山紫水明処 その2
山紫水明処(さんしすいめいしょ)その2 2009年12月10日訪問
山紫水明処では、頼家の系譜と頼山陽の生涯について記した。ここでは頼家の系譜に就いてまとめてみる。なお下記の略系は木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)による。
初代:正茂 -2代:道喜 -3代:良皓 -4代:亨翁
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5代:春水 -6代:聿庵 -7代:誠軒 -8代:弥次郎
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9代:成一 -10代:惟勤
山陽の父である頼家第5代頼春水には2人の弟がいる。宝暦3年(1753)生まれの頼春風は竹原頼家、宝暦6年(1756)生まれの頼杏坪は杏坪賴家の始祖となっている。またこの一世代前の第4代頼享翁にも2人の弟がおり、頼惟忠は尾道に分家し、頼惟宣は竹原で子弟を教え飯田頼家の始祖となっている。特に寛政12年(1800)9月3日、頼惟宣が亡くなり、江戸勤番の父に替わり弔問を行った山陽は途中で逐電している。この出奔が脱藩と見なされ、広島に連れ戻された山陽は幽閉される。そして廃嫡された山陽に替わり、頼家の第6代として竹原頼家より景譲(幼名・熊吉)が迎えられている。そのため竹原頼家は、竹原の医師・花山文臺の五男を春風の娘唯子と結婚させ頼小園とし、跡を継がせている。
初代:春風 -2代:小園 -3代:禧六 -4代:廉次郎
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5代:平格 -6代:俊直 -7代:猷太郎-8代:菫二
(http://www.geocities.jp/darabojp/family7.html : リンク先が無くなりました )初代:杏坪 -2代:采眞 -3代:栄次郎-4代:五百重
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5代:燾 -6代:益 -7代:達
山陽は廃嫡されたことから、山陽を初代とする京都頼家が派生する。
天保3年(1832)9月23日、山陽は門人の関藤藤陰に日本政記の原稿及び跋文の写本を命じ、検閲を済ました後、その日の夕刻に没している。同月25日千本綾小路光林寺にて葬式が営まれ、その夜に東山の長楽寺に葬られている。天保5年(1834)7月23日頼杏坪が79歳で没する。この年の内に山陽の妻・梨影は水西荘を福井藩の医者安藤精軒に譲り、支峰、三樹三郎、陽子の3人の子を連れて富小路へと転居している。天保10年(1839)2月23日山陽の母・梅飃の八十寿の宴が催される。
天保11年(1840)5月、山陽の三男・三樹三郎は下坂し後藤松陰の塾に入る。同13年(1842)4月2日、梨影は三樹三郎と陽子を伴い梅飃を見舞う。17日に発ち5月4日に帰京している。梅飃は同年12月9日に没している。享年84歳、当時として驚くべき長寿であった。大阪で学んでいた三樹三郎に江戸行きの機会が巡ってくる。水野忠邦に抜擢され納戸頭となった羽倉簡堂との出会いである。天保14年(1843)簡堂は大阪に赴き生野銀山の視察、大坂の米倉の検査、そして鴻池らの豪商から献金を求めるなどを行っている。篠崎小竹を通じて三樹三郎を知った簡堂は、これを伴い江戸に向う。簡堂の斡旋で昌平黌に入学するが、朝廷を蔑視する幕政に反発し、上野寛永寺の葵の紋のついた石燈を倒したかどで、書生寮からの退去処分を受けている。弘化2年(1845)4月16日陽子死去。享年16歳。
弘化3年(1846)3月、三樹三郎蝦夷探索のため発つ。奥州を経由して9月に蝦夷に入る。松前藩で探検家の松浦武四郎と交友を結ぶ。嘉永2年(1849)正月、三樹三郎が羽越を経て帰京する。安政2年(1855)9月17日、梨影没す。享年59歳。この翌年(1856)の8月8日竹原頼家2代小園が65歳、同月30日に頼家6代聿庵が56歳で相次いで没する。
安政2年(1855)に母の梨影が亡くなると、三樹三郎は勤王運動にのめり込んで行く。「野史台 雑三 日本史籍協会叢書別編35」(東京大学出版会 1975年刊)には世古格太郎の唱義聞見録が掲載されている。格太郎は安政の大獄に連座し、「紀伊殿領分 勢州飯高郡松坂町 百姓 格太郎」として「江戸を構紀伊殿領分払」(「九條尚忠文書 三 日本史籍協会叢書93」(東京大学出版会 1916発行 1987年覆刻)飯泉喜内一件)の処分を受けている。唱義聞見録の中で、頼三樹八郎は、「酒を飲む時は頗る狂態あり故にこれを議する者多し」とし、「不忍の池の茶店に飲しに酒狂発し處女に挑みて終に乱妨に及ひ」や「京に帰りて後モ酒狂発する時は劒抜て舞ふ事屢なり人皆是を恐れたり」とある。
安政4年(1857)の冬、支峰は高倉六角下ルに居宅を移している。そして安政5年(1858)の9月2日梁川星巌が鴨沂小隠で病死する。その直後、梅田雲浜や頼三樹三郎の捕縛が始まる。木崎好尚は「百年記念 頼山陽先生」の頼山先生年譜の没後部分で9月5日?としている。梅田雲浜の捕縛された日時については諸説あるため、この様な表記となったのであろう。長野主膳は京都町奉行所を使えず、急遽伏見町奉行所を使って雲浜を捕縛している。この年の12月2日に六角の獄に投ぜられ、同月25日に江戸へ向けて護送される。明けて安政6年(1859)正月9日、江戸北町奉行所に到着した三樹三郎は、福山藩邸に預けられる。2月13日と8月14日に評定所で吟味があり、10月2日に調書が作られる。そして同月7日に死罪が申し渡され、即日小塚原刑場で斬首される。享年35歳。やはり「九條尚忠文書 三 日本史籍協会叢書93」(東京大学出版会 1916発行 1987年覆刻)飯泉喜内一件によると三樹三郎の罪状は下記のとおりである。
河原町三條上ル夷町
てる借家
儒 者
頼三樹八三カ郎
右之もの儀外夷海防筋之儀ニ付猥ニ浪人儒者梁川星巌又者梅田源次郎と
御政事ニ拘り候国家之重事を議論および不容易儀を申唱堂上方に入説之
儀星巌と種々申合候より人心惑乱いたし天下之擾乱を醸し候姿ニ至不恐
公儀射致し方右始末不届ニ付死罪
罪科は、梁川星巌や梅田雲浜とともに国事に関わったこと、それを堂上に入説したこと、それにより騒乱を引き起こしたこと、という3点であろう。これを見る限り、急死した星巌、そして獄死した雲浜も死罪になったことが明らかである。
文久元年(1861)9月4日、江馬細香没す。享年75歳、一生独身を貫く。文久2年(1862)安政の大獄の恩赦が行われ、支峰は死罪御免、建碑差免しの幕命を受けている。
初代:山陽 -2代:支峰 -3代:龍三 -4代:久一郎
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5代:新
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