京都御所 その11
京都御所(きょうとごしょ)その11 2010年1月17日訪問
京都御所 その10は7月18日までの大まかな長州の進発に至る経緯である。繰り返しにはなるが、桂小五郎は八月十八日の政変以降、京摂に残り政情分析を続けてきた。しかし文久3年(1863)10月3日に帰国し、一時は諸藩に対して長州藩の雪冤を訴える活動に従事している。そして元治元年(1864)正月12日には再び京に戻るべく山口を発ち、18日に入京を果たしている。ここから甲子戦争までの7ヶ月間、京に於いて政情を観察し、長州藩を支援する諸藩及び堂上人の組織化を計る役割に就いている。 これに対して久坂玄瑞は、雪冤のために上京する家老・井原主計の随行として、文久3年(1863)11月8日に山口を出発、11月中旬には大阪に到着している。すなわち桂が帰国していた期間、京摂で久坂が情報収集を担当していたこととなる。そして桂が再び京に戻った元治元年(1864)1月18日から久坂が京を去る3月12日までの凡そ2ヶ月間、共通の情報を基にして共に進発が不可であるという認識にあった。
京都に戻って僅かの期間に、久坂は進発の好機が訪れたと考えていたことが、これらの書簡より見えてくる。京を一ヶ月不在にしたことにより久坂の政情分析に狂いが生じたというよりは、山口への帰国により進発論と云う熱病に冒されて帰って来たと考える方が良いのかも知れない。いづれにしても、参預会議が崩壊し島津久光を始めとする諸侯が京を後にすることが、進発ありきと考えるようになった久坂に好機到来と強く感じさせたのであろう。
福本義亮の「久坂玄瑞全集」(マツノ書店 1978年覆刻)に久坂玄瑞が元治元年(1864)5月4日付で山口の政庁へ送った政治局宛書翰が所収されている。ここには「三奸退去人心帰向之両機に乗じ」とある。「三奸」とは島津久光、伊達宗城そして松平春嶽のことであり、この三人が京を去ったことが好機であると認識していたことが分かる。また「人心帰向」と京の世論が長州贔屓となってきたことを云う。そして以下のように進発論を主張している。
小生杯の考にては大樹滞京中に御上京被為在大樹へ御委任之御沙汰に相成候事に付攘夷之実功相立候様至誠赤心を以て御異見被為在度奉存候萬一大樹還府に相成候上其間隙を窺ひ御進発に相成候ては却てまた長州幕威を殺の隠謀なるべしなど申説相起折角之御盛意も天下之疑惑を生じ候様にては不相叶に付大樹在京中御進発可然と奉存候
久坂の進発論は大義を伴ったものではあるが、あまりに理想主義的であり冒険的な意見でもあった。交渉相手は禁裏守衛総督・徳川慶喜ではなく在京の将軍・家茂に定め、世子自らが誠意赤心を以って意見を述べるという策は師である吉田松陰を髣髴させるものであった。その実現性においてかなり問題があるものの、文久年間から政治決定の中心であった京都に政治的な空白期間が訪れ、それが軍事的な空白に繋がるのならば久坂の進発論も成立し得る。すなわち長州藩の軍事的な圧力によって、一時は失った政治的交渉力を再び高めようとすることは可能であった。この進発論に来嶋又兵衛と寺島忠三郎が賛同したが、大坂屋敷の留守居役・宍戸九郎兵衛は反対、桂小五郎も同意しなかった。
断然御独立天下之正気御持維不レ被レ為レ在ては不二相叶一候、攘夷之儀に付ては始より成算之ある事にては無レ之、国体之立不レ立、大義之缺不レ闕とにこそあれば、今更一点も動揺ありては不二相叶一候は勿論に候
攘夷は成算があるから行うべきものではなく、大義として行うべきという発言こそが久坂の思想と決意を端的に顕わしている。
なお宸翰諫争あるいは上記の正月宸翰とは、元治元年(1864)1月21日に将軍家茂へ下された宸翰の起草を薩摩藩士・高崎猪太郎が行ったということである。この宸翰については「孝明天皇紀」(「孝明天皇紀 第五」(平安神宮 1969年刊))に「山階宮国事文書写」として掲載されている。また同月27日にも将軍徳川家茂及び在京の諸藩高家を小御所に召して同心協力して治国安民を図るために賜った宸翰がある。これも風評では高崎猪太郎の起草とされている。また27日の宸翰も「孝明天皇紀」に「議奏役所文書」として掲載されている。この宸翰については佐々木克氏の「幕末政治と薩摩藩」(吉川弘文館 2004年刊)でも取り上げている。佐々木氏は「実ニ恐入候得共、宸翰御趣意、草稿イタシ差上候事」と島津久光が日記に記したことより、久光が草稿を作ったとしている。いづれにしても薩摩藩の手により久光の考えが反映されたものであった。
正月27日の宸翰の大要は、①三条実美等は「匹夫ノ暴説」を信用し天皇の意思を偽って「攘夷ノ令ヲ布告」し且つ「妄ニ討幕ノ帥を興サン」とした ②長州藩の「暴臣」は「故ナキニ夷船ヲ砲撃」したが、これらの「狂暴ノ輩」は「必罰」しなければならない。③このような事態になったのは「朕カ不徳ノ致ス処」であり、実に「悔慙ニ堪」ない思いである ④将軍と「各国ノ大小名」に「天下ノ事」を、自分と共に「一新」するための協力を求める というものであった。なお正月21日の宸翰には、さらに以下のような一文もあった。
朕凡百ノ武将ヲ見ルニ、苟モ其人有ト云ヘトモ、当時会津中将、越前前中将、伊達前侍従、土佐前侍従、島津中将等ノ如キハ、頗ル忠実純厚、思慮安遠、以テ国家ノ枢機ヲ任セルニ足ル、朕是ヲ愛スルコト子ノ如シ、願クハ汝是ヲ親ミ、与ニ計レヨ
宸翰では、長州藩士等によって吹き込まれた暴説により三条実美等が攘夷の令を布告し討幕の企てを持ったのであり、長州藩による異船への砲撃も理由のない攻撃であるとしている。そしてこれらの砲撃は処罰の対象となるものだと云っている。長州藩にとって、今までの活動全てが否定されることになり、決して受容れることのできないものであった。さらに天皇が信頼すべき人々は、反長州派の参預達であるとされたら、全く挽回の余地も無くなる。この宸翰が長州藩を強く刺激し、自ら挑発的な行動に出ることになったとも云える。さらにこの宸翰に疑問を感じた一橋慶喜も、その後に薩摩藩で起草されたものであることを知り、島津久光に対する警戒心を高めている。そして、このことを薩摩藩の謀略の一つと見なし、参預会議体制の崩壊へと繋がっていった。
7月17日の石清水八幡宮社畔の益田右衛門介の営所で会議において、久坂は一時京都から撤退しさらに雪冤を交渉によって実現しようと主張している。しかし来嶋等の進軍論に押し潰され、甲子戦争が勃発している。進発論を提言し5月16日に準備のために再び帰藩する時には、上京する長州軍の手綱を自らの手で握ることができるという自信があったのであろう。しかし結果としては久坂の弁舌も激高する来嶋等を鎮めることも出来ず戦争へ突入して行く。
桂は一貫して久坂等の進発論には賛意を示さなかった。現実主義者の桂にとって京の近くに兵を置く事が、最終的にどのようなことに繋がるかを分っていたからであろう。ただし国論が進発に決定した後は、積極的には反対しなかったようだ。それが無意味な事であり、さらに自らの危険に繋がる事も理解していたからだろう。さらに6月5日に池田屋事件が発生する。当日、池田屋を訪れた桂は参加者が集まっていないため対州藩邸に入っている。この時間を費やすための行動により、桂は辛くも難を逃れている。池田屋から屋根伝いに対州屋敷まで逃げ延びたという話は、乃美織江が流した誤報を基に作られたものである。
4月18日に桂は京都留守居に命じられている。この命が京都に届いたのは5月2日であった。すなわち5月までは幕府へ届け出された正式な藩士でなかったこと、さらに桂の活動自体が公武合体派に対峙する親長州派勢力の結成というものであった。そのため活動の拠点を長州藩邸に置けず、対州藩邸に潜伏することが多かった。池田屋事件の当日も対州藩邸で時間を費やしたことで難を逃れたのも、決して偶然の産物でもなかった。
再び、7月17日からの長州藩邸留守居乃美織江の行動に着目する。17日に一橋慶喜の使者として来訪した水戸藩士大野謙介の周旋依頼を辞退し、長州藩の近況を書面に著わし提出している。これが慶喜の行った第6回目の説諭に当たる。「松菊木戸公伝」には開戦直前の長州藩京屋敷の状況が克明に描かれている。これに従うと、乃美は17日深更に急命を受けて、毛利家の執奏家である勧修寺家に赴いている。上記のように宮中では夜を徹しての討議が続いていたため、勧修寺経理も入朝していた。18日の未明に帰宅した経理は、乃美に対して六条中納言邸で朝命の伝達があることを伝える。乃美が六条邸に赴くと議奏伝奏列席において、野宮定功より、長州藩士は今日限りで退去、福原越後が少数と歎願するならば詮議があるだろうと云う命が申し渡されている。そして諸卿は乃美に、速やかに伏見に赴き福原等を説諭するように説いた。それでも乃美は老臣一人の入京の許しを請うたが許されず、一旦藩邸に戻る。桂は対州藩邸から長州藩邸に来て、乃美の帰りを待っていた。乃美は桂に伏見への同道を求めたが、桂は「予固より今日の挙を賛せず、依りて又兵衛予を目して怯となす、予往くも却りて事に害あるべし」と云い、その同行を辞退している。このことは乃美織江の手記にも記されている。最終交渉に随行することは来嶋又兵衛の激高を引き起こす事になることを自ら分っていたから桂は乃美の求めを拒絶している。既に止める事ができない状況になっていることを認識し、それでも最後まで冷静に手続きを行う事を桂は選択したのではないかと思われる。
乃美織江は独り馬を馳せ伏見に赴き福原越後に面会し朝命を伝えている。福原等は凝議したものの、情勢既に如何ともし難く、乃美は直ぐに京に戻り朝旨に奉答し、更なる猶予を請うた。さらに18日には一橋慶喜が乃美を旅館に召し、各所屯執している兵士の撤去させることを再び説いている。乃美は諸士を慰論することが効果のないことだと陳べた上で、再度老臣一人を入京させ下命することを願出た。しかし聞き入れられなかったので、乃美は退いてその命を伝えたとしている。乃美は18日に六条邸で申し渡された朝命のためと、一橋慶喜からの撤兵令により、2度伏見に赴いたようにも読めるが、その手記には朝命の一回分の記述しか残されていないようだ。このことは「防長回天史」も指摘している。開戦前の混乱によって一部欠落が生じたのかもしれない。なお「防長回天史」は、以下のように乃美の見た伏見の光景を手記よりの抄出として記している。
予乃ち独り発す馬丁をして先ち奔り行々各処の守兵に謂はしめて曰く公用あり伏見に赴くと馬を飛して越後か居館へ着す越後は竹内正兵衛以下数人と出軍の指物旗紺色布に姓名を大書す越後書を能くし甚だ見るべし直ちに会議す而も今にして奈何ともすべからず天王山嵯峨に伝令するも益田国司両大夫亦止まんと欲するも止む能はざるべしと因て遂に左の書を作り齎らして帰りて上る
勅諚之趣奉畏候早速天王山嵯峨申合せ引取之手段精々心配可仕何分両地掛隔り今日之処猶予之程奉願上候此段御請申上候
このようにして7月18日の最終交渉も決裂し開戦へと向った。
もともと桂は幕府の目を逃れるため長州京都藩邸を活動の拠点とせず、林竹次郎の変名を用いて対馬藩邸に潜伏することが多かった。7月18日、乃美織江が六条邸で朝命を授かった際、あるいは一橋慶喜の召しにより居館を訪れた際、桂は長州藩邸で乃美の帰還を待ち、最終交渉の状況を確認している。乃美の手記に残るように、来嶋又兵衛を激昂させることを避けるという口実で、乃美との伏見への同行を桂は拒絶している。それでも「防長回天史」には、伏見から戻ってきた乃美織江、佐々木男也等とともに、18日夜に宴を張り訣別したとある。その後、桂は佐々木と共に因州邸に赴いている。乃美は邸吏と予め門内に酒飯飲水を備えて、夜を徹して藩邸の防備を固めた。堺町御門の辺りで戦火が起り藩邸周辺にも弾丸が飛来するに及び、乃美も事の敗れるを知り火を藩邸に放ち、西本願寺に逃げ込んでいる。
この乃美の行動は、18日に伏見の福原越後を訪ねた際に、「緩急に際し藩邸を如何せんと問ひしに火を放て本願寺に遁るべし本願寺へは已に密に依嘱する所ありと答へ」とあるので予定通りであったようだ。本願寺に移った乃美は、これまでの責任を取って自殺しようとする。しかし寺僧は乃美を諌止し、寺の火事羽織を着せ法主の退避に従い西大谷へ脱出させている。本願寺としても長州藩士を匿った痕跡を残す訳にはいかないからである。乃美は大津に出て、伊賀越を経て大和に入り大阪より岩国へ海路で渡り山口への帰国を果たしている。また藩邸の他の者も本願寺より各自帰国している。
長州藩大阪藩邸も7月22日に幕命を以って没収されている。大坂留守居役の北条瀬兵衛は、23日に本邸及び富島別邸を幕吏に交付し藩邸吏以下男女50余人を船に搭乗させ国に帰っている。宍戸九郎兵衛や竹内正兵衛も、この時に無事帰国を果たしている。これに対して江戸藩邸は7月26日に全員が拘禁され、諸藩江戸屋敷に預けられている。苛酷な処遇であったため病死者が続出している。明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)では、「長州藩江戸邸没収(元治元年七月)」という見出しの元に53名の氏名が記されている。
「京都御所 その11」 の地図
京都御所 その11 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
安政度 御所 | 35.0246 | 135.7627 | |
01 | ▼ 京都御苑 中立売御門 | 35.025 | 135.7596 |
02 | ▼ 京都御苑 蛤御門 | 35.0231 | 135.7595 |
03 | ▼ 京都御苑 下立売御門 | 35.0194 | 135.7595 |
04 | ▼ 京都御所 清所門 | 35.0258 | 135.761 |
05 | ▼ 京都御所 宜秋門 | 35.0246 | 135.761 |
06 | ▼ 京都御所 建礼門 | 35.0232 | 135.7621 |
07 | ▼ 京都御所 建春門 | 35.0236 | 135.7636 |
08 | ▼ 京都御所 朔平門 | 35.0272 | 135.7624 |
09 | ▼ 京都御所 月華門 | 35.0238 | 135.7617 |
10 | ▼ 京都御所 承明門 | 35.0235 | 135.7621 |
11 | 京都御所 日華門 | 35.0238 | 135.7625 |
12 | ▼ 京都御所 紫宸殿 | 35.0241 | 135.7621 |
13 | ▼ 京都御所 清涼殿 | 35.0243 | 135.7617 |
14 | ▼ 京都御所 小御所 | 35.0245 | 135.7625 |
15 | ▼ 京都御所 御学問所 | 35.0249 | 135.7625 |
16 | ▼ 京都御所 御池庭 | 35.0247 | 135.763 |
17 | ▼ 京都御所 御常御殿 | 35.0253 | 135.7628 |
18 | ▼ 京都御所 御内庭 | 35.0253 | 135.7631 |
19 | ▼ 京都御苑 清水谷家の椋 | 35.0231 | 135.7608 |
20 | ▼ 京都御苑 凝華洞跡 | 35.0213 | 135.7624 |
この記事へのコメントはありません。