萬福寺
黄檗宗大本山 萬福寺(まんぷくじ) 2008/05/11訪問
京阪電鉄宇治駅から宇治線に乗り、2つ目の黄檗で下車する。京都府道7号線を渡り、住宅街の中を東へ入るとすぐに萬福寺の特徴的な赤い総門の前に出る。
この門は牌楼と呼ばれる、中央の屋根を高くし左右を一段低くした中国門の様式を踏襲している。横浜中華街などで見かける門と同じ様式らしいが、屋根の大きさが違うためかかなり印象が異なる。門に架けられた額には「第一義」と書かれている。第5代高泉住持の書ということだ。
右手に放生池さらにその先に三門が見える。三門は三間三戸二重門となっている。三間三戸とは正面柱間が三間で、その三間に戸が入れられていて通路として使用できる形式の山門である。日本の禅宗の三門は五間三戸が多いことを考えると、珍しい形式である。額の「黄檗山」は隠元禅師の書。
長崎・興福寺の要請により、隠元禅師は承応3年(1654)中国福建省から鄭成功が仕立てた船に乗り渡来された。当初日本には3年間滞在し再び帰国するつもりだったが、禅師の信奉者たちはそれを惜しみ、幕府に働きかけた。万治元年(1658)、江戸へおもむき、四代将軍家綱公に拝謁している。家綱公の尊崇を得て、万治3年(1660)に幕府により山城国宇治に土地が与えられ、新しい寺が建てられることになった。翌寛文元年(1661)に萬福寺を開創した。日本三禅宗の一つ黄檗宗の大本山。禅師の故郷福建省福州にある黄檗山萬福寺と同じ名前が付けられた。3年間の滞在で帰国するはずだった隠元禅師は、結局日本に骨を埋めることとなった。
萬福寺の建築、仏像などは明時代末期の中国様式でつくられている。そのため境内は、他の日本の寺院とは異なった構成や意匠が見られる。また普茶料理と呼ばれる中国式の精進料理も禅宗とともに伝来した。植物油を多く使い、大皿に盛って取り分けて食べるのが特色であるが、これは法要や仏事の後に僧侶や檀家が一同に介し茶を飲みながら話し合う場に使われてきたためであろう。このように、さまざまな中国文化が日本にもたらされた。最も有名なものは隠元の名に由来するインゲンマメであるが、その他にも孟宗竹、スイカ、レンコンなども隠元がもたらしたものといわれている。
三門をくぐりさらに進むと天王殿と呼ばれる堂宇が現れる。両側から回廊が伸び、この建物に接続されている。天王殿は玄関の役割を果たしている。この堂から東側が境内で、西側は塔頭ということなのだろうか。写真からは分かりにくいが、天王殿の高欄は襷匂欄といい、チベット・中国で使用されているX型の組子を入れたデザインになっている。日本の寺院では見かけない意匠である。
堂宇の構成は、三門 天王堂 大雄宝殿 法堂が東西を結ぶ軸線上に配置され、大雄宝殿と法堂を囲むように回廊が廻らされている。天王堂 大雄宝殿 法堂の中心軸に並行して南北に複数の堂宇が配置されている。ここからは順路に従い反時計廻りに進む。
鐘楼は鼓楼と相対して建てられている。鐘楼の2階には梵鐘が吊るされ、鼓楼には太鼓が置かれ、朝4時半と夜9時に梵鐘と太鼓を以って、時刻と消灯を全山に知らせる役割を担っている。
鐘楼の先には伽藍の南側の堂宇として伽藍堂 斎堂 東方丈が続く。この途中には、巡照板、開梆や雲版とよばれるものが壁に架けられたり、回廊に吊るされている。修行する雲水が巡照板に書かれた偈文を唱えながら版を打ち鳴らして各寮舎を回る。開梆は行事や儀式の刻限を伝えるために打つ魚の形をした法器。青銅製の雲版は朝と昼の食事の時に打たれる。
東方丈で左に90度折れ、法堂に向かう。
法堂は説法を行う場所で禅寺にとって重要な建物である。内部には須弥壇のみが置かれ、住持が説法を行う上堂の他には、新たな住持が就任する際の儀式 晋山式などに使われる。須弥壇上の額「法堂」は隠元の書で、黄檗山では唯一の楷書による大書。
法堂と大雄宝殿を囲む回廊の内側は白砂が敷き詰められ、他とは異なる空間であることが分かる。法堂正面の高欄は、卍及び卍くずしの文様になっている。奈良時代の法隆寺などの寺院に使われていたが、江戸時代初期にあらためて黄檗を通じてもたらされた。
法堂の手前に配置された大雄宝殿は、萬福寺の本堂であり、寺内最大の堂宇である。日本では唯一最大の南洋木のチーク材を使った歴史的建造物でもある。
北側には、法堂に続きに西方丈、慈光堂、禅堂、祖師堂そして鼓堂が並び、再び天王堂から出た回廊に行き当たる。そのまま回廊の続く先に進むと、途中で梵鐘が吊るされている。合山鐘と呼ばれ、この先にある開山堂、寿蔵、舎利殿で行われる儀式の際に使用される。
その先の右側には小さな六角堂が基壇の上に置かれている。寿蔵は隠元禅師の生前に築造された墳墓で、中国の墳墓の姿をそのまま伝えている。
回廊は開山堂に至る。その名のとおり、萬福寺の開山 隠元禅師を祀る建物である。白壁で囲まれた前庭には白砂が敷き詰められ、堂宇には卍の高欄が設えていることから法堂と同じように重要な施設であることが分かる。舎利殿は開山堂の裏手にあるらしい。
総門の道路を越えた門前には、隠元禅師が掘ったと伝えられる龍目井が左右に2つある。萬福寺を龍にたとえ、その龍の目として寺の発展を祈願した掘られたという。
また鎌倉時代の初め頃、住民が茶の種のまき方がわからず困っていたところ、高山寺の明恵上人が馬で畑に乗り入れ、馬のひずめの跡に種を蒔くように教えたという故事に従って建てられた駒蹄影園碑がある。大正15年(1926)に宇治茶業組合によって、宇治茶の始まり記念して建立された。
また普茶料理を饗する白雲庵もこの門前にある。
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