田中河内介の寓居 その3
田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ)その3 2009年12月10日訪問
田中河内介の寓居 その2では、寺田屋事件発生後の薩摩藩の対応について田中河内介一党以外について記してみた。ここでは河内介等の最期を描いてみる。
寺田屋事件に関わった薩摩藩士の本国への移送、そして真木和泉の列の久留米藩への引渡しがすむと田中河内介等の処遇を残すのみとなる。田中河内介・左馬介父子と千葉郁太郎、中村主計、海賀宮門は薩士21名、監察4名と多数の足軽に警固され、大阪から日向細島までは海路、それより陸路で鹿児島に向かうこととなった。
左馬介は弘化2年(1845)3月、田中近江介の女・増栄との間に生まれた長子である。幼い頃より文学を好み詩を善くした。東郊と号し、大仏宮に仕え磋磨介と称し広く有志と交わり、父とともに皇威の回復を目指した。
千葉郁太郎は但馬国城崎郡栗山村の田路鼎斎の子として弘化元年(1844)7月に生まれている。田路鼎斎の父は小森正造であり田中河内介の末弟で、婿養子として田路家に入っている。つまり河内介にとって、郁太郎は甥子である。鼎斎は早くから河内介の長兄の小森正造に養われ、出石藩儒の堀田省軒に就いて学んでいる。正造は家業である医業を郁太郎に継がせようとするが、上手くいかない事情があったようで、これを憂いた河内助が万延元年(1860)17歳の時に京に呼び、自らの家に住まわせた。郁太郎は河内介が国事に奔走する姿を見て、国事に関わることとなる。自ら千葉姓に改め徳胤と名乗った。容姿端正にして気概に富み、同世代の左馬介とは本当の兄弟のように接した。
中村主計は肥前島原北有馬村の中村貞太郎(変名:北有馬太郎)の弟、兄の太郎は文政11年(1828)の生まれ。江戸で安井息軒に学び、次いで久留米で真木和泉と交わる。息軒の娘と結婚し武蔵下奥富で塾を開く。嘉永年間の始めに京都に移り住み、梁川星巌、田中河内介とも親交があった。文久元年(1861)5月、清河八郎の逃亡を手助けしたということで、西川練造、笠井伊蔵らと共に幕吏に捕縛される。江戸小伝馬町の獄舎に送られた3人は悉く獄死している。なお「野史台 維新史料叢書13 伝記4」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1974年覆刻)に収められている小河一敏による中村主計伝では、太郎は毒殺されたとしている。主計は幼くして国を去り、久留米で成長し国事に奔走するようになる。京に入り五条に寓居し製陶の業に従事していた。河内介の義弟となった主計は常に河内介を畏敬しそして義挙に参加する。
海賀宮門は秋月藩士海賀藤蔵直春の長男として天保5年(1834)に生まれている。家は代々揚心流の剣法の師であるため、宮門も幼少より剣槍の術を学んだ。また文学も嗜み、秋月藩士で有志の戸原卯橘と交わっていた。海賀が寺田屋事件に加わったため、戸原も秋月藩より嫌疑を懸けられ、国元に幽閉させられている。しかし文久3年(1863)8月26日に藩主に一書を奉じ、脱藩し京に上る。八月十八日の政変が起こり政情一変する中、10月に生野の挙兵に身を投じ、10月14日に自刃して果てている。海賀は嘉永4年(1851)春、久留米の池尻茂左衛門の門に入り儒学を学ぶ一方、真木和泉と交わり時事を論談する。翌5年(1852)の春には熊本を訪れ、儒者の木下右太郎、横井小楠、沢村宮門等を知る。さらに岡藩にも立ち寄り、嘉永6年(1853)秋月に戻る。 そして安政年間の始めには藩政を論議する一方で、隣国の遊歴を行い、佐賀では枝吉杢之助、草場磋助、副島二郎、薩摩では西郷吉之助、鮫島正助と接見する。秋月に戻り時事について論議したことにより、一時某村に流される。万延元年(1860)秋、福岡藩で勤王派と守旧派の争いが起こり、勤王派が排斥されると支藩の秋月でも海賀宮門が幽閉される。文久2年(1862)春、小河一敏が上京することを下関より海賀に伝えると、これに呼応して幽居を脱し大阪土佐堀の薩摩藩邸に入る。
前述のように大阪から日向細島までの海路は、田中河内介・左馬介父子と海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計の2つに分かれ、それぞれ異なった船で輸送された。海賀宮門等三士が第一船に、田中父子と青水頼母が第二船にあった。
豊田小八郎は「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)の中で、田中河内介父子の殺害は、5月1日深夜に第2船中で行われたと考えている。これは5月2日の朝に父子の遺体が小豆島に打ち上げられ、屍体検案に関する記録が3通残されていることから断定している。この日が「大北東風にて大荒の節」とあることから、遺棄された場所は島の北東側と考え、淡路海、播磨灘あるいは垂水沖という場所が推測されている。因みに明治28年(1895)4月、小豆島に建てられた品川弥次郎撰による贈正四位田中君父子哀悼碑には淡路海としている。また文久3年(1863)正月24日に薩摩の御用船永平丸が播磨垂水沖の積立と呼ばれる暗礁に乗り上げ沈没している。これが田中父子の祟りとされ、この地が殺害場所とも思われている。この場所には燈台が設置され父子の常夜法燈とされている。なお「野史台 維新史料叢書13 伝記4」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1974年覆刻)に収められている盟友小河一敏による田中河内介伝では、5月9日の夜、長門稲ノ瀬沖と記している。しかし検案書を信用するならば既に5月2日に小豆島福田村に流れついているため小河が伝聞したことは誤りであったであろう。
遺体を見つけた百姓伊右衛門の口述によると、
當五月朔日夕七つ時より、東北風吹き出し候に付き、
早々漁網を船より取纏め、船を繋ぎ留め、帰宅の処、
追々風雨弥増し烈敷物すごく存じ居り、
翌二日明方浜辺に罷出で、右網船共、
夫々漸く取入れ候処、
沖の方より異体のもの高波に打揚げられ、漸く見留め、
村役人共に知らせて、申し聞かすべしとする折柄、
年寄貫作儀、風雨烈しきに付き、同人も見廻りに罷越候間、
取敢へず同人へ申聞け候云々。
庄屋の三木権左衛門が先月の25日より倉敷代官所に行っていたため、年寄の鵜野新蔵と三木貫作が倉敷の代官所に連絡している。代官大竹左馬太郎の手附長谷川仙助を伴い帰村するのに10日余を費やしたため腐敗が進み面体も衣服も分からないようになっていた。死体は2体。1体は年齢凡そ50歳余り、痩せ方で丈高く総髪。山伏のごとく頬髯三四寸程、顎周りにも髯を生やしていた。左の脇腹に一寸程の刀疵があり、右の脇にも少々切疵。
もう1体は年齢22~3歳で随分肉付きが良い体。総髪で山伏のようだが頬髯はない。左の横腹を刀で抉った疵がある。左切口より臓腑が六七寸程出ていた。脇の下に一寸程の刀疵一箇所あり。
両人とも後手が縛られており、縄の掛け方から番人が掛けたものでないように見える。男結びにして、首より掛け後ろにて縄を捻り両手を縛っている。また両人とも幅4寸厚さ2寸半の木で作った足かせを付けられており、8寸釘で木を両方から留めている。
若い方は白木綿7尺余の腹帯を締めており、解いてみると、田中河内介男主馬介藤原嘉猷と書き記されていた。
これらの死後の状況を見る限り、薩摩藩士と争った後に斬伏せられたか或いは自らの運命を知り泰然と自刃したとは考え難い。また小河の書くように、「疾ク殺セトヲ襟ヲ披キ胸ヲ明ケ両手ヲサシ上げ殺サセタリトゾ」という劇的な最期でもなかった。足枷を嵌められ後手で縛り上げられ身動きの出来ない状態で獣を仕留める様に刺し殺されたことが想像される。
なお豊田小八郎の言うところの屍体検案に関する記録3通をどこかで見た記憶があった。探してみると、「野史台 維新史料叢書15 伝記6」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1974年覆刻)に所収されている「田中綏猷父子伝」に、死体漂着之事として付けられている。これは「文久二歳戌五月二日大北東風ニテ大荒ノ節當村浜辺打揚候死人記録」と「御見分書」そして戌五月六日付けの発見後の経緯を綴った書類の3つによって構成されている。遺体の特徴を陳べる部分は重複しているがほぼ上記の「・・・當村浜辺打揚候死人記録」と同じ内容になっている。この書類は漂着した時点での記録であろう。そして「御見分書」は末尾に記されているように代官手附長谷川仙助が立ち会った時の記録であり、既に「腐乱処々虫生シ有之候」と生々しい記録となっている。さらには、腐敗が進んだため寺院へ移送しての埋葬が困難なため、浜に埋葬すると共に、その年齢、着衣、死体の特徴等を立札に認め6ヶ月間掲示する許可を得ている。これに関わった村人は、見付人の百姓伊右衛門、年寄の貫作と新蔵、百姓代の又兵衛そして庄屋の権左衛門であったことが分かる。
田中父子の惨殺について薩摩人達が悉く口を噤んでいるため、その殺害の実行者を特定することはできていない。明治になり高官となった実行者が、毎夜のように河内介の亡霊を見るようになり、終には発狂した言う説。船中で実行者を決めるために籤を引き、籤に当たった柴山弥八が自分の代わりに弟の弥吉にさせたとする説。この弥吉も発狂し、殺害当時の状況を身振り交えて再現したと謂われている。なお左馬介を殺害したのは橋口壮介の弟の三郎とされている
また田中光顕が警視総監を務めていた頃、下僚の柴山景綱が要人の中山忠左衛門の命に従って自ら行ったという話しを聞いている。柴山景綱は龍五郎であり、寺田屋事件に連座したが後に赦されて徒目付となる。戊辰戦争では本営付監軍として北越に従軍し、警視庁大警部、山形・福島などで郡長をつとめている。もしこの説を信じるならば寺田屋事件に関係し薩摩に送り返す途中の人間を使った暗殺ということとなる。しかし町田明広氏の著作「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)によると、5月22日に島津久光が茂久に送った書簡(「玉里」)に、薩摩藩の義挙派の中から前非=寺田屋事件を悔いて首謀浪人を成敗したいと申し出たため、船内で如何様にも取り計らえるように申し渡しておいたという旨が書かれている。このあたりがあるいは真相かも知れないが、それにしても斬られる方としても浮かぶ瀬がないことだ。
当時の福田村は幕府領で倉敷代官所の管轄とされていた。そのため田中父子の屍体検案書は備中倉敷代官所で保管されていた。慶応2年(1866)4月10日、立石孫一郎が長州藩第二奇兵隊を率いて、幕府倉敷代官所及び総社浅尾藩陣屋敷を襲撃している。所謂、倉敷浅尾騒動と呼ばれている。その際、上記の屍体検案書が倉敷本町薬種商林孚一の手に渡った。林は幕府に追われて一時倉敷に身を隠していた森田節斎の尊王説に共鳴して尊王攘夷運動家を助けている。この林の得た屍体検案書を以って世の知るところとなった。
上述の田中綏猷父子伝の最後には、小河一敏によって明治8年(1875)9月22日に記された田中綏猷父子事蹟略記が付けられている。ここでは小河は田中父子と海賀宮門等の最期を下記のようにまとめている。
其詳ナル由ハ藩士秘シテ語ラサレハ是ヲ不知ト雖モ
今度伏見ニテ指押ヘラルヽ如キ事件ニ及フハ綏猷ノ
虚喝ヨリ出タルナレハ其恨ヲ報セント指押ヘラレタル者ノ
親族又ハ同志ノ壮士其事実ヲ詳ニセスシテ此疎暴ノ挙ニ
及ヒシナランカ又宮門、郁太郎、主計ハ日向国細島港ニテ
殺サレタリトソ此事ヲ想フニ宮門ハ正直ナル人ナレハ
綏猷ノ罪ニアラサル由ヲ弁シテ争ヒ夫ヨリ起リテ此人々モ
殺サレタルナラン
略
右ノ者事蹟何方ヨリモ原ノ儘上進有之間敷ト被存候一敏
旧交ノ故ヲ以テ此旨上申候也
明治八年九月二十二日 三等撰袗 小河一敏印
内務卿大久保利通殿
右下阪事蹟ハ愚老親ク国元ニ就キ相タヾシ候モノニテ
聊カ相違無之候也
西村敬蔵
木 孚一 様
木孚一は林孚一の誤りであろう。西村敬蔵は田中河内介の義弟で、綾小路東洞院で開業している町医であった。義挙の当日、是枝柳右衛門が手当てを受けている。
田中父子が船中で殺害されたのに対して、第一船の海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計は日向細島に着いた後に実行されている。その日時を小河一敏は「野史台 維新史料叢書13 伝記4」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1974年覆刻)の海賀宮門伝で5月7日としているが、豊田小八郎は偶然虐殺現場を目撃した黒木庄八の証言を採用して5月4日としている。乗船した寺田屋に関連した薩摩人は駕籠で国に帰した後、三人を木に縛り付け惨殺に及んだとされている。千葉郁太郎、中村主計は田中父子とも関係が深く、その上帰るべき藩がなかったが、秋月藩士であった海賀宮門は秋月に帰ることなく、日向の地で殺されなければならなかったのか?この疑問に対して、薩摩藩邸に連行された後に海賀は大久保一蔵等と面談を繰り返していたことを思い出す。秋月は俗論派が強く戻れば必ず厳罰に処せられる、それに対して薩摩は大久保を始め同志が多くいるため薩摩行きを決めたと小河は推測している。謹慎中の身で藩を脱し、大阪土佐堀の薩摩藩邸に入った海賀にとって秋月に戻る選択はなかったのかもしれない。
さて実際に死体が打ち揚げられ、虐殺場面が目撃されたのは、田中河内介・左馬介父子、海賀宮門、千葉郁太郎、中村主計の5名であった。西郷隆盛が島津久光の怒りを買い、徳之島に遠島された後に木場伝内に送った書簡が「日本史籍協会叢書 西郷隆盛文書」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1923年発刊 1987年覆刻)に残されている。この書簡は6月30日と事件発生より2ヶ月ほど過ぎた時点で書かれている。
一 田中河内介と申すは中山家の諸太夫にて京師におひて
有名之人に御座候
右之人粟田宮様之恩令旨と申すものと錦之御旗を捧居候由
右は偽物にて是を以人々をあさむき候と申すものにて
御国元迄被差下との趣を以て船中にて私に隠然と
父子三人外に浪士三人都合六人被殺候由
ここで注目すべきは田中河内介が青蓮院宮の令旨と錦之御旗を所持していたこと、そしてこの事件に関連して6人が殺害されたということであろう。小河一敏の「王政復古義挙録」(丸善 1886年刊)でも4月22日の夕刻に田中河内介は青水頼母を相国寺に幽閉されている青蓮院宮に計画を伝えるために送っている。小河は、「因ニ云フ事破レテ後此人ノ消息ヲ知ラス如何ナリシニヤ」と記している。豊田小八郎は田中父子、海賀、中村、千葉に加え、この青水頼母が6番目の被害者ではないかと推測している。これは、宇高浩による「真木和泉守」(菊竹金文堂, 1934年刊)によるところが大きいようだ。この文中で、青水頼母は第二船に乗船し田中父子とともに惨殺されている。宇高の説明では3人の内、田中父子の死体だけが小豆島に流れ着き、青水の遺体は行方知れずという説明になる。これに対して豊田は、青水は第一船に乗船し海賀等と共に殺害された後、別の場所に葬られたと考えている。海賀と一緒に殺害されたなら、豊田が採用している黒木庄八の証言にも現れてくる筈だが?この説にも少し無理があるようだ。
青水頼母は京の大仏妙法院の御内の青水従六位清原宣翰の子で頼母宣達であった。長兄の宣篤は妙法院宮の勘定奉行を勤めていた。頼母は御内の梅辻春樵を師とし儒学を修めた。沈勇寡黙にして身長は六尺にも及ぶ、当時としては大男であった。東山八坂辺りの剣客初島某に剣を学び、詩もまた良くした。中村主計とも平素から親しく製陶も巧みであった。河内介とは中村と共に兄弟の契りを結んでいる。土佐堀の薩摩藩邸に入るが、4月22日の夕に河内介の命を受けて京に上り青蓮院宮に義挙計画を伝える。
頼母の姉鐐は青蓮院宮の家来野村丹波守に嫁し、頼母の弟の左司馬は吉岡家を相続し青蓮院宮の御近習でもあった。吉岡左司馬も野村丹波守も宮に奉仕していたので、河内介が頼母を送った意味がよく分かる。
さて、井野辺茂雄著の「幕末史の研究」(雄山閣 1927年刊)には、田中河内介がこの義挙計画のために青蓮院宮の令旨と錦旗を用意し、それを用いようとしたことを問題視している。上記のように西郷隆盛も偽物だと判断した上で、朝廷に差し出して真偽を付ければよかったのに、天朝の人を殺してしまっては最早、勤王など口に出せないと記している。その上で下記のように嘆いている。
此の儀若哉朝廷より御問掛相成候はゝ如何御答
相成候ものに御座候哉
頓と是限の芝居にて御座候
もふは見物人も有之間敷と相考申候
遠島中ではあるものの、薩摩の行く末を考える西郷の心境を良く現わしている。西郷もやはり令旨と錦旗の存在は大きく見ている。偽物であれば田中河内介のみの仕業で済ませるが、もし本物であったら青蓮院宮を傷つけることに成りかねない。青蓮院宮を朝廷政治の核心としてきた薩摩にとって京における橋頭堡を失う危険性も秘めている。それを考えると薩摩を巻き込んだ田中河内介の立案した、手段を選ばぬ義挙計画に対して大いなる怒りを感じたであろう。その再発を防ぐための排除行為であったとしてもおかしくない。田中父子とその義弟関係にある者、そして計画中に青蓮院宮に接触した人々が排除の対象となり、ある意味で海賀宮門がその巻き添えになったのではないだろうか?
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