横井小楠殉節地 その5
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問
横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(1811)2月に松代に生まれている。対して小楠は文化6年(1809)8月生まれと、現在の教育制度では小楠が1学年上となる。ほぼ同世代といってもよく、二人は同じ時代に生き、同じものを見て感じ考えてきたはずである。しかしながら歴史的に小楠と象山が巡り合うことはなかったようだ。「日本の名著 30 佐久間象山 横井小楠」(中央公論社 1970年刊)の責任編集者となっている松浦玲氏によると、2人が直接出会う可能性があったのは天保10年(1839)から11年(1840)にかけての僅かな期間に限られている。氏は日記や書簡等から、恐らく二人が出会うことはなかったと推測している。 嫡男であった象山は若くして藩主に認められ、天保4年(1833)には藩費による江戸遊学を果たし、同10年(1839)には神田お玉が池に私塾を開くなど恵まれた前半生であった。小楠も天保10年(1839)に江戸遊学を果たしたが、これは藩校時習館の塾頭を外す名目であったようだ。その上、酒での失敗により翌年には強制的に帰国させられている。象山と比べても小楠と肥後藩との関係は明らかに良くなかった上、それは終生変わることはなかった。小楠の前半生は恵まれたものではなかった。
その後の2人の歩んだ道も対称的である。嘉永7年(1854)弟子の吉田松陰による密航事件に連座し、象山も入獄する。その後、松陰が国元に送り帰されたと同じように象山も松代での蟄居を余儀なくされる。そして小楠が暗殺されかけた文久2年(1862)暮に、長い幽閉から解き放たれている。すなわち嘉永7年(1854)から文久2年(1862)までのおよそ8年の間、佐久間象山は表舞台に出る機会も与えられなかった。
安政5年(1858)4月7日、小楠は越前藩に迎えられ福井に入り、これ以降の活動の場を肥後藩から越前藩に移している。文久元年(1861)4月、不時登城による謹慎が解かれた松平春嶽に招かれ、江戸を訪れ春嶽と初めての対面を果たす。そして文久2年(1862)7月9日、松平春嶽の政治総裁職就任に合わせて「国是七条」を書き、春嶽のブレインとしての活躍を開始する。しかし先にも触れたように、5ヵ月後の12月19日夜に肥後藩士による襲撃を受ける。肥後藩より士道忘却として後に処罰される事件に巻き込まれる。小楠の命を守るため、越前藩は小楠を江戸から福井に移送している。そして春嶽は小楠を失ったまま、文久3年(1863)2月4日に入京する。幕府委任が成されないならば大政奉還すべきと春嶽は主張するが、意見は容れられなかった。3月9日と15日に政治総裁辞任を申し出、3月21日払暁、政事総裁職辞任も認められないまま離京している。この後、小楠等は薩摩藩と連携をとり挙藩上洛を計画するものの、藩内の反対に遭い失敗する。そして小楠は8月11日に福井を去り熊本に戻る。これ以降、小楠は春嶽の求めに応じて建言はするものの、明治初年までは沼山津を出ることがなかった。
このように象山が松代で蟄居している間、短い時間ではあったものの小楠は春嶽と組み、国政の変革に携わることができた。これに対して象山は一橋慶喜の招聘に応じて、元治元年(1864)3月29日入京している。そして4月3日には幕府の海陸御備向掛となる。象山は連日のように宮家公卿や幕府幹部に面会し、公武一和と開国論を説いて回っている。文久3年(1863)八月十八日の政変で京より長州藩が追い落とされ、その後の国政を合議すべく結成された参預会議も元治元年(1864)3月には崩壊する。政局は、将軍後見職を辞した一橋慶喜、京都守護職に復帰した会津藩、そして京都所司代に任ぜられた桑名藩による一会桑勢力を中心に政権は動く。諸藩の国政参加を極力排除して朝廷を独占、そして幕威の強化が図られるようになった。慶喜が象山を招聘したのは、この路線上で国政を推進する上で象山の説が有効であることを理解していたからであろう。実際に象山は徳川幕府を中心とした封建制度を維持する考えを持っていた。例えば春嶽が政治総裁職に就任し小楠と行った文久の改革について、批判的な立場をとっていた。経費削減のため参勤交代の簡略化を目指したのも、欧米の高位高官が外出する際に日本のような多くの従者を率いることがないことを読み識って行われた。しかし象山は封建制度の原理原則である上下尊卑の秩序の軽視につながるとして、役高相応の供揃えをして威儀を正すことが必要だと主張している。この辺りが慶喜の路線と一致していたと思われる。
表舞台に上った象山に残された時間はそれ程多くはなかった。5月16日に木屋町三条上ル大坂町へ転居した象山は、ここより中川宮、山階宮などを訪問する。そして7月11日山階宮邸よりの帰路、三条木屋町で河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。暗殺された地には、象山先生遺跡表彰会によって大正4年(1915)に碑が建てられている。 「日本史籍協会叢書 甲子雑録1」(日本史籍協会 1917年刊 1984年覆刻)の甲子雑録四の最後(644頁)に下記のような罪状書が三条大橋に掲げられている。
七月十一日張札
松代藩
佐久間修理
此者元来西洋学を唱交易開港之説を主張シ枢機之方々へ立入
御国是を誤候大罪難打捨置候処剰近日奸賊会津彦根之藩々と同じ
中川宮ト事を謀恐多も九重御動座彦根城へ奉移候儀を企唯今
其機会を窺候大逆不同不可容天地国賊ニ付即今日於三条木屋町加天誅畢
但日晝之儀ニ付斬首懸梟首候儀ハ差免者也
元治元年
七月十一日 皇国忠義士
以上のように象山の罪状としては、開港交易を公卿に入説し、会津・彦根藩そして中川宮と彦根動座を企てたことを挙げている。
先の松浦玲氏の著書では、松平春嶽・横井小楠ラインと一橋慶喜・佐久間象山ラインの違いを際立たせることで、小楠と象山の思想的な相違点を明らかにしている。元治元年(1864)時点で、佐久間象山は封建制度の維持を前提にした開国論を展開している。松代藩が準譜代であり前藩主の真田幸貫が老中まで上り詰めていることから、象山にとって幕政は非常に近いものであったと松浦氏は考えている。つまり国政に携わるためには、真田藩を動かし幕政に参画するということである。そのため、象山はこの元治元年時点までは、少なくとも幕府を中心に国政を改めることは可能であり、新たな政治システムの創出は不要と考えたのではないだろうか。この現状認識が正しいかどうかについては賛否あると思うが、8年間の蟄居が象山の現状把握に大きな影響を与えたことは否めない。
そして八月十八日の政変以降に設けられたた参預会議によって、新たな政治システムが実現したかのように見えた。しかし八月十八日の政変以前に小楠が福井を去ったことにより、春嶽・小楠ラインの政治力はかなり失われていた。上述のように幕権回復を狙う一橋慶喜に政局の主導権は移り、この形勢は元治元年(1864)初頭から第二次長長州征討が終結するまで続く。
横井小楠の漢詩文集「小楠堂詩草」に「沼山閑居雑詩」と題して、十首あった連作のうちの七首が収められている。君主の理想像、君主の天職を詠うものであるが、冒頭の詩は君主の世襲制を否定したと解釈され有名である。「続日本史籍協会叢書 横井小楠関係史料1」による。
人君何天職
代レ天治二百姓一
自レ非二天徳人一
何以恢ニ天命一
所ニ以尭巽一レ舜
是眞爲ニ大聖一
迂儒暗ニ此理一
以レ之聖人病
嵯乎血統論
是堂天理順
「人君は何を天職とするのか、天に代わって人民を治めることである」と始め、尭が位を舜に譲った理由は、舜が聖人であったからでであり、君主の世襲は「天理に順といえようか」としている。この詩の作られた時期を松浦玲氏は「横井小楠」(ちくま学芸文庫 2010年刊)で安政4年(1857)春としている。この詩は当時の将軍継嗣問題すなわち13代将軍徳川家定の次の将軍を紀州藩主の徳川慶福とするか、先代水戸藩主徳川斉昭の七男の一橋慶喜とするかの問題である。越前藩主松平慶永(後の春嶽)は早くから一橋慶喜こそ次代の将軍に相応しいと考え、諸藩や幕閣に働きかけてきた。小楠もそれを意識してこのような詩を詠ったという見方もある。この見解に対して松浦氏はあまり肯定的ではなく、むしろ小楠の根源的な君主観としている。つまり君主のために国が存在するのではなく、国の政治のために君主が必要とされる。従って誤った政治を行う君主であれば、養子を含めて取り替えることを行うべきと比較的早い時点から考えていた。そのため世襲制君主論を否定している。
このことは幕藩体制を支える根幹部分に対する疑問であり、やがて万延元年(1860)「国是三論」の中で、「(前略)墨利堅に於ては華盛頓以来三大規模を立て、(中略)一は全國の大統領の権柄賢に譲て子に傳へず、君臣の義を廃して一向公共和平を以て務とし政治治術其他百般の技藝器械等に至るまで凡地球上善美と稱する者は悉く取りて吾有となし大に好生の仁風を掲げ、(後略)」と任期のある大統領制に対して賛同するようになっている。このような政治システムの大幅な変更をも厭わない点が横井小楠の思想的な広がりでもあり、元治元年(1864)時点での佐久間象山の考え方との大きな相違点でもある。
しかし300年以上も続いてきた幕藩体制も、公共の政治を行う上で変革していかなければならないという小楠の柔軟な発想は、そのまま討幕派の論理にもなりえる恐ろしさを秘めていた。勝海舟はその危険性をいち早く見出していた。
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