明処に移る。同処に住する事三年と云ふ。或いはこの前年移転か。

 また鉄斎が描いた山紫水明図も掲載されている。辛未四月の作で落款には「写於支峰先生山紫水明処鉄斎」とある。辛未四月とは明治4年(1871)4月のことである。借家の相談か下検分を行った時か、あるいは前年から山紫水明処に過していたかと推測している。 本田成之著の「富岡鉄斎」(中央美術社 1926年刊)に掲載されている富岡鉄斎先生事略の其八には富岡鉄斎が目にした紅蘭女史の姿が下記のように記されている。

丁度其頃頼山陽の旧居、三本木の水西荘即ち山紫水明処が空家になったので由緒ある家であり先生は喜んで移つた。家賃は五円である。此家の東側は加茂川で其対岸に梁川星巌の宅がある。星巌の室紅蘭女史は一寸野菜買に行くにも一人の下婢を揚々として荒神橋を渡り、門へ近づくと下婢が先へ小走りに入りて門を開け、横へそれて恭しく頭を下げてゐると紅蘭は腹を前に突き出しさうにしてヌツと門へ這入る。其様子が手に取るやうに見えたとのこと。星巌は全く此夫人に頭が上がらなかつたさうである。

 これは本田成之が富岡鉄斎から直接聞いたことや手記などを元にまとめたもので、文中の先生は鉄斎のことである。繰り返しになるが、梁川星巌が川端丸太町の鴨沂小隠から水西荘の北隣の鴨沂水荘に越してきたのが、安政4年(1857)10月である。そして安政5年(1858)9月2日に星巌は鴨沂水荘で病死している。ここで過ごしたのは僅か1年余である。星巌の没後、時をおかずに紅蘭が捕縛されたのも鴨沂水荘であった。安政6年(1859)2月16日、紅蘭は赦された出獄する。そして川端丸太町の旧宅に紅蘭が戻るのは万延元年(1860)4月のことであった。紅蘭は非常に長寿で、明治12年(1879)まで生き永らえた。鉄斎は明治初年の紅蘭女史の姿を見かけたのである。

 既に吉田屋・清輝楼・大和屋 その2でも触れたように、「大垣つれづれ」に掲載されている「頼山陽邸の北隣の家」には、山紫水明処の北隣には、陶工の青木木米の別邸があったとしている。木米は鴨川東岸、祇園新地の木屋の主でもあった。別邸の庭には老龍庵と名付けられた老松があった。儒学者で漢詩人、そして狂詩作家でもあった中島棕隠は、夏の住まいとして木米より借りることがあったようだ。文政13年(1830)棕庵は鴨川の東岸に住むことに決し、二条新地に新居、銅駝余霞楼を営んでいる。その後に入ってきたのが梁川星巌である。勿論、頼山陽、青木木米、梁川星巌は旧知の仲である。 幕末維新の変動の中で、この家宅は日本画家の谷口藹山の所有となった。藹山も梁川星巌と知遇がある上、尊王攘夷運動を支援するような人物であった。星巌が亡くなり、紅蘭も投獄された後、そのような経緯から鴨沂水荘を引き取ったのかもしれない。藹山は親しくしていた鴻雪爪にこの家宅を提供している。鴻雪爪の漢詩文集「山高水長図記」には以下のようにある。

鴨沂水荘。 旧中島棕隠所寓。 
頼山陽修史亭相隣。 日夕唱和。
後梁川星巌住焉。
庭中有怪松。 因名老龍庵。 
星巌没後。 一二易主。 今帰谷口藹山

 鴻雪爪は松平春嶽、横井小楠、由利公正等と交り、山内容堂、鍋島閑叟、木戸孝允、大久保利通らと共に国事に奔走した禅僧である。大垣の全昌寺の住持であったことから、大垣藩藩老・小原鉄心とも親交があり、鉄心が雪爪を慕って参禅する関係にあった。鉄心も星巌の出身地の要職にあったことから、星巌との交誼は厚かった。安政2年(1855)に星巌が鉄心に贈った書簡には、諸藩共に人物の稀少を嘆き吉田松陰や佐久間象山の近況を報じたものがある。

 仙台藩士・岡鹿門の「在臆話記」には、この地で鉄心の催した別筵が記されている。「在臆話記」は「随筆百花苑 全15巻」(中央公論社 1980年刊)の1巻と2巻に納められている。該当する箇所は、「随筆百花苑 2巻」の在臆話記第四集第三の“小原鉄心豪挙会諸名流” 第四集第四の“山紫水明処”にある。解題によると、この第四集は文久2年(1862)から元治元年(1864)にかけての事柄を書き綴ったことになる。小原鉄心は大垣藩の城代で文久3年(1863)に主君の戸田氏彬に従い上洛しているが、岡鹿門が記しているのは、その前年、文久2年(1862)5月18日。京より越前に発つ前日に行われた別れの宴のことと思われる。

吉田屋ノ水楼、即山陽ノ山紫水明荘也。文人ハ、支峰、静逸以下、画工ハ対山、耕石以下、凡都下ノ書家、篆刻、文墨ヲ以テ名ヲ成ス者七八十名ヲ会集、一々挨拶、其意充シメ、絃歌如雨。

 この後、鹿門は“山紫水明処”という章で、この小原鉄心の別宴を再び記している。

此ノ山紫水明処ハ、セミノヲ川ノ浅瀬臨ミ、蒲団被テ寝タル姿ナル三十六峯ノ紫緑ヲ望ミ、其西岸枕ミ、一條、二條中間ノ勝地ヲ占メタル、本ハ酒楼ナル、山陽、西遊帰後、其業大イ行ハレ、文壇虎視シ、飛鳥モ落ル比、購ヒ得タル、所謂ル水西荘也。鉄心ノ別筵ヲ開キタル時ハ、酒楼ノ旧復シ、吉田屋ト唱ヒタル也。楼上楼下、優カ百余名ノ游客ヲ容ル。山陽ノ名ヲ以テ、勝名愈々著ハル。

 鹿門は吉田屋と誤って記憶したのかもしれない。さらに慶応4年(1868)3月から閏4月にかけて、鉄心と雪爪は京都にいた。かつて甲子戦争において、大垣藩は鉄心の指揮により伏見街道で長州藩を撃破している。これが長州藩にとって禁門の変の最初にして大きな躓きとなった。さらに大垣藩は第二次長州征討に兵を送り、鳥羽伏見の戦いでも旧幕府軍に加わったため、大垣藩は朝敵と目された。鉄心は藩主・戸田氏共を説得、藩論を佐幕から尊王へ統一させ、京に上った。閏4月15日、鍋島閑叟、長州藩の長松秋琴と雪爪、鉄心の四人で酒間に聯句を娯しみ、二日後の17日には大久保利通、木戸孝允、由利公正、横井小楠、長州の広沢兵助に寺内暢三、名和緩、土佐の福岡孝悌という面々がこの家に集まったとしている。これは上野戦争が始まる直前の出来事である。

 「大垣つれづれ」の記述は鴻雪爪の「山高水長図記」にほぼ従ったものとなっている。なお谷口藹山は越中国新川郡鉾ノ木村(富山県立山町)の出身で、梁川星巌と知遇を得て天保8年(1837)に高久靄厓の晩成堂に入塾している。東三本木の老龍庵に移ったのは安政6年(1869)のことだった。そして吉田屋の跡に住んだとされる幸野楳嶺とは京都府画学校の教授仲間であり、楳嶺の主催する京都青年絵画研究会の審査委員も務めている。この東三本木町は、頼山陽と梁川星巌に親交のあった人々そして大垣の人々と結びつき強い町であったことを改めて感じた。

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梁川星巌邸址 東三本木町の町並み

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