吉田神社
吉田神社(よしだじんじゃ) 2008年05月17日訪問
緑寿庵清水のある鞠小路通をそのまま南に下ると、東一条通との交差点で東一条通に入り東へ進む。京都大学の本部構内と吉田南構内の間を進むと、正面に吉田神社の赤い鳥居が現れる。ここより長い参道が始まる。
砂利が敷かれた参道を東に歩いていくと二の鳥居と共に石段が現れる。ここから吉田山の中に入っていくこととなる。この鳥居の左脇には末社の祖霊社と今宮社が並ぶ。
祖霊社は吉田神社太元講社員、すなわち吉田一族の祖霊を祭神として祀り、創設は明治16年(1883)と比較新しい社である。
今宮社は御祭神・大己貴神、大雷神、健速須佐之男命の三神。鎮座の年代は不詳であるが、建保3年(1215)吉田小社註進状にその名は現れている。元々は本宮の境内に五穀豊穣の神である今宮社と、疫病・災難除けの神である木瓜社が別々に鎮座していた。木瓜社はこの吉田町の産土神とされ、崇められてきた。しかし、度重なる火災や災害による荒廃などの理由で、文化13年(1816)現在の地に社が造営され合祀されている。四神石は四神相応に通じ、本殿の東南に青龍石、西南に白虎石、西北に玄武石が置かれ、東北の朱雀石に関しては内陣に有ると伝えられている。これらの石は方位を守る霊石とされている。
石段を登ると左手に境内が開ける。赤い柵で区切られた境内に三の鳥居を潜り入る。正面に吉田神社の本宮の中門があり、その奥に第一殿から第四殿までの本殿が並ぶ。第一殿は建御賀豆知命、第二殿は伊波比主命、第三殿は天之子八根命、第四殿は比売神を祀る。本殿は慶安年間(1648~1651)の建築で朱塗春日造りである。
吉田神社の創設は、貞観元年(859)藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。そして平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになっていく。
藤原氏は都が大和にあった時は都の東に春日神社を建て氏神を祀り、長岡京に遷都した時は近くの大原野神社に氏神を祀っている。そして、平安京では吉田神社 を建て奈良の春日神社の神を移している。
吉田神社は延喜式神名帳への記載はないが、永延元年(987)一条天皇の行幸より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には十九社奉幣に加列されている。その後、永保元年(1081)に定められたとされる二十二社制では、梅宮大社、八坂神社、北野天満宮そして貴船神社と共に下八社に列せられている。さらに嘉承元年(1107)四度の官幣に預かるなど、皇室からの厚い崇敬を受けるようになる。
明治維新後に定められた旧社格では官幣中社とされている。
鎌倉時代以降は、卜部氏が神職を相伝するようになる。室町時代末期の文明年間(1469~1487)には吉田兼倶が唯一神道である吉田神道を創始し、その拠点として文明16年(1484)境内に末社・斎場所大元宮を建立している。近世始めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿を境内の斎場に移しこれを神祇官代とした。このようにして吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持ち続けてきた。
吉田神社には二の鳥居の脇にあった祖霊社や今宮社のような摂社・末社が多くあり、山内に点在している。
摂社・神楽岡社は三の鳥居の内側で本宮の東の高台に建てられている。祭神は大雷神、大山祇神、高オカミ神の三神。神楽岡社は地域の地主神で、延喜式神名帳に記載のある霹靂神、すなわち雷神だと言われている。
摂社・若宮社は二の鳥居の先にある石段を登った左上の高台にある。祭神は天忍雲根命で、春日大社の若宮神社と同じ祭神を祀る。水徳の神様で延元元年(1336)吉田兼熈が社殿を造り奉祠している。
末社・大元宮へつながる道の途中に、末社・菓祖神社と末社・山蔭神社への入口が並ぶ。
菓祖神社の祭神は田道間守命、林浄因命の2柱。菓子の神(菓祖)として、昭和32年(1957)京都菓子業界の総意により兵庫県の中島神社、和歌山県の橘本神社、奈良県の林神社の祭神を鎮祭し創建される。
山蔭神社の祭神としては主殿に藤原山蔭と相殿に恵比須神を祀る。先に説明したように藤原山蔭は吉田神社の創始者である。光孝天皇の命により、山蔭は今までとは異なる庖丁式、すなわち料理作法を編み出している。これが四条流庖丁式の創始となっている。そのような来歴より、あらゆる食物を調理、調味づけられた料理飲食の祖神とされている。昭和32年(1957)料理関係者によって創建されている。
末社・神龍社の祭神は吉田兼倶で、永正10年(1513)に創建されている。吉田兼倶は永正8年(1511)に77歳で死去している。死後、後奈良天皇から神龍大明神の号を賜わり神龍社に祀られる。
末社・斎場所大元宮の祭神は天神地祇八百万神と 延喜式内社全3132座を祀る。吉田神道の根本道場で、正式名称は日本最上神祇斎場所日輪大神宮という。吉田家の私邸にあった道場を文明16年(1484)吉田兼倶がこの地に移建し、今の斎場所大元宮と伝承されている。本殿は八角形の平面に六角の後房を付けた特異な形状をした建築で、重要文化財に指定されている。本殿の周りには、延喜式内社全3132社を納める長棟が取り囲む。
八神殿とは、天皇の身を守護する八柱の神々で、神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、御食津神、事代主神をいう。明治4年(1871)まで、神祇官代として伊勢例幣使の儀礼を継続してきたが、翌5年(1872)八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座している。現在は八神殿の跡のみ残る。
境外末社・三社社は神楽岡に鎮座。祭神は多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津毘売命、金山毘古命、金山毘売命、菅原神の六神を祀る。初め吉田家の邸内に鎮祭してあったのを弘化元年(1844)現今の地に遷座し、明治5年(1872)末社に定める。
境外末社・竹中稲荷社の祭神は宇賀御魂神、猿田彦神、天鈿女神の三神。鎮座および由来は余りわからないが、古紀に「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍らに卜す云々」とあり、天長年間(824~834)には既に社殿が存在していたことが記されている。また「天保年間(1830~1843)に京師幾萬の子女郡詣し昼夜の別なく満山に踊躍(ようやく)す是を蝶々踊(まい)と云い其の後数千の鳥居参道に樹立し雨雪為に傘を要せず」などとあり、天保11年(1840)信徒の寄附金で現在の地に造営されたと考えられている。現在も竹中稲荷講社が組織され多数の崇敬者が講員に加入している。明治5年(1872)末社に定められた。
本宮から山蔭神社そして斎場所大元宮までは上り坂となるが、ここから下っていくと竹中稲荷社の長い参道の入口につながる。
「吉田神社」 の地図
吉田神社 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 吉田神社 本宮 | 35.0254 | 135.7847 | |
01 | ▼ 吉田神社 祖霊神社 | 35.0252 | 135.7838 |
02 | ▼ 吉田神社 今宮神社 | 35.0251 | 135.7839 |
03 | 吉田神社 神楽岡神社 | 35.0249 | 135.7848 |
04 | ▼ 吉田神社 若宮神社 | 35.0251 | 135.7848 |
05 | ▼ 吉田神社 菓祖神社 | 35.0247 | 135.7846 |
06 | ▼ 吉田神社 神龍神社 | 35.0249 | 135.785 |
07 | ▼ 吉田神社 山蔭神社 | 35.0242 | 135.7843 |
08 | ▼ 吉田神社 斎場所大元宮 | 35.0238 | 135.7848 |
09 | 吉田神社 三社神社 | 35.0231 | 135.785 |
10 | ▼ 吉田神社 竹中稲荷神社 | 35.0249 | 135.7866 |
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