東福寺 その7
臨済宗東福寺派大本山 東福寺 (とうふくじ)その7 2009/11/28訪問
東福寺 その6で記したように、九条道家は嘉禎2年(1236)に曽祖父の九条忠道や祖父の九条兼実にならい、法性寺山内に釈迦像を安置した仏殿を建立することを思い立っている。これが東福寺の創設とされている。その翌年の嘉禎3年(1237)には摂政と藤原氏長者を辞して、法性寺内の月輪殿のかたわらに光明峰寺を建立し、嘉禎4年(1238)准三宮宣下を固辞し出家している。そして延応元年(1239)には発願した仏殿の上棟式を行なっている。この開山に相応しい名僧を求めていたところ、仁治2年(1241)に宋より帰朝した円爾弁円の名声に巡り合う。寛元元年(1243)道家は弁円を招き、禅の教えを乞うとともに、新しい寺院の開山として迎えている。始めは天台・真言・禅の三宗兼学の道場としている。これは旧仏教との摩擦を避けるためと考えられている。 東福寺 その4でも記したように、弁円の常住寺として寛元4年(1246)に普門院が創建されている。普門院は室町時代に入り寺号となり十刹に列せられるようになる。後に、東福寺の末寺となるが、現在は廃寺となっている。ただし普門寺の名称は、東福寺常楽庵の客殿・庫裏・塔司寮に継承されている。道家は建長4年(1252)に光明峰寺で没している。道家の遺志は三男の藤原頼経や四男の一条実経そして次男の二条良実に引き継がれる。建長7年(1255)6月にようやく大仏殿の落慶をみるに至る。本尊の釈迦如来坐像は高さ15メートル、左右脇侍の観音、弥勒像は各7.5メートルであった。現存の東大寺盧舎那仏像の高さが14.7メートルであることから、東福寺の寺号とおり、東大寺に匹敵する寺院として建立されたことが分かる。 さらに18年後の文永10年(1273)までに法堂、祖師堂、祠堂等の多くの伽藍が竣工している。これらの伽藍は宋より請来した「大宋諸山伽藍及び器具等之図」により、宋の五山の建築や器具に弁円が精通していたと想像される。
東福寺は禅宗寺院としての七堂伽藍だけではなく、天台、真言兼修のために諸堂や仏菩薩の像、壁面図絵の祖師像、経籍供僧役員等、全て三宗併せて整備されたため、法性寺とも比べることのできない規模の大寺院になったと思われる。
開山となった円爾弁円は建仁2年(1202)駿河国藁科に生まれている。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学んでいる。承久元年(1219)18歳で三井園城寺の学徒として天台の教学を究め、上野長楽寺の栄朝に、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学ぶ。栄朝も行勇も建仁寺の開山である栄西の高弟である。嘉禎元年(1235)34歳で入宋し、杭州径山の無準師範の室に入り法を嗣ぐ。在宋6年、上記のように仁治2年(1241)7月内外典千余巻を携え帰朝する。
帰朝後、博多の崇福寺にて開堂演法し、無準師範から与えられた「勅賜萬年崇福禅寺」の八大字を揚げて寺名とする。同年に承天寺を開山となる。この2つの寺院は寛元元年(1243)に官寺に列せられる。九条道家に迎えられ上洛し、禅観密戒を授けている。
東福寺の開山となる一方、宮中においても禅を講じている。寛元3年(1245)弁円は宗鏡録を後嵯峨天皇に進講している。また正嘉元年(1257)には嵯峨亀山殿に弁円を招き、戒を受けている。後深草天皇や亀山天皇も弁円から菩薩戒を受けるなど、朝廷に禅宗が浸透するさきがけの役割を果たしている。
また建長6年(1254)寿福寺に住した際、執権北条時頼も受戒している。これが弁円と武家との関係の最初期となっている。その後、正嘉元年(1257)時頼は弁円を鎌倉に招き、寿福寺に住させている。この時は、火災により衰微した建仁寺の再建を弁円は委ねられたため、帰京し建仁寺に入寺している。弁円は九条道家と北条時頼の政治の世界で争い合う両者から尊敬を集めることとなっている。
弘安3年(1280)10月17日、弁円は鶏鳴を聞いて禅牀に上り、
利生方便七十九年 欲知端的仏祖不伝 弘安三年十月十七日 東福老 珍重
の遺偈をしたためて息を引き取っている。後に花園天皇より聖一国師と諡されたのが、わが国最初の国師号である。
東福寺第2世となる東山湛照を始めとし、聖一国師のもとからは優れた弟子を多く輩出し、四国師、十禅師、二十一派祖、六百余員とされている。ちなみに東福寺の住持は聖一国師一派の僧によって占められ、その法系外からの住持を選ぶことはない。これは度弟院あるいは徒弟院と称される師承伝統を重視した制度である。これに対して、法流に関わらず器量によって住持を選ぶものを十方住持である。建仁寺と南禅寺のみが十方制をとっている。
元応元年(1319)、建武元年(1334)そして延元元年(1336)と相次ぐ火災のために、東福寺の創建当初の広壮な伽藍の大半を焼失している。貞和3年(1348)前関白の一条経通の尽力により仏殿の再建が果たされている。また室町幕府も諸堂の修理に協力しhたため、再び旧観を復することとなった。
東福寺が最も栄えたのは、南北朝時代から室町時代の間で、三聖寺以下36宇に及ぶ塔頭子院が月輪山麓一帯に建ち並んでいた。この様から「東福寺の伽藍面」と呼ばれるようになっていた。重要文化財に指定されている「東福寺伽藍図」(東福寺公式HPに掲載)より往時の東福寺の繁栄が現れてくる。この図絵には別紙が補われ、永正2年(1505)6月20日の了庵桂悟の筆になる東福寺伽藍記が書されている。その内容からほぼこの時期に描かれたと考えられている。
応仁元年(1467)応仁の乱が勃発すると山名軍の乱入により、本坊を除く大半の塔頭が兵火によって焼亡している。また享禄3年(1530)には細川晴元の軍勢の陣営となり、多くの寺宝が散逸している。また天文3年(1534)には京極高次の軍勢が上洛し東福寺に陣を張っている。この時にも乱暴狼藉や寺宝の盗難が行なわれている。
豊臣秀吉が関白となった天正13年(1585)に、秀吉より寺領1800石が寄進され、惟杏永哲や安国寺恵瓊によって伽藍の補修が行なわれる。通天橋も慶長2年(1597)秀吉よって架け替えが行なわれる。仏殿は北政所によって慶長7年(1602)に重修されている。江戸時代に入り寛永年間(1624~44)に第3代将軍徳川家光によって諸堂が修復されている。
仲恭天皇九条陵参道と防長藩士之墓所
しかし東福寺にとって最も大きな打撃を受けたのは、明治維新後のことであった。寺領の上知によって寺域を失い、70余宇の塔頭は廃寺や統合が行なわれた。本町通11丁目から21丁目までの南北1.5キロメートルに及ぶ、およそ12万坪の寺域は半減の6万坪になっている。さらに追い討ちをかけるように、明治14年(1881)12月16日夜8時半頃、方丈より出火し、方丈から東庫裏、西茶堂、法堂そして仏殿までを焼き尽くしている。本尊の釈迦大像は隻手を残し灰燼に帰している。禅堂を仮仏殿とし、万寿寺の本尊釈迦像及び脇侍の阿南・迦葉の三尊を移設している。 その後、明治23年(1890)に方丈、同43年(1910)に庫裡も再建され、大正6年(1917)から着工した仏殿は昭和9年(1934)4月に竣工し、旧観に復している。
「東福寺 その7 」 の地図
東福寺 その7 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 東福寺 北門 | 34.9798 | 135.7709 |
02 | 東福寺 中門 | 34.9765 | 135.7711 |
03 | 東福寺 南門 | 34.9753 | 135.7711 |
04 | ▼ 東福寺 月下門 | 34.9776 | 135.773 |
05 | ▼ 東福寺 日下門 | 34.9765 | 135.7728 |
06 | ▼ 東福寺 六波羅門 | 34.9753 | 135.7732 |
07 | ▼ 東福寺 勅使門 | 34.9752 | 135.7734 |
08 | ▼ 東福寺 臥雲橋 | 34.9774 | 135.7728 |
09 | ▼ 東福寺 通天橋 | 34.9772 | 135.7736 |
10 | ▼ 東福寺 偃月橋 | 34.9769 | 135.7747 |
11 | ▼ 東福寺 三門 | 34.9757 | 135.7737 |
12 | ▼ 東福寺 本堂 | 34.9763 | 135.7737 |
13 | ▼ 東福寺 方丈 | 34.977 | 135.774 |
14 | ▼ 東福寺 庫裏 | 34.9767 | 135.7744 |
15 | ▼ 東福寺 東司 | 34.9756 | 135.7729 |
16 | ▼ 東福寺 経蔵 | 34.9767 | 135.7732 |
17 | ▼ 東福寺 禅堂 | 34.9761 | 135.7731 |
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