京都御苑 宗像神社
京都御苑 宗像神社(きょうとぎょえん むなかたじんじゃ) 2010年1月17日訪問
白雲神社に続く京都御苑内の神社として宗像神社を取り上げる。宗像神社は白雲神社からさらに南に下り、賀陽宮邸と出水の小川そして下立売御門を過ぎた左手の植栽の中にある。
主祭神は宗像三女神である多紀理毘売命、多岐津比売命、市岐嶋比売命の三柱で、倉稲魂神と天岩戸開神の2柱を配祀する。かつて花山院家の鎮守神であったが、もともとは桓武天皇の勅命により、藤原冬嗣が東西両市の守護神として宗像神を勧請したが、自邸である小一条院内に遷し祀ったとされている。藤原冬嗣は人臣初の摂政となった藤原良房の父にあたる。後の藤原家の地位を築いた冬嗣は、宝亀6年(775)藤原北家の右大臣藤原内麻呂の次男として生まれている。兄で長男の藤原真夏が大同5年(810)の薬子の変に連座し、参議を解官後、伊豆権守次いで備中権守へ左遷している。真夏は平城天皇の側近として昇進を果たしてきたため、薬子の変で罪を免れることは出来なかったのであろう。弘仁3年(812)本官に復帰した後に平城上皇と朝廷の間を取り持つ役割を担ったものの、従三位に留まった。
兄の真夏が平城天皇に取り立てられたのに対して、平城朝で皇太子賀美能親王に仕えた冬嗣は、大同4年(809)嵯峨天皇の即位の後、四階昇進し従四位下左衛士督に叙任されている。嵯峨天皇からの信頼が厚く、特に薬子の変の後に急速な昇進を続ける。弘仁14年(823)に正二位、天長2年(825)には左大臣まで上り詰めている。翌天長3年(826)薨去。享年52。没後まもなく正一位を贈られ、道康親王が嘉祥3年(850)文徳天皇に即位した際に、太政大臣を追贈されている。
小一条院は「小一条第」、「東京一条第」あるいは「東京第」と称された左京一条三坊十四町の邸宅。春曙抄本を底本とした「枕草子」の第十九段には以下のように記されている。
家は 近衛の御門。二條、一條もよし。染殿の宮。せかゐ。菅原の院。冷泉院。朱雀院。とう院。小野の宮。紅梅。あがたの井戸。東三條。小六條。小一條。
染殿、縣の井戸とともに小一条をあげている。もともと藤原内麻呂が当麻公長から購入し、子息の冬嗣に与えた邸宅で、人臣最初の摂政となった良房に伝領されている。拾芥抄には以下のように記されている。
近衛南洞院西師尹公家 一云山吹殿清和天皇誕生所貞信公家
近衛大路は現在の出水通で出水通東洞院通の東南であるから下立売御門の東北、現在の宗像神社の北側に小一条院があったことが分かる。
拾芥抄にあるように、清和天皇(惟仁親王)は嘉祥3年(850)に小一条院で良房の女・藤原明子を母として誕生している。小一条院の東南角に隅神として田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の筑前宗像社の神、宗像三女神を太政大臣東京第一条第に勧請し、鎮座地を異にするが同神であると「日本三代実録」貞観元年二月三十日の条に記されている。貞勧6年(864)には三神に従一位が加階されている。翌貞勧7年(865)には三神以外に无位天石戸開神が祀られ、従三位が授けられている。なお倉稲魂神は菅原道真と対立した藤原時平によって合祀されたと伝わる。
「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、時平が急逝した後の藤氏長者となった藤原忠平、そして忠平の五男師尹と伝領される内に、東京第は小一条院という名称に改められている。改称の時期及び理由は明らかでないようだ。拾芥抄には小一条に続き華山院が下記のように記されている。
華山院 近衛南東洞院東一町本名東一条云云 式部卿貞保親王家貞信公伝領之住 小一条之開号之東家九条殿令給 外家冷泉院此所立坊花山院伝領之
花山院がもと東一条第と呼ばれ、小一条院の東、つまり左京一条四坊三町にあったことから、ある時期に東京第の敷地が小一条院と花山院の東西に分割したと「日本歴史地名大系」は考えている。これに対して「平安京提要」(角川書店 1994年刊)は、花山院が東一条第と呼ばれていたことから、混同を避けるために東京第を小一条第に改称したと推測している。
藤原済時の娘で敦道親王の正室となった中の君が、不縁になった際に戻ってきたのが小一条第だとされている。師宮敦道親王は冷泉天皇の第四皇子で同母兄に居貞親王(後の三条天皇)と為尊親王がいる。為尊親王は和泉式部と恋愛関係にあり、長保3年(1001)病にかかり、翌4年(1002)に26歳の若さで没している。「栄花物語」には下記のような記述が見られる。
道大路のいみじきものどもを見過しつ丶、あさましかりつる御夜多行のしるしにや、いみじう煩はせ給ひて、うせ給ひぬ。この程は、新中納言、和泉式部などにおぼしつきて、あさましきまでおはしましつる御心ばへを、うきものにおぼしつきて、上は、あはれに思し歎きて、四十九日の程に、尼になり給いかにかひぐしからまし。
親王は伝染病が大流行していた平安京を毎日のように夜歩きしたために病を得たと噂されている。死の真相は、この記述とは異なるかもしれないが、このようなことが書き残されていることは事実である。
さらに親王の死後一年経つと、和泉式部は亡き恋人の弟・敦道親王と恋愛関係になっている。そして長保5年(1003)の年末には式部は親王の邸に住むようになると、正室の中の君は怒り親王邸を出て父の小一条第に戻ったとされている。
ほぼ同じ頃の出来事であったが、小一条第は三条天皇の皇后となった藤原娍子(済時の娘)を経て、その皇子の敦明親王の御所となっている。寛弘5年(1008)一条天皇に第2皇子・敦成親王が誕生する。皇子の母は道長の女で中宮彰子、道長にとっては待望久しい外孫皇子の誕生となった。寛弘8年(1011)一条天皇の譲位により三条天皇が誕生したが、その皇太子に敦成親王が立てられた。36歳で即位した三条天皇は親政を望んだが、外孫の早期即位を図る道長から譲位の圧力が掛けられ続けた。天皇は長和3年(1014)眼病を患い視力を失い、同5年(1016)敦明親王の立太子を条件に退位した。三条上皇は翌寛仁元年(1017)に出家するが程なく42歳で崩御している。
立太子した敦明親王も後一条天皇が14歳も年下であることから自らが即位する可能性が低いと感じ、寛仁元年(1017)に皇太子を辞退している。後を受けて皇太子となったのは、一条天皇の第3皇子の敦良親王で、母は道長の娘・彰子であった。辞退した敦明親王には道長の計らいで小一条院太上天皇の尊号が贈られた。そして准太上天皇としての処遇を受け、道長の娘寛子を妃に迎えている。院は他の御所に移り、小一条第は藤原済時の子孫の小一条流が引き継いでいる。
明治天皇の東京に移られ公家町が御苑に整備されると、宗像神社も邸内社から府社に変更される。現存する宗像神社は小一条第の旧地からやや東に移されている。境内社として花山稲荷神社、京都観光神社、小将井神社、繁栄稲荷神社そして金比羅宮がある。境内のクスの木は樹齢600年あるいは800年とも言われる。
「京都御苑 宗像神社」 の地図
京都御苑 宗像神社 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 京都御苑 宗像神社 | 35.0189 | 135.7611 | |
左京 三坊 一条 14 | 35.0205 | 135.7602 | |
左京 四坊 一条 3 | 35.0205 | 135.7618 | |
01 | 京都御苑 小一条第 | 35.0205 | 135.7602 |
02 | 京都御苑 花山院 | 35.0205 | 135.7618 |
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