平等院
平等院(びょうどういん) 2008/05/11訪問
宇治上神社を後にして、さわらびの道を下っていくと川岸の道に出る。放生院の前を過ぎ、さらに進むと宇治橋の東詰めに至る。再度宇治橋に渡り、今度はあがた通ではなく、平等院表参道に入っていく。朝も9時を過ぎたので、両側の商店も店を開き始めている。そのまま商店街を直進すると突き当たりがやや広くなり右側に平等院と書かれた石碑が建っている。
平安京が築かれた後、宇治には天皇の離宮や貴族の別業が多く造られてきた。これは宇治が嵯峨・白河・鳥羽などと並んで風光明媚な景勝地であったからである。現在の平等院の地も左大臣源融が営んだ別業が、融の死後、宇多天皇に渡り、さらに天皇の孫の源重信を経て、長徳4年(998)に摂政藤原道長の宇治殿となったものである。
万寿4年(1027)道長が没すると宇治院は、道長の子である関白藤原頼通に引き継がれる。頼通は若くして後一条天皇の摂政を父道長から譲られ、後朱雀・後冷泉と二代の天皇の関白を50年に渡って務め、道長とともに藤原氏全盛時代を担ってきた。しかし永承6年(1051)に奥州で前九年の役が勃発し、武士の台頭が著しいものとなり、地方の世情は不安定なものとなっていった。
また都においても入内した娘達に皇子が生まれなく、外戚関係のない尊仁親王が東宮になるような政治状況に追い込まれていた。藤原氏の権勢は表面的には保たれていたが、衰退の兆しが見え始めた時期である。
永承7年(1052)頼通は宇治殿を寺院に改め、「平等院」と名付けた。開山は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。この年は当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たる。釈尊の入滅から2000年経つと仏法がすたれ、天災人災が続き世の中は乱れるとされていた。これ以降 貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀る仏堂を盛んに造営した。それにもかかわらず、平安時代の貴族の建立した寺院は平等院を除き現存していない。
現在、平等院は朝日山平等院と称し、特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。平等院のHPによると浄土宗の浄土院と天台宗系の最勝院によって管理されている。
石畳の先の赤い表門をくぐると正面に観音堂と藤棚があるが、道は右に曲がり阿字池につながる。そのまま進むと鳳凰堂の北面が目の前に現れる。表門のあたりは閑散としていたが、池の周りには修学旅行生が既に溢れ始めていた。そのまま時計回りに鳳凰堂を鑑賞していく。
池に面して松の木が植えられているため、所々で視界が開け鳳凰堂が見えるが、角度によって色々な表情を見せ、面白い。堂の東正面は広く開かれ、多くの拝観者が鳳凰堂と正対できるようになっている。鳳凰堂は想像していたより大きく、おそらく記念撮影していた人々も左右の翼廊までを一枚の写真の中に収めることができなかったであろう。
鳳凰堂は中央の本尊阿弥陀如来像を安置する中堂と左右の翼廊、そして中堂背後の尾廊の4つの部分から構成されている。阿字池の島の中に鳳凰堂は建てられているため、厳島神社のように水面から立ち上がる柱はない。
北側からは平橋と反橋で島につながり、島の池面に接する部分から基壇の間は玉石を敷いた洲浜となっている。このあたりは1990年から始まった発掘調査の結果から復元したものであるようだ。京都北山アーカイブスに納められている明治14年の古写真や大正期の古写真(http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo1/fs50on/e15021.html : リンク先が無くなりました )には現在と違った風景の鳳凰堂が残っている。島内に松の木が植わり苔地の庭園となっているように見える。
中堂は入母屋造 裳階付きで、東側を正面としている。池あるいは宇治川の対岸(此岸)から、西方(彼岸)の阿弥陀如来を拝するような構成となっている。一般的に寝殿造は南面するので、寝殿造の影響は色濃く現れているが、これを寝殿造ということはできないのだろう。
中堂の東側正面の扉を開けると本尊の頭部の高さに円窓が設けられているため、建物の外からも阿弥陀如来の拝める仕組みになっている。また屋根には一対の金銅製の鳳凰像が据えられている。現在屋根にあるのは複製で、本物は鳳翔館に保管されている。
左右の翼廊の歩廊部分は、柱によって地面から3~4メートル位の位置に造られている。この2階レベルの歩廊は中堂へはつながれていない。また外部からはこの歩廊に登る階段も見当たらない。平等院のHPでも 「左右の回廊は装飾のためで歩けません。」とある。同じく翼廊の楼閣部分にも登ることができないと思われる。
同様のことは中堂にも見られる。裳の上部の高欄から歩廊が廻らされていることが分かるが、この歩廊への出口を見つけることができない。確かにこの高欄がないと建物としては細部が無くなり、間が抜け印象を与えるだろう。
ところで中堂の屋根は正面から見るとそれほど気にはならなかったが、斜めから見るとやや大きすぎるように思える。恐らく左右の翼廊が無く、単独の建築として見るとかなりオーバースケールに感じるのではないだろうか。
機能を持たない翼廊は建物のシルエットとして付加され、実際には人が歩くことのできない回廊に巡らされた高欄とともに、左右に伸びる水平線を強調する役割を果たしている。また回廊は背後の風景を透かしてみせるスクリーンとして、下部のピロティ部分とあわせて鳳凰堂全体の重力感を打ち消す効果を持っている。
これらの表現は、人が地上で生活するために作られたものではなく、仏が西方浄土で住まうために造られた建物と考えれば全て受け入れられるのではないだろうか。だからこそ東側正面から建物と正対したときに最も美しく見えるように意図して造られたのではないかと思われる。
順路に従って池を廻ると平等院の宝物品を修復・収蔵している平等院ミュージアム鳳翔館への入口に行き当たる。わずか2メートル程度の幅の通路によって庭園から拝観者を引き込むが、エントランスの先には17メートルの高さから自然光が降り注ぐ廊下が現れ、これから訪れる施設の規模を拝観者に理解させている。美術館内部は梵鐘1口、木造雲中供養菩薩像26躯、鳳凰1対、そして鳳凰堂中堂扉画8幅という国宝だけではなく、多くの寺宝や修復に伴う資料などが分かりやすく展示されている。
鳳翔館は二層構造で傾斜地を利用してほぼ大部分を土中に埋め込まれている。そのため鳳凰堂と庭園側からは存在感を全く消し去っている。上層部のロビーとミュージアムショップを出て、再び庭園に戻る時に振り返ると初めて建物らしい外観が現れる。このような歴史的環境の中に建つ建築の有り方を考えて設計された鳳翔館は栗生明氏の代表作の一つとなっている。
鳳凰堂の背面に当る東側には浄土院と最勝院の二つの塔頭がある。
浄土院は、室町時代の明応年間(1492~1500)に栄久上人が、平等院修復のために開創した浄土宗の寺と伝えられている。
最勝院は天台宗寺門派聖護院末で、承応3年(1654)京都東洞院六角勝仙院の僧が平等院に移り、最勝院と呼んだことに始まる。
このようにして阿字池と鳳凰堂の周囲を一周すると再び表門につながる道に戻る。ここまで駆け足でほぼ30分、鳳凰堂の北側にある受付で9時30分から始まる鳳凰堂内の拝観を申し出ると、既に9時10分より受付が開始され、1回の入場人数が50名となっているため入堂できるのは40分後になることが分かった。平等院の入場したときに堂内拝観のチケット購入しておくべきだった。
待ち時間を利用して扇の芝と観音堂を見に行く。
摂津源氏の流れをくむ源頼政は、保元の乱、平治の乱で勝者の側に属してきた。平清盛からの信頼も篤く、戦後の平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まり、平氏以外の武士として破格の従三位まで昇り詰めた。しかし平氏の専横に不満を募らせ、後白河天皇の第三皇子 以仁王と図り、平家打倒の挙兵を計画した。既に治承元年(1177)には平家打倒の謀議 鹿ケ谷事件が発生している。同4年(1180)2月には、高倉天皇が譲位し、中宮徳子の産んだ言仁親王が即位し安徳天皇となり、まさに平氏の世となっていた。そして4月 以仁王は、平家追討の令旨を全国の源氏と大寺社に発した。
挙兵の準備が整わないうちに、謀議は平氏の知るところとなり、以仁王と源頼政は1000騎を率いて興福寺へ向かった。これを追う平知盛、重衡を大将とする2万8000騎の平家軍は追いつき、5月26日に宇治川を挟んで両軍が対峙することとなる。平家物語の橋合戦にこの場面が記している。川を挟んでの矢戦の後、平家軍は騎馬で宇治川を渡リ、源頼政の守る西岸に攻め込んだ。頼政は宇治橋を捨て平等院まで退き、以仁王が落延びる時間を稼いだ。頼政方の多くの将も討ち取られ、傷を負った頼政は
「埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりけり」
の辞世の句を残し自害した。平等院から脱出できた以仁王も、同日中に南山城の加幡河原で討たれてしまう。
以仁王と源頼政の企ては潰えたが、以仁王の令旨を奉じて源頼朝、源義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱を経て平氏は滅びることになる。なお頼政の墓は平等院内の最勝院にある。
さて扇の芝とは、頼政が自刃するため、扇を敷いた跡といわれている。杭で囲まれた三角形の部分を指すとしたら少し大きすぎる。感覚的には中央の石碑くらいの大きさだと思うが。
それにしてもなかなか芝が付かないのか、妙に青々とした芝が植えられている。
扇の芝の隣には、鎌倉時代前期に創建当時の本堂跡に再建された観音堂がある。
再び、鳳凰堂内拝観のため阿字池の北側の橋のあたり戻ると、既に入堂を待つ人の行列ができていた。
拝観者は平橋と反橋を渡り北側の翼廊のピロティ部分に出る。特に柱脚部分の朱の剥落が目立つ。ここで靴を脱ぎ中堂の基壇に上がり正面の扉より入堂する。
薄暗い堂内の金色の阿弥陀如来坐像は非常に大きく見えるとともになんとも言えない神々しさを強く感じる。阿弥陀如来坐像は仏師定朝の確証のある唯一の作品として、天喜元年(1053)に造られた。寄木造技法の完成者として知られる定朝は、円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とし、日本独自の様式、いわゆる和様を完成させた。そのような様式が平安時代の貴族にもてはやされ、以後の仏像彫刻に続く定朝様という一つのスタイルを確立した。
暗さに目が慣れるにつれ、天井の装飾や天蓋、そして阿弥陀如来の光背の細部が見えてくる。ある程度修復された現在でもこれだけの多彩な色彩を感じられるのだから、建立時はまばゆいほどの光景だったと思われる。堂内の壁面には雲中供養菩薩像が架けられている。木彫の欄間と異なり、漆喰の上に架けられたことで、雲の中を漂う菩薩の姿が表現されている。中堂の扉と壁に描かれた壁扉画は剥落が激しくどのような構図か分からなくなったものもあった。
ということで20分間の拝観はあっという間に終わってしまった。鳳凰堂内拝観は、たとえ1時間待たされたとしても見る価値のあるものだった。
平等院は、1994年に「古都京都の文化財」として、宇治市からは宇治上神社とともに世界遺産に登録されている。しかし都市景観の悪化は進み、西方浄土の先にマンションの頭が見えるようになってきている(http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/kikaku/002/6.htm : リンク先が無くなりました )。 ある程度の法的規制をかけないと、地上に浄土を実現するという本来の平等院のコンセプトは、鳳翔館のような見事な解決方法を生み出したにもかかわらず、この10年以内に完全に崩壊してしまうのではないかと考える。
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