京都御苑 賀陽宮邸跡 その2
京都御苑 賀陽宮邸跡(きょうとぎょえん かやのみやていあと)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 賀陽宮邸跡では安政年間に入るまでの朝彦親王の事蹟について書いてきた。ここでは親王の周囲に集まってきた有志の人々とそれが親王自身に与えた影響について考えてみる。
「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊)に所収されている「唱義聞見録」によれば、池内大学は四条通の商家に生まれ、儒学者で書家そして文人画家の貫名海屋に学ぶ。その学問詩文は人の知るところとなり、知恩院宮尊超親王に仕えるようになる。宮に従い関東に下り3年を過ごす。その後、家来を辞し浪人となり三条家や東坊城家に出入りし、縉紳の若殿の侍講となる。さらに朝彦親王の侍講となると一月に5~6度も参殿、三条家へも度々参上し宮と公の両人よりの寵遇を受けるようになる。東久世通禧親王の回顧談を高瀬真卿(羽皐)が筆録した「続日本史籍協会叢書 竹亭回顧録維新前後」(東京大学出版会 1905年発行 1982年覆刻)には“池田大学”が親王の侍講となり、三条実萬との橋渡しを行ったと記されている。この池田大学とは、恐らく池内大学のことであろう。また大学は関東で徳川斉昭に拝謁したこともあり、鵜飼吉左衛門を経た水戸の時事情報を三条実萬に伝えることが役割でもあった。朝彦親王は池内大学を通じて三条実萬との関係を深めただけでなく、大学が関係を持っていた梅田雲浜、梁川星巌、頼三樹三郎等の人物と面識を持つこととなり、水戸の藩情を知るようになる。
なお「唱義聞見録」では、安政4年(1857)末の林大学、津田半三郎上京の際、池内大学は日々三条公の許へ参上し力を尽くしたが、半ば頃より大学に関する悪説が流れるようになり、縉紳からの信用も失っている。さらに戊午の密勅の頃には、大学は機密に関係することはなかったとしている。このことは同じ世古格太郎の記した「銘肝録」(「野史台 維新史料叢書 雑4」(東京大学出版会 1975年刊))にも見られる。悪説の根源は幕使・林大学の宿舎を訪れたことにより幕府に賄いを掴まされたということらしく、同年3月頃には皆大学を疑うような状況にあった。世古は「元来池内多舌の人故機密を漏し候事は大にあれは油断なりかたし」とも記している。
安政5年(1858)松平春嶽の命を受けた橋本左内は、同年2月7日に京に入っている。堀田正睦が川路聖謨、岩瀬忠震を伴い日米修好通商条約調印の勅許を得ようと入京したのが2月5日であったから、その直後の入洛であった。春嶽は条約問題においては堀田と意見の一致を見ていたが、将軍継嗣問題では南紀派と目された堀田に対抗すべく左内を同じ時期の京に送ったと思われる。
左内は山内容堂から三条家諸大夫の森寺因幡守の紹介を受け、9日には三条実萬に面会し開国の止む得ぬことと将軍継嗣問題では一橋公を推す理由を説明している。16日には青蓮院宮の諸大夫・伊丹蔵人を説破し親王との対面を果たし、同月21日には幕府を警戒する親王に川路聖謨を引き合わせている。左内と親王との間には対外政策について決定的な意見の違いがあるが、一橋慶喜擁立については一致を見ている。つまり左内は開国という自らの主張を一時的に封印しても、より大きな一橋派の結成を優先していたことが分かる。
その後、久我家諸大夫の春日潜庵との大議論の末、潜庵から一橋公擁立のための周旋を取り付けている。鷹司家の侍講となっていた三国大学を同郷の中根雪江を通じて知り合い、鷹司家の諸大夫であった小林良典に接近する。鷹司政通、輔煕父子は親幕府派であったが、九条尚忠が南紀派と結んだことにより、反幕府・攘夷派に転じている。左内は鷹司父子に将軍継嗣問題に英傑・人望・年長の三条件を依頼している。
上記のように橋本左内の京における将軍継嗣問題に関する周旋は完璧に行われ、後は春嶽を始めとする江戸での術策を待つのみという状況となった。左内が京で結集した勢力は反九条で、自ずと反幕府、朝権伸張で攘夷を主張するもの達であった。それらの人々にとって徳川斉昭の子である一橋慶喜が朝廷を敬い、攘夷を実行してくれると信じていたのであろう。いずれにしても当時の徳川政権と異なった内外政策を提示できる人材に期待したことは間違いない。この点では左内の工作は成功したが、自らの目指した幕権回復と積極的な開国政策においては意見の異なる勢力との連携であったことは明らかである。
「梅田雲浜遺稿並伝」(有朋堂書店 1929年刊)の雲浜年譜と梅田雲浜伝に従うと、梅田雲浜が青蓮院に参殿したのは、左内より少し早い安政5年(1858)正月16日のことであった。宮家の安政5年の日記に下記のように残されている。
正月16日、梅田源二郎参殿、此度御館入被レ仰候御礼申上、仍レ之扇子三本入一箱献上、於二黒書院一御目見被二仰付一、御手ヅカラ昆布被レ下レ之。
宮家家臣の伊丹蔵人と山田勘解由は雲浜の門弟であったことから、この人々の手引きによって行われたのであろう。なお裃を着し座した雲浜の有名な肖像は、この謁見の時の服装であったとされる。同年2月に上京した堀田正睦に対する想定問答をまとめた意見書(「梅田雲浜遺稿並伝」152~8頁掲載)を親王に提出している。このように親王は最新の情報を雲浜に開示し、雲浜は自らの意見を親王に上申していたことが分かる。
以上のように実に多くの有志者が、親王が孝明天皇の政治顧問であること知り、親王自身の行動力に期待し入説を行っている。それにより親王を中心とした一橋派ネットワークが出来上がり、あたかも親王の意思によって動いているようになって行く。その影響範囲は宮中における近衛公、鷹司公父子、三条公から市井の梁川、梅田、池内、頼の悪逆四天王、さらに梅田からは吉田松陰を代表とする長州や水戸の有志、月照の薩摩人脈、そして水戸斉昭、島津斉彬、松平春嶽を中心とした一橋慶喜を推す大名や幕閣、幕府役人達まで及ぶ強大なものに成長していった。井伊直弼を中心とする南紀派にとって、親王が水戸の徳川斉昭とともに悪の巨魁に見えていたとしても決して不思議ではなかった。このような状況で安政の大獄が始まったとすれば、親王が大獄から逃れる術が最初からなかったことは明白である。
安政5年(1858)2月23日、御三家以下諸大名に台命を下しその所存を明らかにする事という朝旨が伝奏議奏より伝えられている。開港の可否についても触れていなかったため再度勅許を請う。九条関白が作成した勅答案には、幕府にとって受け入れやすいように「何共御返答之被遊方無之此上ハ於関東可有御勘考様御頼被遊度候事」(「孝明天皇紀 巻78」(平安神宮 1967年刊)3月20日の条「長谷家記」)という一文が加えられている。つまり先の御三家を含めた所存を正した朝旨から、対外政策については幕府に一任するという内容に一変している。これを察知した公卿達は同月12日に参内連署して勅答案反対の旨を訴える、いわゆる廷臣八十八卿列参事件を起こす。このような事件を経て2回目の勅答案が三条実萬等複数の公家によって作成される。
勅答が確定し参内した堀田正睦に交付されたのは3月20日であった。その内容は2月23日の朝旨に戻り、更に衆議し言上せよという内容であった。条約勅許についての幕府の願いは完全に拒絶されこととなった。同月21日、橋本左内は三条・近衛・鷹司により、将軍継嗣問題についての年長・賢明・人望の三条件が付いた御内勅降下を申請する。同日の延議において九条尚忠の反対を押し留めたが、翌22日の内勅を交付する際に、九条関白によって三条件が削除されている。そして、「年長之人を以」という付札のある書付が下った。京都では橋本左内の積極的な周旋と王室書生らの暗躍により一橋派が優勢に事態を進めてきたが、最後の最後にして九条尚忠によって曖昧な内勅に変更されている。
一方江戸においても将軍ならびに大奥への周旋に失敗した一橋派に対して、安政5年(1858)4月23日に南紀派の彦根藩主・井伊直弼が大老に就任、6月1日には養君決定の発表を行っている。ほぼこれを以って将軍継嗣問題は終結し、安政の大獄に向かって行く。
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