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南千住 回向院 その8



南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その8 2018年8月12日訪問

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南千住 回向院 明治維新殉難志士墓所

 南千住 回向院 その5その6そしてその7を使って安政の大獄で処罰された人々の中で回向院に葬られた方と文久2年(1862)末からの長州藩と水戸藩の改葬について書いてみた。この項では、幕末に処刑された政治犯の埋葬を受け入れてきた回向院の住職・川口厳考と桜田門外の変に関わった人々を見ていく。
 幕末維新期に回向院の住職を務めた川口厳考は美濃の人で岐山と号していた。明治29年(1896)に82歳で寂したとされているので、梅田雲浜や井伊直弼と同じ文化12年(1815)生まれであろう。塚田信寿氏の「小塚原回向院の僧厳考」(「刑政」(76)4 1965年刊)によれば、厳考は幼時に母を失い、厳格すぎる父と継母との折り合いが良くなかったのか叔父を頼って江戸に出ている。仏門に入り芝の増上寺で修業を行った後、天保の頃には自ら小塚原の常行堂を希望して薄幸の人々の冥福を祈ることに生涯を捧げている。左内や松陰が処刑された安政6年(1859)には既に40を越え、自らの思想に従い行動していた。岩崎英重が明治44年(1911)に著した「桜田義挙録」(吉川弘文館 1911年刊)では下記のように評している。

当時回向院の住職川口厳考、侠にして義を好む、橋本、頼等志士埋葬のことに付いて、大に同情を寄せ、何かと便宜を与へたので、此事忽ち幕府の忌諱に触れ、町奉行黒川備中守(寺社奉行にあらざるか)は、厳考を白洲に召喚し、罪人の墓を建るは、天下法度の禁ずる所である、其方恣にこれを許す、其罪免れ難い』とあつて、為めに五十日の閉門を命ぜられた。厳考の如きは、緇衣者流、また伝ふべきの一人である。

 黒川備中守とは.黒川備中守盛泰のことであろう。盛泰は南町奉行に2度就任している。一度目は文久元年(1861)5月28日から文久2年(1862)閏8月25日までの1年余り。二度目は慶応4年(1868)1月10日から同年3月5日までの2ヶ月間である。後者は鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍徳川慶喜の江戸帰還から東征軍の江戸総攻撃前までの期間である。厳考が町奉行であった黒川備中守に召喚されたのは、文久元年5月から翌年にかけてのことであろう。既に安政7年(1860)3月3日の桜田門外の変も過ぎ、文久元年(1861)7月26日には大関和七郎等襲撃者の斬首が小伝馬町の獄舎で執行されている。
 塚田氏は上記の「小塚原回向院の僧厳考」で、文久2年(1862)正月に坂下門の変が勃発し児島強介を捕えて調べると、かつて水戸藩士・茅根伊予之介の墓を建てている。その手続きは宇都宮の大橋訥庵から教えられたということであった。訥庵を糺すと、彼自身が山陽の門人で福山藩儒官であった江木鰐水の依頼で頼三樹三郎の墓を建てていたことが分かる。これによって厳考は閉門五十日に処せられたと塚田氏は述べている。児島強介が伝馬町牢獄で獄死したのが文久2年(1862)6月25日であったから上記の尋問は、文久2年正月から凡そ6か月間の内であろう。

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南千住 回向院 小塚原の刑場跡
ここより内側が管理区域
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南千住 回向院 配置図

 川口厳考は明治29年(1893)に刊行された「徳川幕府刑事図譜」(1893年刊)の序文を寄せている。この中で回向院に埋葬した人々の名前を下記のように記している。

安政以降 王室の衰微を歎し慷慨忠烈身を以て国家の犠牲に供し空しく此刑場に一片の露と消へて其骨を埋めたるの諸士乃ち蓮田東蔵 信田仁十郎 茅根伊豫之助 鵜飼吉右衛門 同幸吉 梅田源二郎 橋本左内 飯泉喜内 頼三樹三郎 吉田寅次郎 僧月照の弟信海 村田雷助 小林民部権大輔 大貫多助 日下部祐之助 宮田瀬兵衛 佐野竹之介 有村次左衛門 山口辰之助 鯉淵要人 廣岡子之次郎 稲田重蔵 齊藤監物 黒澤忠三郎 大関和七郎 蓮田市五郎 森山繁之介 杉山弥一郎 金子孫二郎 岡部三十郎 森五六郎 関鉄之助 廣木松之助 住谷悌之助 榊銊三郎 石井金四郎 千葉昇平 中嶋久蔵 伊藤軍兵衛 佐久良静 雲井龍雄 関氏の妾伊能等其他枚挙に遑なしと雖ども是れ皆拙僧の會て之を管理し爰に其屍体を葬りし所なり特に此志士中橋本左内頼三樹三郎吉田松蔭の三氏の如きハ其屍体を土中に埋めしや当時の志士来て墓を拙僧に建設せんことを謀りしより拙僧ハ奮て直に之を許せしに此事忽ち幕府の忌諱に触れ当時の町奉行黒川備中守ハ拙僧を白洲に呼出し罪人の墓を建つるハ天下法度の禁ずる所なり咄汝恣に之を許す其罪免れ難しとて拙僧に五十日の閉門を命し幕吏来て其墓を毀ちしことあり

 上記、岩崎英重の「桜田義挙録」中の川口厳考に関する記述はここから引用したのであろう。厳考は幕末に斃れた志士の名を列挙した後、当時の人一人いない小塚原の様子を克明に記述している。

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南千住 回向院 本堂北側の墓地
回向院史跡エリアのAゾーン

 「桜田義挙録 花」では、桜田門外の変に関係した人々が埋葬された回向院を「烈士の墳墓」として取り上げている。その説明を行う前に桜田門外の変に関わった人々について整理しておく。
 桜田門外の変で、実際に襲撃を実行した者は16名であった。この内、当日死亡した者は、唯一の薩摩藩士・有村次左衛門と水戸藩士の稲田重蔵、鯉渕要人、佐野竹之介、広岡子之次郎、山口辰之介の6名であった。稲田は戦闘中に討死、有村、鯉渕、広岡、山口の4名は負傷のため自刃である。戦闘後に自訴した者は佐野竹之介、斎藤監物、黒澤忠三郎、蓮田一五郎と大関和七郎、杉山弥一郎、森五六郎、森山繁之介の8名。上記のように佐野は当日の内に絶命している。斎藤は3月8日に細川藩邸で、黒澤も7月12日に九鬼家で病死している。また襲撃に参加した後戦場より離脱して上方に向かったのは広木松之介、増子金八、海後磋磯之介の3名。広木は襲撃の3年後の文久2年(1862)3月3日相模国鎌倉の上行寺墓地で切腹して果てている。増子と海後は明治まで生き残っている。

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南千住 回向院 回向院史跡エリアのCゾーン

 当日、戦闘に加わらなかったものの計画に関与した者が多く存在するのがこの事変の特徴でもある。先ず検視見届役であった岡部三十郎は上方に向かう手筈であった。しかし薩摩藩の上京計画が不調となったため水戸へ戻っている。その後江戸吉原で捕縛され伝馬町牢獄に繋がれている。
 襲撃計画の首謀者であった金子孫二郎は薩摩浪士・有村雄助、水戸浪士・佐藤鉄三郎らと京へ向かったが、3月9日に伊勢四日市で薩摩藩兵に捕えられている。金子と佐藤は伏見奉行所に引き渡された後、同月24日江戸へ護送される。なお佐藤は文久元年(1861)7月26日の裁きで追放となり大正4年(1915)まで生き永らえる。
有村は大坂の薩摩藩邸に移された後、薩摩へ護送される。幕府の探索が薩摩に迫ると、3月23日藩命によって切腹となった。

 先に上方に入っていた水戸浪士の高橋多一郎・庄左衛門父子も3月24日、大坂で幕吏の追捕を受け逃げ込んだ四天王寺境内の寺役人宅にて自刃している。この他にも薩摩藩との連絡役であった川崎孫四郎は、3月23日探索に追い詰められ高橋父子を逃がした後に自刃、翌日死去している。
 小室治作も幕吏の追及を受け自刃、高橋父子を迎えた島男也邸に潜伏していた山崎猟蔵も3月22日に幕吏に捕えられている。山崎は4月9日牢内で絶食死している。京都妙法院の寺侍の佐久良東雄は大坂で高橋父子を匿ったため捕縛され江戸へ護送される。佐久良も6月27日に伝馬町獄内で絶食死している。笠間藩士の島男也も3月22日に捕縛され、文久元年(1861)11月5日伝馬町獄舎で獄死。高橋多一郎に従って大阪に先行した大貫多介も事変後堺で捕らわれ7月29日伝馬町牢獄で獄死している。
 明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)の桜田門外事件に依れば、「大日本野史」の著者・飯田忠彦の死もこの事変に間接的ではあるが関係したことになる。忠彦は安政の大獄への関与を疑われ、10ヶ月ほど町奉行所に拘禁された。最終的には押込100日の刑が下され刑期を満了している。京深草に隠居したが、再び桜田門外の変への嫌疑が掛けられ、万延元年(1860)5月14日に伏見奉行所に捕らえられる。事件に無関係であった忠彦は憤慨し同月22日に喉を突き自害を図る。5日後の27日に死亡。事件の巻き添えによる忠彦の死に対して、靖国神社への合祀と従四位の追贈がなされた。以上の高橋父子と飯田を含めると上方で6名、後に護送された江戸で3名が命を落としている。

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南千住 回向院 回向院史跡エリアのAゾーン

 襲撃の現場で指揮した関鉄之介は3月5日に江戸を発ち京へ向かった。しかし高橋等の死と薩摩藩の率兵上京計画が行われないことを知り、西国各地を転々とした後、水戸藩領へ戻っている。水戸藩の探索が厳しくなり、文久元年(1861)水戸藩士に捕縛され、城下の赤沼牢につながれた。文久2年(1862)4月5日、江戸に護送され伝馬町の牢に入れられた。
 まだ関係者は続く。襲撃に加わらなかった宮田瀬兵衛が3月11日に細川藩邸に自訴し4月23日に伝馬町牢獄で獄死している。関鉄之介の江戸潜伏を匿った元吉原谷本楼の妓・滝本いのも伝馬町牢獄で獄死している。水戸藩郷士の後藤哲之介は文久2年(1862)冬に広木松之介を名乗って自訴している。江戸に護送され、伝馬町牢獄で同年9月13日に獄死している。何故、後藤が広木の身代わりになったのかは不明である。事変後に土浦藩士となった軍学者の小野寺慵斎も文久元年4月12日に土浦の自邸で自刃している。慵斎は事変の参謀とも謂われているが、詳細は不明。
 安政の初めから尊攘派として活動してきた木村権之衛門は、桜田門外の変に直接参加しなかったものの捕縛の手を逃れるため四国、仙台に潜伏してきた。文久3年(1863)3月26日水戸で病死している。
文久元年(1861)7月26日、伝馬町獄舎で、大関和七郎、岡部三十郎、金子孫二郎、杉山弥一郎、蓮田一五郎、森五六郎、森山繁之介 7名の斬首が執行される。この内、岡部と金子を除く5名は井伊直弼の直接的な襲撃者である。文久2年に伝馬町牢獄に移された関鉄之介の斬首は、上記7名より遅れて文久2年(1862)5月11日に執行されている。この斬罪が桜田門外の変に関する最後の刑の執行となった。
 世に桜田十八士と呼ばれるのは、上記の実行部隊16名に現場で指揮を行った関鉄之介と検視見届役であった岡部三十郎を加えたものである。

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南千住 回向院 史跡小塚原志士墓標柱 B-付録

「南千住 回向院 その8」 の地図





南千住 回向院 その8 のMarker List

No.名称緯度経度
  回向院 35.7322139.7978
01   泪橋 35.729139.7994
02   延命寺 35.7316139.7978
03   円通寺 35.734139.7928
04   素戔雄神社 35.7371139.796
05   荒川ふるさと文化館 35.7375139.7954
06   千住大橋 35.7393139.7973
07   千住宿 35.7505139.8028
08   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331139.7985
09   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412139.7985

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