勧修寺
真言宗山階派大本山 勧修寺(かじゅうじ) 2008/05/11訪問
京都市営地下鉄東西線の石田駅から東西線にのり2つ先の小野で降り、真西に向かい川を越え5分歩くと醍醐道の先に勧修寺の白い塀が現れる。
勧修寺は真言宗山階派大本山で、山号を亀甲山と称する。寺名は「かんしゅうじ」「かんじゅじ」などとも読まれるが、寺では「かじゅうじ」と呼んでいる。ただし地名の「勧修寺」の読み方は「かんしゅうじ」である。
昌泰3年(900)若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、醍醐天皇は母の兄弟である右大臣藤原定方に命じて寺を建立させた。定方は母方の祖父にあたる宮道弥益の邸宅跡を寺に改め、父藤原高藤の諡号をとって勧修寺と号したのが始まりである。開山は東大寺の承俊律師。
南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子 寛胤法親王が15世長吏となって以来、幕末まで法親王あるいは入道親王が入寺する宮門跡寺院として栄えた。
応仁の乱においては文明2年(1470)に兵火で焼失し、豊臣秀吉が伏見街道(大津街道)を造るに際し境内地を削られるなどして次第に衰退する。これは勧修寺の南側を通る京都府道35号線を指すようである。都名所図会 巻之五 前朱雀再刻の大亀谷には
「大亀谷は藤の森より勧修寺を経て山科追分に出る街道なり。」
とあり、都名所図会の7年後に都名所図会の後編として刊行された拾遺都名所図会 巻之四 前朱雀には
「伏見より大亀谷を経て大津へいづる道は、秀吉公伏見御在城の時より開初し也。」
と大津街道が造られた経緯が述べられている。
航空写真を見ると勧修寺の森が南大日の丘から延びていることが良く分かる。
勧修寺が再興されたのは天和2年(1682)、霊元天皇皇子 済深法親王が29世長吏として入寺してからであった。東大寺大仏殿再建を行ったことにより寺領が1012石に加増され経済的な安定が得られるようになった。また現存する本堂が寛文12年(1672)に、書院が貞享3年(1686年)に、そして宸殿が元禄10年(1697年)に、霊元天皇、明正天皇などの旧殿を下賜された。次いで30世となった尊孝法親王は伏見宮出身であり、叔母にあたる真宮理子が紀州藩出身の将軍・徳川吉宗の正室であった縁で、紀伊国の約100か寺が勧修寺の末寺となった。現在は真言宗から独立しているが、紀三井寺護国院も勧修寺の末寺であった。
山門へ至る参道の両側には白い築地壁が場額続き、門跡寺院の格式の高さと一般の寺院にはない華やかさが現れている。境内の構成は大きく北側の建物群と南側の庭園に分かれる。山門を入ると正面に玄関、左手に中門がある。中門をくぐると右手に東面する宸殿と美しく芝を敷き詰めた前庭、正面には氷室の池がが現れる。そのまま庭には出ず、宸殿の南面を伝わって進むと、書院と書院前の庭につながる。
ハイビヤクシンの中に石灯籠が置かれている。丸い局面の大きな笠を持ちユーモラスな形をしている。この形の灯籠は勧修寺型灯籠と呼ばれており、水戸光圀公寄進のものと伝えられている。書院より少しはなれた西側に本堂があり、本尊千手観音立像が安置されている。
庭は氷室の池を中心にして作られている。平安時代には1月2日にここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって五穀豊穣を占ったと言われている。池の西には中国風の反りを持った楼閣風の観音堂が建つが、これは昭和初期に建立されたものであるが、勧修寺庭園の写真には勧修寺型灯籠とともに必ず現れることから、すでにこの風景の一部分となっているようだ。
拾遺都名所図会には江戸時代のこの庭の姿が残っている。 すでに前述の通り大津街道の開鑿後のため、観音堂を除くとほぼ現在と同じような光景に見える。池の対岸には忘帰亭という名の茶室あるいは庵があったこと、氷室池十五勝と庭の見所を定めて楽しんでいたことが分かる。
現在は少し自然に任せすぎているのか、庭の構成や石組みがあまり見えなかった。季節を改めてもう一度訪れたい。
庭にはサギが飛来し、それを撮影しようとしている人を何人も見かけました。郊外とはいえこのような場所で野鳥の撮影ができる京都はすごいと東京人は感心しました。
回遊式庭園は必ず池の周りを廻るべきだと考え実行してきたが、ここでは「この先行かれるのはご自由ですが入大いに危険」という看板を見かけた。kazuさんブログには写真入りで紹介されています。
もちろん蛇も出てきませんでした。
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