平安神宮神苑
平安神宮神苑(へいあんじんぐうしんえん) 2008/05/12訪問
平安神宮神苑への入口は、白虎楼の翼廊にある。一歩くぐり戸の中に入ると、大都市の中心にある庭と思えないほどの自然と静けさが満ち溢れている。神苑は築庭からまだ百年程度の庭であるが、樹木や池泉は完全に自然の一部となっている。
約10,000坪の神苑は4つの庭に分かれる。拝観順路に従うと大極殿の東側の南神苑から西神苑へ、そして西側の中神苑から東神苑の順に巡ることとなる。この4つの庭にはそれぞれ池泉があり、異なった性格に仕上げられている。この庭は七代目小川治兵衛が明治28年(1895)から作庭に着手している。平安神宮の公式HP(https://vinfo06.at.webry.info/200905/article_14.html#小川冶兵衛 : リンク先が無くなりました )では西神苑と中神苑は明治28年(1895)に着工し、18年の年月をかけて大正2年(1913)に竣工していることが分かる。その後の大正3年(1914)から東神苑に着手し大正15年(1925)に完成している。南神苑に関しては、ただ昭和56年(1981)竣工ということのみが記されている。Wikipediaの平安神宮神苑の項では明治28年(1895)に着工とあるが、これは誤りだと思われる。むしろ「近代京都の礎を観る会」がまとめた「平安神宮神苑の紹介」(https://vinfo06.at.webry.info/200905/article_14.html#小川冶兵衛 : リンク先が無くなりました )の中では、昭和43年(1968)着工、昭56年(1981)竣工という記述があり、「Kankanbow」さんのHP(https://vinfo06.at.webry.info/200905/article_14.html#小川冶兵衛 : リンク先が無くなりました )では、南神苑と東神苑の橋殿の南側は後年に作庭されたものとしている。こちらの方が正しいと思われる。そうすると最初に完成したのは、西神苑と中神苑であり、続いて現在の東神苑の北側が造られたこととなる。確かに西神苑と中神苑の池は大極殿を中心に左右対称に配置されている。
また「Kankanbow」さんのHPには、小川治兵衛は既に明治26年(1893)に神苑の仕事を受注したことも書かれている。明治28年(1895)に開催された桓武天皇1100年祭には、防災緑地の役割を果たすためも含めて、ある程度完成していたのかもしれない。
京都府京都文化博物館には内国勧業博覧会の会場風景を再現した模型がある。残念ながら北側から見た写真がないが、「ARCHITECTURAL MAP」(http://www.mediawars.ne.jp/~m921320/a_map/more_02.htm : リンク先が無くなりました )の中には比較的高い位置から俯瞰した写真が掲載されている。この写真を見る限り現在の平安神宮の北側にある程度の緑地帯があることが分かる。
いずれにしてもこのあたりはあまりよく分からない部分である。明治27年(1894)に並河靖之邸の庭を手掛け、山県有朋の無鄰菴に着手した頃にあたる。個人邸宅からいきなりこの巨大な庭園の作庭を任された。規模としては匹敵する円山公園もさらに後年の作品であるため、この仕事にかなり集中していたことが考えられる。この明治28年から、かなりの時間をかけて完成まで導いていくこととなる。
白虎楼から神苑に入って、最初のこの庭は小川治兵衛の作品ではなく昭和56年(1981)年に竣工した新しい庭である。ここには、紅しだれ桜が植えられ、春は華やかな平安王朝を思い起こさせる庭となっている。庭の構成も入り組んだ細い道筋である「野筋」と流れ込んでいる「遣水」と平安時代の庭園の特色を出している。見晴らしの良い広々とした池などはないが、翔鸞池を中心に木立の中を回遊できるように作られている。平安の苑と呼ばれる箇所には伊勢物語、源氏物語、古今和歌集、竹取物語、枕草子など平安時代に著された書物の中で記された200種余りの植物が紹介されている。ある意味で植物園のような空間となっている。
また庭の一番南側には、平安遷都1100年を記念して京都市内に敷設された日本で初めての電車が実に簡単に架けられた屋根の下に展示されている。神苑の自然の中で朽ちていく近代文明を表現するならばよいが、もう少し良い展示場所を考えてあげないと可哀相な感じである。
南神苑
面 積 5,500m2(約1,700坪)
池 翔鸞池(しょうらんいけ) 池面積360m2
完 成 昭和56年
西神苑は南神苑の北側に位置している。南神苑の野筋を進み、少し大きな西神苑の白虎池の水際に出ると神苑の構成がしだい見えてくる。池の辺には花菖蒲が群生し、見頃を迎える6月上旬から下旬には、白虎池上に「八ツ橋」が架けられるという。また初夏から秋口にかけては池の水面に睡蓮の花が開く。
南神苑の続きにある西神苑も、自然の色の濃い庭となっている。特に花菖蒲の群生を見せるためか、白虎池の水深もそれほど深くなさそうだ。少なくとも現在は庭の構成や石組みの美しさなどよりも水際の水生植物の多様性を見せる場所となっているように思う。
この白虎池には、東側にある小さな滝から水が注ぎ込んでいる。中神苑の蒼龍池より出た琵琶湖疏水が大極殿の背後を通りこの滝につながっている。さらに琵琶湖疏水は白虎池から南神苑の翔鸞池につながっていく。
西神苑
面 積 5,000m2(約1,500坪)
池 白虎池(びゃっこいけ) 池面積1,000m2
着 工 明治28年 完 成 大正2年
建 物 茶室「澄心亭(ちょうしんてい)」
西神苑から大極殿の背後の細長く鬱蒼とした林を、中神苑から続く小川の流れを遡っていくと、視界が開け、蒼龍池が現れる。
池に浮かぶ島までは臥龍橋と称する飛び石でつなげられている。橋の周囲には杜若が群生している。臥龍橋は、豊臣秀吉が天正年間(1573~1593)に造営した三条大橋と五条大橋の橋脚の円柱が使用されている。「龍の背にのって池に映る空の雲間を舞うかのような気分を味わっていただく」という小川治兵衛の作庭の意図が、この橋を渡る人に伝わってくる。
実際に臥龍橋を渡るのにかなり神経を集中するので、飛び石上で風景を鑑賞する余裕がないのが実情である。しかし池の中に出て行くことで、池の水際を歩くのとは全く違う印象が得られる。「龍の背に載って」という壮大な感覚には辿り着けなかったが、水面を飛ぶ蜻蛉が見る風景を体験できた。
東神苑の栖鳳池は蒼龍池と直接つなぐのではなく、途中に浅い河床の部分を作ることで、せせらぎとなって水が流れてゆく。河床には石が置かれ、水の流れが見てとれるような演出がなされている。
中神苑
面 積 4,300m2(約1,300坪)
池 蒼龍池(そうりゅういけ) 池面積1,130m2
着 工 明治28年 完 成 大正2年
中神苑から東神苑に移ると眺望が開け、神苑の中で最大の池 栖鳳池を中心に西岸に尚美館、中央に泰平閣が現れる。尚美館は貴賓館として利用されている。泰平閣は池の上に建てられた橋殿で中央部に休憩のできるように楼閣が造られ、屋根の上には鳳凰が載せられている。昔はこの楼閣から釣糸を池に垂らしたのかもしれない。いづれの建物も大正の始めに京都御所より御下賜された建物で、当時開催された京都博覧会で使用されている。
泰平閣の背後には昭和44年(1903)に建てられた平安神宮会館があり、その先には東山連山の一つ華頂山の美しい稜線が見える。
池の中には鶴島と亀島が浮かぶ。この2つの島のあたりに琵琶湖疏水が栖鳳池に流れ込む場所がある。ここにも蒼龍池とつなぎの部分で見せたせせらぎの表現が繰り返し使われている。手前には樹木の影を落とし、その先は明るい栖鳳池が広がる場所なので水の流れによって生じる煌めきが効果的である。
東神苑
面 積 18,000m2(約5,500坪)
池 栖鳳池(せいほういけ) 池面積5,500m2
着 工 大正3年 完 成 大正15年
神苑の構成は、作られた庭園という感じが薄く自然に近い南神苑から徐々に池の大きさが大きくなり、それとともに眺望が開き、人の手の入った庭園の姿が徐々に現われてくる。大極殿の背後の狭い空間は薄暗い林の中を流れる小川を見せることでつないでいる。この部分は似た構成となっている城南宮と全く異なった表現となっている。そして再び現れた中神苑の蒼龍池には人工の飛び石の臥龍橋を設けたり、東神苑の栖鳳池とのつなぎの部分のせせらぎ表現を加えることで小川治兵衛の庭園となっている。そして栖鳳池に入ると鑑賞の対象は庭の表現手法ではなく、栖鳳池であり、尚美館や泰平閣の建物であり、そして借景の東山の稜線となる。池の大きさと自然の取り込み方の調整で、見る人に何を見せるかを知らせている庭ともいえるのではないだろうか?
ただ琵琶湖疏水の取入れが神苑の東から成されているため、現在の拝観順路では疎水の流れの源流を辿ると大海に導かれるという形になってしまう。水の形態の変化というストーリーを組むのならば南神苑より疎水を流し、栖鳳池に至るということの方が判りやすかったのかも知れない。
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