頼山陽書斎山紫水明処
頼山陽書斎山紫水明処(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問
丸太町橋の西南橋詰には、明治5年(1872)に開設された新英学校及女紅場が、明治7年(1874)に英女学校及女紅場、明治9年(1876)に京都女学校及女紅場、明治7年(1882)に京都女学校、そして明治20年(1887)には京都高等女学校と校名を変えながら明治31年(1898)までこの地に存在していた。そして大正13年(1924)に竣工した旧京都中央電話局上分局も平成元年(1989)からは商業施設に改修されている。
この場所の対面にあたる丸太町通の北側には、頼山陽書斎山紫水明処の道標が建つ。北面には「国定史蹟 頼山陽書斎山紫水明処 此ノ北右側」とあり、道標として建立されたことが分かる。西面には「昭和五十八年九月建」とこの碑が建立された時期が記され、南面すなわち丸太町通に面して「京都頼家五代頼新書」とある。フィールド・ミュージアム京都では、建立者を頼新としている。樫原に昭和54年(1979)に建てられた勤王家殉難地にも「山陽之玄孫頼新書」とあることは、勤王家殉難地の項で記したとおりである。確かに丸太町通から細い三本木通を入り、さらに右に曲り東三本木通へと続く道は予め地図などで確認していないと分かり難い。そのために道標がここに建てられたことは十分に理解できる。頼山陽の山紫水明処は東三本木通の東側の南町にある。
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