嵯峨野の町並み その8
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その8 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
嵯峨野の町並み その6では、平安時代初期の嵯峨野の開発と嵯峨院などの建立の経過について、そして葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡の4郡の条里プランについて考えてきた。さらに、嵯峨野の町並み その7では、「延喜式」より平安京の条坊地割を導き出し、上記4郡の条里プランの上に乗せてみた。また嵯峨野の6ヶ里の地割だけが西側に16度傾いていることを示し、その理由と変更時期について考えた。 この項では鎌倉時代初期から室町時代初期にかけての嵯峨野における条里プランと景観の変遷について見て行くこととする。
「平安京-京都 都市図と都市構造」(京都大学学術出版会 2007年刊)の第7章「中世都市嵯峨の変遷」の執筆を担当した山田邦和氏は、鎌倉初期の建永2年(1207)に描かれた「舎那院御領絵図」、元徳元年(1329)頃の「山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図」、貞和3年(1347)の「大井郷界畔絵図」、そして応永33年(1426)に臨川寺住持月渓中珊が第4代将軍足利義持の命を請けて作成した「応永鈞命絵図」など使い、嵯峨院・檀林寺から天龍寺までの嵯峨野の景観の変遷を顕わしている。嵯峨野は後嵯峨上皇、亀山上皇の院政の地となっただけではなく、その後も後醍醐天皇を祀るために建立された天龍寺を中心とした宗教都市として栄えた。そのため京都の中心を除くと他に例のないほど史料や絵図・地図に恵まれている。
「舎那院御領絵図」は嵯峨上皇の嵯峨院から後嵯峨上皇が亀山殿を造営するまでの間の下嵯峨、つまり現在の天龍寺が建つあたりを描いた絵図である。しかし中世のある時期に舎那院が廃絶したため、舎那院の位置を正確に比定することは困難とされている。金田章裕氏は葛野郡班田図を参照し、条里プランのE里(櫟原西里)の北西隅付近に相当し、葛野郡班田図の時代、すなわち天長5年(828)の頃には山とされていた場所がその地であると考えている。さらに下坂守氏は舎那院の領域は現在の常寂光寺の境内に該当するとし、その所在地をさらに絞り込んでいる。これに対して山田氏は舎那院の西北に描かれた大規模な瓦葺の堂宇を二尊院とし、舎那院の故地を現在の常寂光寺より東南300mあたりと推定している。さらに舎那院の北限を東西に通じる大道を檀林寺路としている。檀林寺は平安時代後期に衰退したため嵯峨野の東西幹線道路に変じ、舎那院自体も檀林寺の造営とその周辺の開発の際に建立されたものとも考えている。 「舎那院御領絵図」に描かれている道は、朱雀大路から西に入り、野宮神社で一度北に折れ,さらに西に進んでいるようにも見える。つまり朱雀大路から西に入る部分は現在の竹林に入る道、北に折れている部分が野宮大路、北側の東西路が現在の丸太町通に接続した道となったものと思っていた。しかし山田氏が作成した「鎌倉時代初期嵯峨(舎那院付近)復元図」を確認すると、朱雀大路から西に進む道は現在の丸太町通の延長線上にある道で、ここから北に折れ再び西に曲がることが分かった。
8世紀中頃に定められた条里プランは、後嵯峨上皇が亀山殿を造営する際も遵守されていた。「亀山殿近辺指図」は、この時期の嵯峨野の景観の変化を表わした絵図である。亀山殿の域内には複数の院御所、上皇の妃たちのための御所、女房たちの宿所などが置かれるとともに、浄金剛院、如来寿量院、薬草院、大多勝院、多宝院という御堂が建立されている。亀山殿は大堰川に面しているが、これは対岸の嵐山の風景を望むために、この場所に決められたと考えてよいだろう。「徒然草」の第51段にある有名な水車の話にも出てくるように、川に面して造られた桟敷のために、大堰川から水車を用いて水を引き込んでいる。後嵯峨法皇は文永9年(1272)に亀山殿で崩御した。法皇の遺体は薬草院で火葬され、浄金剛院に新造された法華堂に安置された。子の亀山法皇の遺体も亀山において火葬され、浄金剛院法華堂に納められた。
亀山殿は朱雀大路に平行に作られた惣門前路の西側に位置していた。「中世の都市と寺院」(高志書院 2005年刊)に収蔵されている山田邦和氏の論文「院政王権都市嵯峨の成立と展開」には、「亀山殿近辺指図」を地図上に落とし込んだ「院政王権都市嵯峨復元図」が掲載されている。亀山殿の北には西から薬草院跡、寿量院殿跡、北殿御所跡が並び、さらにその北に法華堂、浄金剛院僧坊、浄金剛院、その北に六僧坊、大湯屋敷、浄金剛院敷地(在家在之)が建てられていた。惣門前路は浄金剛院の北東角で西に折れ大湯屋敷へと至るが、その途中で北側に分かれる道があり、野宮大路と記されている。この野宮大路は現在の竹林の中にある道で野宮神社からJR山陰本線の踏切を超えて北に進む道である。
惣門前路の南端には法輪寺橋が架けられ、法輪寺から松尾大社へと続いていた。現在の渡月橋は朱雀大路の南端にあるが、当時の法輪寺橋は大堰川のやや上流側にあったことが絵図から確認できる。惣門前路と朱雀大路の間には、5本の東西路があった。一番北の小路は野宮大路につながる。北から4本目の小路は芹川殿小路という名称が残されているのは、この小路の南側には芹河殿があったからである。「亀山殿近辺指図」が作成されたと考えられている元徳元年(1329)頃には既に芹川殿跡となり、東側は冷泉宰相などの所有地となっている。朱雀大路を挟んで芹川殿の東側には河端殿御所が築かれていた。小倉山の北側山地に源を発し、上嵯峨より流れてきた当時の瀬戸川は河端殿の北を通り、芹河殿の中を経て大堰川に注いでいた。かつては芹川と呼ばれ歌枕となっている。後撰集和歌集には、在原行平の歌として
嵯峨の山 みゆき絶えにし 芹川の
千代のふる道 跡はありけり
が収められている。また光孝天皇の下記の有名な歌も芹川の流れに沿った芹川野で詠ったものとされている。
君がため 春の野に出でて 若菜摘む
我が衣手に 雪は降りつつ
芹川の流域では芹が自生していたとされていることから、若菜とは春の七草のひとつであるセリかもしれない。光孝天皇は嵯峨殿を築いた嵯峨天皇の孫にあたる。光孝天皇も、嵯峨天皇や任明天皇に続き芹川行幸を度々行なったようだ。
芹川の流路は後の時代に改められ、現在は臨川寺の東側を流れる。「亀山殿近辺指図」によると、芹河殿・河端殿の周辺には○○宿所あるいは○○領と記された箇所が多くみられる。惣門前路と朱雀大路との間は、上皇の院政を支えた院近臣、女房そして僧侶などが居住する地域であったのに対して、朱雀大路より東側は院から下賜された屋敷地や武家領そして土倉などが混在する地域となっている。西側の亀山殿から計画的な階層化させた都市構成を作り上げている。
惣門前路、朱雀大路そして野宮大路以外にも、朱雀大路に直行し東に向かう造路が亀山殿造営の際に敷設されたと考えられている。山田氏の復元図でも東側がどこまで続いていたかを明らかにしてはいない。現在、三条通が洛中を出て広隆寺の前を経て大堰川河畔で嵯峨に達する。恐らくこの道が鎌倉時代にも幹線道路であり、造路はそのバイパス的な役割を担っていたとも考えられる。 また「亀山殿近辺指図」には描かれていないが造路から北に薄馬場という大路に近い幹線道路が「大井郷界畔絵図」に描かれていることより、貞和3年(1347)頃には既に造られていたと考えられている。「亀山殿近辺指図」と「大井郷界畔絵図」の作成時期には20年弱の隔たりしかないが、建武2年(1335)に後醍醐天皇が臨川寺を創建し、歴応2年(1339)には足利尊氏が天龍寺を建立するという嵯峨にとって大きな変化が現われた時期でもある。山田氏は「応永鈞命絵図」より天龍寺創建以後に整備された道路が条里プランに縛られずに地形に沿って敷設された事例を上げ、薄馬場の敷設を亀山殿末期から臨川寺創建の頃、あるいは亀山殿盛期に既に計画されていた大路と推定している。
以上のような大きな変化が現われた下嵯峨に対して上嵯峨ではそれほど目立った変化はなかったようだ。嵯峨上皇の嵯峨院が上皇崩御してから30余年後の貞観18年(876)に皇女正子内親王によって大覚寺に改められている。嵯峨天皇の皇子左大臣源融の別荘栖霞観も融の一周忌に当たる寛平8年(896)に子息が、阿弥陀三尊像を造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号している。天慶8年(945)に重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置したことが、釈迦堂の名の起こりとも言われている。また奝然が清凉寺建立を果たせずに入寂したのが長和5年(1016)であった。奝然の弟子によって棲霞寺の境内に五台山清凉寺を建立したのも平安後期のことである。 上嵯峨には鎌倉時代に入りいくつかの貴族の邸宅が造営されている。最も有名なものは藤原定家の小倉山荘であろう。定家の山荘の東隣には鎌倉御家人であった宇都宮入道藤原頼綱の中院山荘があり、お互いに親しい付き合いを続けていた。定家が没し鎌倉時代後期になると、小倉山荘跡は二条道平の別業となり、道平は延慶2年(1309)に定家の遠忌供養を行っている。また北畠親房も嘉暦元年(1326)には嵯峨第を所有していたことが分かっている。二条道平と北畠親房は後醍醐天皇派の人々でもある。
「嵯峨野の町並み その8」 の地図
嵯峨野の町並み その8 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ A:天龍寺総門 | 35.0159 | 135.6771 | |
▼ B:浄金剛院の東北角 | 35.0174 | 135.6753 | |
▼ I:かつての渡月橋の北詰 | 35.0134 | 135.6764 | |
▼ A:天龍寺総門 | 35.0162 | 135.6791 | |
▼ A:天龍寺総門 | 35.0162 | 135.6791 | |
▼ B:浄金剛院の東北角 | 35.0159 | 135.6758 | |
▼ B:浄金剛院の東北角 | 35.0159 | 135.6758 | |
▼ I:かつての渡月橋の北詰 | 35.0139 | 135.6764 | |
かつての渡月橋の南詰 | 35.0125 | 135.6766 | |
朱雀大路の南端 | 35.0166 | 135.6768 | |
亀山殿 右上 | 35.0149 | 135.6761 | |
亀山殿 右中 | 35.0139 | 135.6763 | |
亀山殿 右下 | 35.0134 | 135.6746 | |
亀山殿 左下 | 35.0141 | 135.6728 | |
亀山殿 左上 | 35.0151 | 135.6744 | |
北殿御所 右上 | 35.0159 | 135.6758 | |
北殿御所 右下 | 35.0152 | 135.6743 | |
北殿御所 左下 | 35.0154 | 135.6726 | |
北殿御所 左上 | 35.0161 | 135.674 | |
浄金剛院 右上 | 35.0169 | 135.6754 | |
浄金剛院 右下 | 35.0163 | 135.6749 | |
浄金剛院 左下 | 35.0166 | 135.674 | |
浄金剛院 左上 | 35.0172 | 135.6746 | |
芹河殿 右上 | 35.0138 | 135.6765 | |
芹河殿 右下 | 35.0135 | 135.6768 | |
芹河殿 左下 | 35.0139 | 135.6771 | |
芹河殿 左上 | 35.0141 | 135.6767 | |
河端殿 左上 | 35.0143 | 135.6786 | |
河端殿 左下 | 35.0138 | 135.6797 | |
河端殿 右下 | 35.0145 | 135.6804 | |
河端殿 右上 | 35.0151 | 135.6793 | |
01 | 亀山殿 | 35.0146 | 135.6744 |
02 | 北殿御所 | 35.0157 | 135.6748 |
03 | ▼ C:野宮大路の始まり | 35.0172 | 135.6745 |
03 | 如来寿量院 | 35.0158 | 135.6737 |
04 | D:毘沙門天 | 35.0195 | 135.6758 |
04 | 薬草院 | 35.0158 | 135.6733 |
05 | E:野宮大路と現在の丸太町通の交差点 | 35.0191 | 135.6738 |
05 | 浄金剛院 | 35.0169 | 135.6748 |
06 | F:造路上の地点 | 35.0161 | 135.6782 |
06 | 芹河殿 | 35.0139 | 135.677 |
07 | G:亀山殿惣門 | 35.0145 | 135.6763 |
07 | 河端殿 | 35.0144 | 135.6791 |
08 | H:現在の小督塚 | 35.0137 | 135.6764 |
10 | J:芹川の河口(「山科国臨川寺領大井郷界畔絵図」) | 35.0136 | 135.6806 |
11 | ▼ K:龍門橋 | 35.0164 | 135.68 |
12 | L:天下龍門 | 35.0166 | 135.681 |
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