田中河内介の寓居
田中河内介の寓居(たなかかわちのすけのぐうきょ) 2009年12月10日訪問
石碑や駒札もないため、その正確な場所は特定できないものの、川端通丸太町上ルには梁川星巌の鴨斤小隠とともに田中河内介の寓居・臥龍窟があった。石田孝喜氏の著書「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)の左京区の18番目に梁川星巌邸跡が採り上げられている。その2つ前では田中河内介宅跡について記述している。また京都市教育会の主要人物であり、京都の幕末史の先駆者でもあった寺井萬次郎の「京都史蹟めぐり」(西尾勘吾 1934年刊)でも左京区の部の6番目に贈正四位 梁川星巌邸址、これに次いで贈正四位 田中河内介邸址そして贈従四位 是枝柳右衛門寓居の址と並ぶ。
田中河内介は文化12年(1815)但馬国出石郡香住村の医者小森正造の第二子として生まれる。姓は藤原、名は綏猷。恭堂または臥龍と号す。幼き頃より文学を嗜み、出石藩侍講の井上静軒の門に入っている。天保6年(1835)21歳の時、京に遊学する。摩嶋松南の塾舎で学んだ後、自らも塾を開き儒学を教授するが、門人の数も少なく糊口の資にもならなかったようだ。やがて名声を得るようになった天保14年(1843)、中山大納言忠能卿の侍講として迎えられる。中山家の家臣田中近江介の女と結婚し田中家を継ぎ、中山家の御用人となる。やがて諸太夫に任じられ河内介を名のり従六位に叙せられる。主家に忠誠し、その庶務をこなす一方で、中山忠愛、忠光の二人の公子の教育も引き受けている。弘化2年(1845)3月長子の左馬介が生まれる。同4年(1847)5月、父の正造が没すると、妻子を伴い帰国を果たしている。
嘉永4年(1851)、典侍御雇となり宮中に出仕していた忠能の次女慶子は、4月に典侍に進み5月には権典侍と称した。翌5年(1852)3月には懐妊の徴候が現れている。嘉永5年(1852)9月22日、石薬師の中山邸にて生誕した皇子は、父の孝明天皇より祐宮という幼名を賜る。これより安政3年(1856)9月29日、親王御殿に移るまで祐宮は中山邸で育てられる。
家禄わずか200石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金している。この祐宮の生誕に関しては、大佛次郎の「天皇の世紀」(普及版・朝日新聞出版 2005年刊)に詳しく描かれている。産屋も二転三転した結果、8月の下旬には手狭な中山家の地所の西隅にほぼ完成している。しかし中山家の家計では皇子を養育する余裕がなく、金200両の拝借を申し入れているが、前例に則り100両に減額されている。明年以後15年賦で返納する約束で貸し与えられたのが5月12日のことであった。不足分の百両についても中山績子を通じて御上に願い出たところ、8月20日になって半額の50両を明年以後1年賦の償還を約束することで貸与されている。中山家も朝廷も思うように工面できない経済状況にあったことは明らかである。「野史台 維新史料叢書13 伝記4」(日本史籍協会編 東京大学出版会 1974年覆刻)に収められている盟友小河一敏による田中河内介伝では、産屋の造営から万般までを河内介が担当したとしている。
豊田小八郎著の「田中河内介」(河州公顕頌臥龍会 1941年刊)に掲載されている年譜を見ると、安政3年(1856)春より西遊し翌年の6月に帰京している。そしてその年の冬には居を大阪に移し新年を大阪で迎えている。河内介は西遊に出た頃より中山家との距離を置くようになったのであろう。安政5年に「昨年来中山家致仕ノ所此節復任ス」とあるように、安政4年には中山家の家臣を辞めたものの再び復職している。しかし復職も長く続かなかったようで、再び中山家を去っている。国事に奔走するようになり主家に迷惑がかかることを恐れたための行動と考えられている。大阪に居を移したのも幕吏の目を欺く目的であったようだ。
中山家の当主である中山忠能は安政5年(1858)5月、議奏に任じられ文久2年(1862)12月には国事御用掛をも兼帯している。忠能は国事に関わるようになるにつれて、河内介の過激な思想に着いて行けなくなったというのも両者の関係に変化を与えた一因かもしれない。いずれにしても、中山家の切り盛りから離れたことにより河内介は国事奔走に没頭する時間を得た。そして久留米の水天宮の神職の家に生まれた真木和泉、伊勢神宮の神官の山田大路、岡藩士の小河一敏等との親交を深めていったのもこの時期のことであった。
安政5年(1858)は戊午の年にあたる。この年の8月8日に水戸藩に勅書、すなわち戊午の密勅が下賜される事件が起きている。将軍の臣下に当たる水戸藩に勅書が渡されたことは、幕府の威信を大きく傷つけ、安政の大獄を引き起こす直接的な原因となった。これらは梁川星巌、梅田雲浜そして頼三樹三郎など多くの有志が関わったが、その輪の中に田中河内介の名を見つけることは出来ない。あるいは藤田東湖、戸田忠太夫を失った徳川斉昭に多くのことを望むことは無理であったことを知り得ていたのかもしれない。また雄藩を巻き込んだ軍事的な行動に及ばない限り幕府に潰されると考えたかは分からないが、いずれにしてもこの時期、河内介は動かなかったことにより安政の大獄の難を逃れている。
梅田雲浜等と同じく皇威回復を企ててきた河内介も、安政の大獄で獄に繋がれた人々に対してかなり冷酷な評を残している。
午十二月廿日
吉左衛門倅
鵜飼幸吉
鷹司殿諸大夫
平生好武器之癖有之慷慨之人 小林式部権少輔
同近習
尋常之貧夫 兼田伊織
此人は三国とか金持儒者かと存候不審 三白大学
右四人、榊原式部大輔殿へ御預け
水戸殿京留守居
鵜飼吉左衛門
土佐流之画工 老人 宇喜田一蕙
同 松蕙
共に尋常人
池内大学
元智恩院御内、其後不首尾にて被放逐、当時浪人、好詩歌有名
好刀剣売買、京儒皆賤之、畢竟馬鹿之間違
右四人、松平飛騨守殿へ
西園寺殿諸大夫 吉左衛門有縁のよし
尋常 藤井但馬守
有栖川宮御内
不聞名 飯田左馬
三条殿諸大夫 因幡守 息
愚人 森寺若狭守
若狭之産、尋常有志之人 梅田雲浜
小笠原右近将監殿へ
鷹司殿諸大夫筆頭にて
無学、尋常、大慾 高橋兵部権大輔
青蓮院宮御内 但し宮の御近習
尋常之愚人 伊丹蔵人
同上 同 山田勘解由
河原町三條 頼三樹三郎
アキ頼山陽外史之次男、京に儒者店、放逸酔狂、不足論人物、僕等避之
右阿部伊予守殿へ
右様被召捕候次第者如何、御勘考
これは安政5年(1858)12月20日に知人に送った人物評であった。京で捕縛された有志者達が江戸に送られた日である。そのため捕縛前に病死した梁川星巌に対する評がないが、別の書簡に下記のような一節が残されている。
梁川星巌も流行疫病にて死去候 詩は上手に候へとも無用之老人 可惜事にも無之候
以上からも田中河内介の梁川星巌や梅田雲浜の活動に対する評価がいかに低いものであったかがよく分かる。
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