高台寺 その10
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その10 2009年11月29日訪問
この項では幕末において高台寺で起きたことをまとめてみることとする。
嘉永6年(1853)6月3日、フィルモア大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは、旗艦サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガを率いて浦賀に来航する。この内、外輪式フリゲート艦はサスケハナとミシシッピであり、プリマスとサラトガは帆船であった。そのため「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌は有名であるものの、蒸気船は2隻のみであった。老中首座阿部正弘は国書の受取りを回避することは不可能と考え、同月9日久里浜において浦賀奉行戸田氏栄と井戸弘道が、開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状及び覚書を受理している。国書への返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは1年後に再来航を告げ、艦隊は同月12日に江戸湾を去って行った。
嘉永7年(1854)1月16日にペリーは3隻の外輪式フリゲート艦、4隻の帆船を率いて再び浦賀に来航している。これは約束した1年より早い来航であった。その後、2隻の帆船が加わり、最終的には9隻の大艦隊となった。前回は国書の受け渡しであったため9日間で去って行ったが、今回は開国に関する協議が行なわれ、およそ1ヶ月間の協議を経た後、同年3月3日神奈川の近くの横浜村において全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されている。その後、伊豆国下田の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結し、ペリー艦隊は6月1日に下田を去って行った。
幕府は日米和親条約締結に際して朝廷にアメリカ国書の奏聞を行なったものの、調印については事後報告を行うに留めている。これは幕府が朝廷から国務を委任されているためであった。この日米和親条約第11条に基づき、安政3年(1856)7月21日初代総領事としてタウンゼント・ハリスは下田に赴任している。ここよりハリスと下田奉行井上信濃守と中村出羽守との駆け引きが延々と続き、1年以上を経た安政4年(1857)10月21日にハリスの登城と将軍謁見が実現している。そして同年12月11日より日本側全権の井上信濃守と岩瀬肥後守との間で日米修好条約の交渉が始まり、翌1月14日には合意に達した条約の成案をハリスは提出し、速やかに調印を求めている。幕府は諸大名の反発を避けるために、和親条約締結では行なわなかった条約の勅許を得るべく、林大学頭と目付津田正路を京都に送り、朝廷に開国の必要性を説明させた。朝廷は使節の役職の低さを盾にして開国に対して理解を示すことがなかった。安政5年(1858)2月には老中首座の堀田正睦が川路聖謨、岩瀬忠震を伴い上洛し、国際情勢の変化を説き勅許を奏請した。しかし廷臣八十八卿列参事件が発生するなど、朝廷では条約案撤回を求める意見書が提出される事態に陥っていた。そして3月20日、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、勅許不可の裁断を下している。成果を得られず江戸に戻った堀田は6月21日に登城停止処分にされ、23日には老中を罷免させられている。そして4月23日に大老に就任した井伊直弼によって、勅許を得ないまま安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約の調印を行なうこととなる。
この違勅調印とともに徳川家定の継嗣問題が複雑に絡み合い、幕府内で南紀派と一橋派の対立が明らかになっていく。本質的には開国の是非について問われることもなく、論争は違勅調印という手続き論において南紀・井伊派が攻撃を受けることとなった。この状況を打開するため、井伊直弼は6月25日に徳川慶福を後継に決定している。それと共に前水戸藩主徳川斉昭は、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平慶永を不時登城により隠居謹慎などに処している。これが安政の大獄の始まりとなっている。このような将軍継嗣という内政課題と開国問題によって幕府内でも意見は二分し、一橋慶喜を推す一橋派の人々は安政の大獄によって弾圧されていく。井伊大老の強権政治により幕威恢復が図られた様にも見えるが、開国派の主だった人々の左遷により朝廷に対して開国の必要性を説明する機会を失っている。幕府は慶応3年(1867)の最後の瞬間まで、開国問題に悩まされることとなり、姑息な説明に終始することによって幕威失墜はここより加速度的に始まってゆくこととなった。
違勅調印に異議が唱えられた背景には、日米和親条約から日米修好通商条約までの4年間で、朝廷を取り巻く情勢と幕権の変化が想像以上に大きかったということであろう。堀田正睦が上洛して日米修好通商条約の勅許を得ようとした時期より、京の朝廷の周辺でも将軍継嗣問題を含めて多くの人々が動くようになっている。それだけ朝廷が権威を持ち、幕府に対する発言力が強くなってきたためであり、これを利用して内政及び外交方針を変えていこうと考える人々が京に集結しつつあった。特に安政5年(1858)8月8日の戊午の密勅が下賜から間部詮勝の上洛と共に始まった安政の大獄にかけてが、公卿の家士、浪士そして各藩の藩士達の暗躍が高まる最初の時期でもあった。
当時の高台寺を中心とした東山は料亭も多くあり、処士が密談を行なうには格好の地域であった。また粟田口には青蓮院門跡があり、嘉永5年(1852)に青蓮院門跡門主の座に就いた青蓮院宮(後の中川宮親王・久邇宮朝彦親王)が暮らしていた。また清水寺成就院は尊王攘夷の僧・月照上人が住職を務めていた。左大臣近衛忠煕と交わりのあった月照は近衛邸への出入りが自由であり、近衛家老女・津崎(村岡)矩子にも通じていた。近衛家は薩摩藩との関係が深く、忠熙の正室島津興子は前藩主・島津斉宣の娘である。また島津斉彬の養女天璋院は、安政3年(1856)忠煕の養女となった後、将軍徳川家定に嫁している。また安政の初年頃より島津斉彬の命に従い西郷隆盛は国事に携わるようになり、その中で藤田東湖、武田耕雲斎そして橋本左内、中根雪江などとの親交を深めている。すなわち近衛家老女津崎矩子、鷹司家家臣小林良典 薩摩藩藩士西郷隆盛・原田才輔・有村俊斎、水戸藩家臣鵜飼吉左衛門・幸吉親子そして梅田雲浜、頼三樹三郎、宇喜多一蕙・松庵親子、など在野の志士を含めた活動が東山を中心に行なわれている。 月照上人は安政2年(1855)2月24日に高台寺の塔頭・春光院に移住している。そして安政3年(1856)3月29日には、改築のため長楽寺境内へ移っている。この間に近衛忠煕や青蓮院宮にも拝謁したとされている。そのため石田孝喜氏の「幕末京都史跡辞典」(新人物往来社 2009年刊)では、清閑寺郭公亭とともに春光院でも西郷や津崎との密議が行われた地としている。
安政7年(1860)3月3日桜田門外で井伊直弼が暗殺されると一橋派への弾圧は収束する。島津斉彬の逝去以降、中央政界から退いていた薩摩藩も藩の方針を公武合体と定め、文久2年(1862)4月16日に上洛を果たす。そして勅使大原重徳に随従し、同年6月7日出府した島津久光は、7月6日に一橋慶喜を将軍後見職に、同9日に松平俊嶽を政治総裁に就任させている。安政の大獄で失脚した一橋派が、再び幕府中枢に戻ることとなったが、これを朝廷と外様藩薩摩藩の藩主でもない久光によって達成されたことにより、幕府の権威は著しく傷付けられた。そして同時に外様藩でも公卿でも朝廷を通せば国政に参加できる事実が明らかになってしまった。こうして文久年間(1861~64)に入ると、政治の舞台が江戸から京都に移っていくのは必然であった。
文久2年(1868)7月26日、高台寺の塔頭・月真院が津和野藩主亀井茲監の定宿となっている。後に国学者で歌人として有名な福羽美静は津和野藩士である。初め藩校養老館で岡熊臣に学び、京都に上って大国隆正、さらに江戸で平田銕胤について皇国学を修業している。その間帰国して養老館の教授を務めるが、文久2年(1862)藩命により上京し諸藩の尊王の有志と交わって情報収集に奔走することとなる。文久3年(1863)8月18日の政変で七卿と共に西下して帰国し諸藩の間を往来して七卿の嫌疑を解くことに尽力している。また討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山に祀り、文久3年(1863)八坂神社境内に美静らが小祠を建立したのが、招魂社の最初とされている。
また島津久光によって政治総裁職に復帰した松平春嶽も高台寺を宿所としている。福井藩京都藩邸は二条城の東、現在の京都国際ホテルの地にあった。文久3年(1863)2月4日、松平春嶽は上洛し、大政委任か政権返上の決定を求める政令帰一を提唱するが、急進派公卿と長州藩などの勢力が強く朝議に決定が覚束ないことより、3月2日に政事総裁職を辞任し、同月21日退京している。その後、福井藩の政治顧問を務める横井小楠が主導となり、挙藩上京計画が表面化する。福井藩全軍で京都に出兵し、政局内の対立を武断をもって鎮圧し、しかるのち速やかに両勢力を合議し、広く才能ある人材を登用し、早急かつ緩やかな改革を推し進めようとする内容であった。そして薩摩藩と連携し肥後藩・加賀藩などにも加勢を頼むが、藩内外の反対派の活動や他藩や朝廷・幕府との連携がほころび、決行直前の8月半ばに急遽中止となる。
そのような情勢下で浪士による高台寺焼き討ちが行なわれ、唐門、方丈そして小方丈を焼失している。維新史料綱要(東京大学史料編纂所 東京大学出版会 1937年刊 1983年覆刻)の文久3年(1863)7月26日の条の綱文には、
是夜、激徒、火ヲ京都高台寺東山ニ放ツ
とある。
高台寺炎上は、八條隆祐手録、中山忠能日記、村井政禮日記、続再夢紀事、安達清風日記、東西紀聞、鹿児島藩文久雑記集、如坐漏船居紀聞、坤儀革正録、肥後藩国事史料、海舟日誌、京都守護職始末、七年史、維新階梯雑誌、坂本龍馬関係文書などに取り上げられている。続再夢紀事7月27日条では、
廿七日暁京都高台寺焼失す
是より先藩議己に両公上京あるへきに決せし時旅寓に充る
為め借り入れ置かれしなり
此時四條御旅所に貼付し置ける放火の趣意書左の如し
癸亥雑記
高台寺奸僧共朝敵の寄宿指許候段不届至極ニ付放神火焼捨
畢向後右様之者於有之ハ同罪天誅候者也
此後又大津高札場に朝敵松平春嶽兵を率て上京するよし
若宿駅に於て人馬を継立る者あるに於ては天誅を加ふ
へきなりとの趣意を書きて貼付し置けり
続再夢紀事には、貼紙のあった大津宿で福井藩御用達の矢島藤五郎宅に、8月2日夜半浪人20人が乱入し、藤五郎を殺害したとある。さらに続いて8月13日三条制札場に西本願寺用人の松井繁之丞(中務)の梟首があった。菊池明氏の「幕末天誅斬奸録」(新人物往来社 2005年刊)では、西本願寺も松平春嶽の旅宿として提供したため松井繁之丞は殺害されたとしている。
このように福井藩の挙藩上京計画は浪士にとって脅威であり、それを押し留めるための殺戮が繰り返されたということだろう。そして高台寺関係者が天誅に会うことがなかったものの、焼き討ちされ方丈をはじめとする堂宇を失っている。
なお会津藩が纏めた京都守護職始末と七年史では、7月20日に高台寺炎上があったと記されているが、多くの人の手記に記されているように7月26日の夜半に行なわれたと考えるほうが自然である。
京都守護職始末には、「後に聞くには」として肥前島原の梅村真守、伊藤益荒、保母建 因幡の石川一 常陸の渋谷伊予作等の浪人の為せる所と記されている。
石田孝喜氏の「幕末京都史跡辞典」には、放火を行なったのは、鳥取藩士石川貞幹と尾崎建蔵としている。梅村、伊藤と石川は同年2月22日の足利三代木像梟首事件に加わっている。この事件が京都守護職の言路洞開と呼ばれる宥和政策から、浪士取締り強化策に変更される契機となった。また石川、尾崎そして保母と渋谷は8月18日の政変において天誅組に加わり、何れも捕獲され六角獄舎に繫がれている。尾崎と渋谷は文久4年(1864)2月16日に処刑され、石川と渋谷は元治元年(1864)7月19日に始まった禁門の変に伴い獄舎内で処刑されている。そのため竹林寺の六角獄舎殉難志士の墓には石川と保母の名は残されているが尾崎と渋谷の名はない。 梅村と伊藤は天狗党の乱に加わり元治元年(1864)に亡くなっている。
月真院は圓徳院のねねの道を挟んだ反対側、高台寺の庫裏の建つ高台の西側下にある。山門の前には御陵衛士屯所跡の碑が建っている。以前はこれのみであったが、現在は鉄道先覚者 谷暘卿先生の墓所を示す碑と京都指定保存樹の看板も建ち見難い状況になっている。 現在、月真院は建立の歴史より、御陵衛士の屯所としての方が有名かもしれない。ヒロさんが「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」の中でまとめられた御陵衛士年表&日誌を参照させていただき、御陵衛士の活動をまとめてみる。
慶応3年(1867)3月10日に伊東甲子太郎ら十数名は、孝明天皇の御陵衛士を拝命する。これには孝明天皇陵のある泉涌寺の塔頭・戒光寺の長老・堪念の働きがけがあったようだ。そして3月13日夜には新選組局長近藤勇らと分離策について話合い了承を得ている。御陵衛士は新たな屯所を定めるのに時間を要している。3月20日にようやく新選組屯所を出て三条城案寺に泊まる。翌日には五条善立寺に移るが、月真院を屯所としたのは慶応3年(1867)6月のことだったようだ。11月15日、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲撃される。この暗殺の前に伊東は坂本と中岡に危険を伝えていたようだ。そしてその3日後の11月18日、近藤の招きに応じた伊東は近藤勇の妾宅で議論した帰り道、木津屋橋近くで新選組の待ち伏せに遭い殺害される。そして翌日未明の油小路の闘いへとつながっていく。ともかく伊東甲子太郎を頭取とした御陵衛士10数名が慶応3年(1867)6月から油小路の闘いのあった11月までの半年弱の期間、この月真院で生活していたこととなる。
月真院は非公開のため、普段は高台寺通から山門越しに覗きこむことしかできない。また以前は宿泊もできたが、それも現在では行われていないため、中の様子を伺うことは難しい。前述のヒロさんのHPには、月真院の内部を説明したページがありますので、興味のある方はご参照下さい。
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