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南千住 回向院 その4



南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その4 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19 と 御名刺入 C-18
中央:吉田松陰の墓 右に頼三樹三郎、成就院信海、小林良典の墓

 南千住 回向院その2、そして、その3までの3項を使い、杉田玄白と前野良沢等による観臓から解体新書の発刊について書いてきた。いよいよ、この項から明治維新殉難志士墓所に入る。2009年に荒川ふるさと文化館で開催された展示会の図録「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)によれば、“回向院史跡エリア”という範囲に87基の墓碑と木製標柱1基が整備されている。史跡エリアというと単一区画を想像するが、実際には2つの部分に分かれている。第一の区画は昭和48年(1973)に建替えられたSRC造の本堂の北側、すなわち観臓記念碑の裏側の細長い部分で、ここに墓碑26基がまとめられている。この部分は裏側のような空間になっているため、見落とし勝ちなので注意する必要がある。そして第二の区画はピロティを出た先の塀で囲まれた部分である。この中に墓碑61基と木製標柱1基が並ぶ。両区画を併せて墓碑87基と木製標柱1基となる。

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南千住 回向院 全景
吉田松陰の墓は左側墓道の正面

 個々の墓碑を見ていく前に、87基の墓碑が回向院に残された経緯について調べてみる。既に何度も繰り返してきた通り、小塚原の回向院に葬られたのは、斬罪や磔刑で刑死した者、または伝馬町牢獄で病死した者、そして行倒れや人足寄場で死亡した者であった。特に幕末の政治犯の処刑は小塚原ではなく、慣例的に伝馬町牢獄内で行われてきた。これは小塚原までの輸送中に受刑者を奪還されることを恐れたための措置だったのかも知れない。
 しかし明治4年(1871)6月14日、梟示刑者は牢獄で斬首せずに刑場で執行するようにと、刑部省通達を改めている。これ以降、明治6年(1873)7月10日の改定律刑の施行までの2年間余りは、実際に小塚原刑場で斬首が行われた。しかし改定律刑の施行後は、再び斬首は監獄内で行われるように戻されている。なぜこのように元の形に改められたかは不明である。しかしこれによって小塚原は実際に刑を執行する場ではなく、梟示するだけの場所に変わった。そして明治21年(1988)4月に市ヶ谷監獄の刑死者埋葬場が雑司ヶ谷共葬墓地に移され、ついに同月26日に小塚原で刑場供養会が行われる。これを以って小塚原刑場は全ての役割を果たしたこととなる。

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南千住 回向院 橋本左内の墓所

 一時期、刑の執行が伝馬町牢獄内で行われたとしても、江戸時代の初めに小塚原に刑場が設置されて以来、明治21年(1988)4月26日までの刑死者の埋葬は、小塚原の回向院で行われてきた。伝馬町牢獄で斃れた幕末維新の志士達がどのように回向院に埋葬されたかに就いては、吉田松陰の埋葬報告書を読むと、ある程度明らかになってくる。「吉田松陰全集 第十巻」(大和書房 2012年新装版刊)の葬祭関係文書に「埋葬報告書」が所収されている。この報告書は長州藩士・飯田正伯と尾寺新之丞が安政6年(1859)11月15日に高杉晋作、久保清太郎、久坂玄瑞に宛てたものである。吉田松陰の斬首が同年10月27日であるので、この報告書はそれから1ヶ月以内に認めたものである。松陰の死骸を受け渡されるまでの経緯は下記の通りである。

二十七日四ツ時伏誅に付き、直様賂金を諸人に散じ、首と體とは××の手に渡らざるやうに掛け留め置き候へども、獄中の役人六七人計り容易に死骸を渡さず、各々両人の心底をうたがふと相見え候に付き、二十八日終日心配すれども事とげず、二十九日晝八ツ時遂に正伯が姓名を名のりて獄役人に面會す。尾寺を残し置き候事は、萬一正伯手段にて事果さざるときは、尾寺をして後詰の策を計らする為めに残すなり。

 松陰の弟子である飯田と尾寺は、刑が執行された直後から賄賂を使い松陰の死骸を手に入れようと画策したが、それにも拘らず当日は勿論のこと翌日も得るところがなかった。「首と體とは××の手に渡らざるやうに掛け留め置き候」の××とは非人のことであろうか?同書の中で「××乞食」や「××頭并びに獄卒」という表現がある。松陰の死骸が「小塚原非人小屋頭市兵衛」へ送られ「取捨」という扱いになることを逃れるために賄賂を贈ったと理解してもよいだろう。
 処刑後3日経った10月29日「七ツ時」(午後4時)に、飯田と尾寺は死骸を受取り「骨ヶ原の手向院の末寺」に葬祭している。その様子は下記の通りである。

其の時桂小五郎并びに手付利介、手向院に待受け居り候に付き、四人立合にて死骸を改め、體骸は下卒に水洗させ候へども、首は下卒の手にかけず、正伯堤げて之れを洗ひ清む。桂・尾寺両人手酌にて水を灌す。此の時四人の憤恨遺憾御推察下さるべく候。右一件に付き公金二十両余賂費す。

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南千住 回向院 藜園墓 B-14
橋本左内の墓

 29日、飯田は自らの名を明らかにした上で懇請したところ、幕吏もようやく理解を示したようだ。その後の飯田と尾寺等の行動は、同書に所収されている別の「松陰先生埋葬并改葬及神社の創建」に詳しく記されている。この文書は埋葬時に記されたものではなく、明治30年頃に松陰の甥にあたる吉田庫三が記したものである。幕吏は獄中の死屍を処分するという名目で、松陰の死骸を小塚原回向院に送り現地で交付することを約束している。飯田と尾寺は桜田藩邸に戻り、このことを桂小五郎と伊藤利輔に伝えた。そして埋葬用の大甕と墓石とする巨石を購入して回向院に就いた時には、既に木戸、伊藤そして幕吏も到着していた。回向院の西北にある「腑分稽古様場所」の傍らにある藁小屋より、幕吏は四斗桶を取り出し、「是れ吉田氏の屍なり」と示した。以下は上記の「松陰先生埋葬并改葬及神社の創建」からの引用である。

四人環立し蓋を開けば、顔色猶ほ生けるがごとく、髪乱れて面に被り、血流れて淋漓たり、且つ體に寸衣なし。四人其の惨状を睹て憤恨禁ずべからず。飯田髪を束ね、桂・尾寺水を灌ぎて地を洗ひ、又杓柄を取りて首體を接せんとしたるに、吏之を制して曰く、重刑人の屍は他日検視あらんも測られず、接首の事発覚せば余等罪軽からず、幸に推察を請ふと。飯田は黒羽二重の下衣を、桂は襦袢を脱して體に纏ひ、伊藤は帯を解きて之れを結び、首を其の上に置きて甕に収め、橋本左内の墓しだ利に葬り、上に巨石を覆ひて去れり。

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南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19 と 御名刺入 C-18
吉田松陰の墓

 長州藩の飯田等は吉田松陰の遺骸を回向院に埋葬するにあたり、二十日前の安政6年(1859)10月7日に処刑された越前藩士・橋本左内の埋葬を参考したと思われる。飯田の「埋葬報告書」には、回向院への永代祠堂金の寄付について、「巳に越前の橋本左内墓永代の祠堂金十両付け置き候と申す」と記しているし、左内の墓の横に松陰を埋葬し墓石を建てたことからも越前藩の手続きを参考にしたことは先ず間違いないだろう。

 飯田は松陰埋葬に要した経費を下記のように纏めている。

松陰二十一回猛士一件に付き諸雑費入用録
一、 金壱両壱歩   獄役人へ賂す。入用の事
一、 同壱両壱歩   同
一、 同壱両壱歩   同
一、 同壱両壱歩   同
一、 同ニ両     金六へ酒手
一、 同三両ニ歩   ××頭并びに獄卒へ祝儀
一、 同壱両     囚人堀達之介へ祝儀の事
一、 同壱両     同堀江克之助へ同断の事
一、 同三両     頭取なり沼崎吉五郎
一、 同ニ歩     棺代の事
一、 同壱歩ニ朱   穴掘り三人へ酒手の事
一、 同ニ歩     手向院世話人親方へ祝儀の事
一、 同壱両     首請取りの時検使役へ遣はす。祝儀の事
一、 同壱歩     二十九日手向料
一、 同壱歩     百ヶ日の間卒塔婆代、并びに手向料の事
一、 同壱両貳歩   石塔手間、前金に遣はす
  総計拾九両三歩二朱入用の事。外に石屋の石塔代并びに手向院土地借受け
祠堂金入用之れあり候へども、其の分は私金を以て之れを償ふものなり。

 国家を転覆させるような重大犯であっても、裏金を使えば回向院に罪人として埋葬することまではどうやら許されていたようだ。さらに飯田と尾寺は、松陰二十一回猛士墓の墓碑を建立している。これが後に問題を起こすこととなる。

安政己未十月念七日死
   松陰二十一回猛士墓
         吉田寅次郎行年三十歳

 石塔の高さは「地輪より六尺余も之れあり」とあるので、1メートル80センチメートル程のものであったようだ。現在の墓地では普通かも知れないが罪人の葬られている場所には不釣合いであった。飯田はさらに下記のように記している。

石塔の高さ地輪より六尺余も之れあり、寺中第一の大墓なり。橋本左内・水戸の鵜飼父子・茅根野氏・頼三樹の墓などは、やほき石を以て人工を盡しあれども、先生の墓は高代不易を計りて、全く人工を経ざる堅実なる大石を撰び建立致し候へば、人の意に出でて却つて奥床しく見事にて之れあり候。

 このような回向院に不釣合いな墓石は、回向院裏で行われた腑分けに立ち会った町奉行所と伝馬町牢屋敷の同心の目に触れることとなった。松陰の墓が建立された安政6年11月には徒目付小人目付届書として橋本左内と吉田松陰の墓が挿絵入りで報告されている。さらに墓の建立を請け負った職人の氏名、施工代金、回向料並びに永代料まで調べ上げている。そして越前藩には内々伝え、藩士を回向院に出向かせ墓石(破壊したのではなく寺に預けた)と玉垣を取り除いたことを報告している。

右回向院ニは御仕置もの共之墓数多く建有之候共、何れも小躰ニ相見へ、然ル処右両人之墓は前顕如図一際目立立派ニ取建候事ニ有之、一體不容易儀ニ付御仕置相成候もの共故、右様之儀は有之間敷筈、殊ニ
公辺江対して奉恐入候事と専ら風聞仕候、
右之趣風聞及承り申候、依之申上候

 飯田正伯が「高代不易を計りて」建立した墓は、すぐに幕吏の知るところとなった。なお上記届書から分ることは、左内や松陰以外にも罪人の墓が建てられていたことである。幕府もある程度までは見逃していたが、今回は目に余るものとして越前藩と長州藩に取り除くように伝えたようだ。自らの手で破却するのではなく、建立したものに改めさせるという手法である。
 さらにこの届書は「大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料 二十三」(東京大学史料編纂所 2003年刊)の探索関係史料に所収されている。つまり安政の大獄を主導し、橋本左内に斬罪を与えたとされる井伊直弼の元にも伝えられたということである。松平春嶽は大老が自ら「一等重キ方」と付書きした、と「幕末維新史料叢書4 逸事史補」(人物往来社 1968年刊)の「橋本左内等処刑のこと」に記している。

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南千住 回向院 松陰二十一回猛士墓 C-19
吉田松陰の墓

「南千住 回向院 その4」 の地図





南千住 回向院 その4 のMarker List

No.名称緯度経度
  回向院 35.7322139.7978
01   泪橋 35.729139.7994
02   延命寺 35.7316139.7978
03   円通寺 35.734139.7928
04   素戔雄神社 35.7371139.796
05   荒川ふるさと文化館 35.7375139.7954
06   千住大橋 35.7393139.7973
07   千住宿 35.7505139.8028
08   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331139.7985
09   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412139.7985

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