南千住 回向院 その2
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その2 2018年8月12日訪問
南千住 回向院では日本に於ける人体解剖の歴史と明和8年(1771)3月4日に小塚原で行われた観臓が行われるまでの経緯を書いてきた。この項では観臓の様子を書いてみる。
明和8年(1771)3月3日、杉田玄白は町奉行所から翌4日に千住小塚原の刑場で腑分けが行われる連絡を受けている。玄白は至急同志に「早天に浅草三谷町出口の茶屋」で待ち合わせる旨を伝えた。この時、玄白より10歳年長の前野良沢にも使いを送っている。町奉行所から玄白に観臓の許可が出たのは、事前に申し入れが行われていたからと考えるべきであろう。玄白が何時の時点で嘆願したかは分らないが、宝暦4年(1754)閏2月7日の山脇東洋による京都での解剖以降のことであることは間違いない。既に17年余の年月が過ぎ、山脇東洋も没し東門の代になっていた。
どのように観臓が行われたかを記す前に、玄白の「蘭学事始」に従って参加した杉田玄白、前野良沢そして中川淳庵の3名について見て行く。
杉田玄白は享保18年(1733)生まれの蘭学医。若狭国小浜藩医・杉田玄甫の子として江戸牛込の小浜藩下屋敷に生まれている。玄白は家業の医学を学び、宝暦2年(1752)に小浜藩医となる。宝暦7年(1757)、江戸日本橋で開業し町医者となる。この頃よりの田村元雄、平賀源内そして中川淳庵などの蘭学者との交友が始まる。宝暦4年(1754)、京都で山脇東洋が観臓を行ったのも東洋の弟子が小浜藩医であったという縁があってのことである。後に玄白は「蘭学事始」で下記のように記している。
かねて同僚小杉玄適といふもの、その以前京師の山脇東洋先生の門に遊び、かの地に在りし時、先生の企にて観臓のことありしに、この男、随ひ行きて親しく視たるに、古人説くところ皆空言にて信じ難きことのみなり。(蘭学事始 岩波クラシックス28(岩波書店 1983年刊))
玄白が五臓六腑説への疑問を抱き始めたのは、この小杉玄適から東洋の観臓の話を聞いてからのことからかもしれない。いづれにしても玄白は東洋の情報を小浜藩医仲間から得ていたのであろう。そして明和2年(1765)には藩の奥医師となる。オランダ商館長、オランダ通詞等の江戸参府が行われた際、玄白は一行の滞在する長崎屋を訪問している。通詞の西善三郎からオランダ語学習の困難さを諭され、玄白はオランダ語習得を断念している。明和6年(1769)、父玄甫の死去に伴い家督と侍医を継ぎ、新大橋の中屋敷へ詰めるようになる。
観臓の行われる明和8年(1771)中川淳庵がオランダ商館から借りたオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア Anatomische Tabellen」を携え、玄白を訪れる。上記のように蘭語習得を諦めたため本文を読めなかったものの解剖図に精密さに驚き、小浜藩家老に購入を依頼している。
前野良沢は享保8年(1723)福岡藩江戸詰藩士の源新介の子として江戸に生まれたと考えられている。つまり良沢は玄白より10歳年長であった。幼少期に両親を失い、母方の大叔父で淀藩の医者宮田全沢に養われる。寛延元年(1748)全沢の妻の実家である中津藩の医師前野家の養子となり中津藩医となる。はっきりはしないが、寛保2年(1743)頃オランダ書物に触れ蘭学を志したとされている。そして明和3年(1766)晩年の青木昆陽に師事した後、明和6年(1769)8月頃、藩主の参勤交代について中津に下向、そして長崎へと公費の留学をしている。この留学中に良沢は「ターヘル・アナトミア」を手に入れている。そして翌7年(1770)3月22日中津を発ち、5月9日には江戸に帰り着いている。
玄白の抱いた良沢の印象については、「蘭学事始」に「天然の奇士」あるいは「奇を好む性なりし」とある。「前沢良沢 生涯一日のごとく」(思文閣出版 2015年刊)の著者・鳥井裕美子氏によれば、「自信家で執念深い完璧主義者」であったようだ。ちなみに鳥井氏の玄白像は、実務派で企画力や判断力に優れた人物である。良沢と玄白は、かなり両極端に位置する人間であったようだ。玄白の事蹟に就いては「蘭学事始」に始まる彼の著作によってある程度判明している。しかし良沢に就いては不明な点が多くあるのは、日記も残っておらず個人的な史料も乏しいためである。玄白が生涯医業に専念したのに対して、良沢は本来の家業である医業とは距離をとっていたようにも見える。彼が遺した著訳書30余の内、三分の一はオランダ語ないし言語関係、他はロシア史・地理・天文・物理・築城と実に多岐に亘っている。つまり医学書は「解体新書」を除くと薬の処方に関して述べた一編に過ぎない。さらに生涯を通じて一編の著訳書を出版することも無かった。このことが無欲、名利を求めない、あるいは完璧主義という評価になっていったのであろう。
中川淳庵は祖父の代から小浜藩の蘭方医を務める家に元文4年(1739)に生まれる。玄白が享保18年(1733)生まれなので、6歳年下になる。山形藩医の安富寄碩にオランダ語を学び、本草学を田村藍水に学ぶ。本草学とは、中国及び東アジアで発達した医薬に関する学問。我が国に於いて著名な本草学者としては、貝原益軒、野呂元丈、田村藍水そして平賀源内、小野蘭山などを挙げることができる。
明和元年(1764)平賀源内と共に火浣布を造る。火浣布とは石綿、すなわち天然の繊維性鉱石であり、現在アスベストと呼ばれるものである。淳庵はオランダ物産についても興味を持ち、オランダ商館長が逗留した長崎屋にもしばしば訪問している。
「解体新書」の翻訳作業に参加した淳庵は、その後もオランダ語の学習を続け、安永5年(1776)には、スウェーデンの植物学者で博物学者そして医学者でもあったツンベリー(Carl Peter Thunberg)と植物学などの会話を行うようになっている。安永7年(1778)には若狭藩御典医となる。
良沢と玄白との関係は、既に明和3年(1766)春の長崎屋訪問の頃には始まっている。長崎屋とはオランダ商館長、オランダ通詞等の江戸参府の際の宿である。玄白が通詞の西善三郎と面会し、オランダ語習得には困難が多くあることを聞かされたのもこの時である。この頃から良沢と玄白は面識を持っていた。
玄白の「蘭学事始」(「岩波クラシックス28 蘭学事始)(岩波書店 1983年刊))によれば、腑分けは下記のように始められた。
さて、腑分のことは、えたの虎松といへるもの、このことに巧者のよしにて、かねて約し置きしよし。この日もその者に刀を下さすべしと定めたるに、その日、その者俄かに病気のよしにて、その祖父なりといふ老屠、齢九十歳なりといへる者、代りとして出でたり、健かなる老者なりき。彼奴は、若きより腑分は度々手にかけ、数人を解きたりと語りぬ。
前日の3月3日に町奉行の曲渕甲斐守の家士・得能万兵衛という人物より「明日手医師何某といへる者、千住骨ヶ原にて腑分いたせるよしなり。御望みならばかのかたへ罷り越されよかし」という手紙玄白の手元に届いたが、手医師何某というのが上記の虎松であったのであろう。しかしこの巧者である虎松が急病となってしまったので、やむなく祖父の老屠が代理を務めることとなった。虎松もその祖父の老屠も、小塚原刑場の刑吏であり穢多と呼ばれる人々で、既に南千住 小塚原 その2から、その3で書いている弾左衛門の支配下にあった非人である。「杉田玄白と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2008年刊)は、「「蘭学事始」の中の「老屠」について」という解説を加えている。ここでも指摘されている通り、虎松が巧者であったということは過去に腑分けを何回か経験していることであり、その祖父の老屠は「若きより腑分は度々手にかけ、数人を解きたり」という実績を持っている。つまり江戸に於ける腑分けは、この明和8年(1771)3月3日が最初ではなく、既に何度も行われてきた訳である。恐らく、宝暦4年(1754)閏2月7日の山脇東洋による解剖より以前から刑場での腑分けは行われていたと推測される。それでも東洋や玄白や良沢等の観臓が記念として顕彰されることは、腑分けに立ち会ったことではなく、その経験から何を生み出したかによっている。「蘭学事始」には下記のような記述が見られる。
その日より前迄の腑分といへるは、えたに任せ、彼が某所をさして肺なりと教へ、これは肝なり、腎なりと切り分け示せりとなり。それを行き視し人々看過して帰り、われわれは直に内景を見究めしなどいひしまでのことにてありしとなり。
また老屠は、腑分けに立ち会った医者達に「品々をさし示したれども、誰一人某は何、此れは何々なりと疑はれ候御方もなかりし」とも述懐している。玄白も「みな千古の説と違ひしゆゑ、毎度毎度疑惑して不審開けず」と記しているように、五臓六腑説では説明のつかない目の前に現れた状況に対して、何も行動を起こさなかった者と、「蔵志」として纏めた山脇東洋や「解体新書」の翻訳を志した杉田玄白や前野良沢等とは、同じ腑分けでも明らかに分別しなければならない。
上記の「杉田玄白と小塚原の仕置場」は、玄白が「蘭学事始」で老屠のエピソードを記したのには、従来の医者達の知識が非人である老屠の知り得ていた事にも及んでいないということを強調する目的があったと指摘している。確かに分りやすい比較ではある。そして当時としては当たり前であった非人に対する差別意識が根底にあったことも同意できる。ただし老屠という記述に老いに対する差別意識が玄白にあるという指摘は、如何なものだろうか?玄白は「蘭学事始」に於いて自らが老人であるという認識の上で翁と称している。また文化13年(1816)には「耄耋独語」(「日本の名著 22 杉田玄白 平賀源内 司馬江漢」(中央公論社 1971年刊))なる一文を認めている。「老境のみじめさを知らない人びとのためにと思って、この身に経験したことどもを、今八十にあまる老いの手で、書きとどめてみたしだいである。」と執筆の目的も綴っている。玄白は老いが人間に何を齎すかを、冷徹な医者の眼を通じて注意深く観察している。拠ってほぼ同じ時期に回想した「蘭学事始」で、明らかな老人に対する差別意識を以って老屠と記したのではなく、経験とその上で得た知識を持った者として用いたと考える。
「南千住 回向院 その2」 の地図
南千住 回向院 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
回向院 | 35.7322 | 139.7978 | |
01 | 泪橋 | 35.729 | 139.7994 |
02 | 延命寺 | 35.7316 | 139.7978 |
03 | 円通寺 | 35.734 | 139.7928 |
04 | 素戔雄神社 | 35.7371 | 139.796 |
05 | 荒川ふるさと文化館 | 35.7375 | 139.7954 |
06 | 千住大橋 | 35.7393 | 139.7973 |
07 | 千住宿 | 35.7505 | 139.8028 |
08 | 奥の細道矢立初めの地 荒川区 | 35.7331 | 139.7985 |
09 | 奥の細道矢立初めの地 足立区 | 35.7412 | 139.7985 |
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