文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 その他の邸宅 その4



京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく)その4 2010年1月17日訪問

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京都御苑 その他の邸宅 その4
九條池と拾翠亭 左京二条四坊一町

 京都御苑 その他の邸宅 その3に続き二条の北側の町の変遷を見て行く。

 現在の京都御苑の西南角にあたり、閑院宮邸跡のある町。この町には近院あるいは石井と呼ばれる邸宅があった。「拾芥抄」には下記のように記されている。

石井  同(中御門南)東洞院東 重信公家
内記井 中御門南 東洞院東 
    悪所云云 号院井云云
近院  春日北烏丸東 号松殿 左大臣能有公家
    今松殿或押四分一

 ただし、拾芥抄の東京図では石井を「中御門南 東洞院西」に、その東に内記井を描いているため、本文の記述が誤っていると思われる。この近院は、もともと文徳天皇皇子で左大臣源能有(文徳源氏)の邸宅であり、それが宇多天皇皇子の左大臣源重信(宇多源氏)、そして源経成の子の権大納言源重資(醍醐源氏)へと伝えられたようだ。平安時代末期には上西門院統子内親王の御所にあてられたこともある。統子内親王は大治元年(1126)鳥羽天皇第2皇女として生まれている。母は中宮の藤原璋子(待賢門院)。 承安3年(1173)藤原基房は十六町に松殿と呼ばれる邸宅を新造して移っている。松殿は十六町の西北四分の一の敷地に建てられ、関白という高位の人物には似合わない規模であった。

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京都御苑 その他の邸宅 その4
閑院宮邸跡 左京二条三坊十六町
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京都御苑 その他の邸宅 その4
閑院宮邸跡 左京二条三坊十六町

 「拾芥抄」には下記のように記されている。

内記井 中御門南 東洞院東 悪所云云 号院井云云

 内記井とは井戸の名前が地名または邸宅名に転じたもの。「泣井」とも記され縁起の悪い場所とされた。仁平2年(1152)この町は火災により焼亡している。源義経が兄の頼朝と不和となり京都から退去する際、忠臣であった佐藤忠信は主君と別れ、都に潜み再起を図ろうとした。文治2年(1186)人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、御家人糟屋有季に居所が密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党2人と共に自害して果てた。忠信の隠れた中御門東洞院の隠れ家は左京二条四坊一町にあったと推定されている。
 なお、左京二条四坊一町は堺御門の西側の九条家跡に一致する。ここが悪所であったとは?

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京都御苑 その他の邸宅 その4
九條邸跡 左京二条四坊一町
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京都御苑 その他の邸宅 その4
九條邸跡 左京二条四坊一町
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京都御苑 その他の邸宅 その4
厳島神社 左京二条四坊一町

 天暦2年(948)、八町の民家に強盗が押し入る事件が起こっている。その家の主人が強盗を惨殺した記録が残されている

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京都御苑 その他の邸宅 その4
堺町御門 左京二条四坊八町
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京都御苑 その他の邸宅 その4
鷹司邸跡 左京二条四坊八町

 左京二条四坊八町と同様、主だった記録が残されていない町のようだ。

 平安時代中期には民家が群在していたと考えられている。万寿4年(1027)この町で発生した火事は、東南に広がり二条四坊の東半から法興院、安養院などを焼いている。
 平安時代末期、この町に宮内大夫藤原重頼の邸宅があり、賀茂斎院範子内親王の卜定所となった。範子内親王は治承元年(1177)高倉天皇の第2皇女として生まれている。母は小督(藤原成範の女)で、安徳天皇、後鳥羽院は異母弟にあたる。母の小督は、高倉天皇の寵姫で平清盛の怒りに触れ、清閑寺で出家させられた小督哀話の主人公でもある。治承2年(1178)内親王宣下、賀茂斎院に卜定。同3年(1179)3月に火災により重頼邸は焼失し、斎院は二条三坊六町に移っている。範子内親王は養和元年(1181)高倉院の喪により斎院を辞している。

 「平安京提要」(角川書店 1994年刊)では鎌倉時代、摂政太政大臣九条良経の中御門京極殿がこの町に存在した可能性を記述している。つまり良経の邸宅の所在地は、左京一条四坊十三町あるいは左京二条四坊十六町の併記となっている。「平安京提要」に掲載されている左京邸宅配置概略図、「よみがえる平安京」(村井康彦編集 淡交社 1995年刊)の巻末に掲載されている平安京変遷図、「寝殿の研究」の平安末期から鎌倉初期にかけての京師概状にも中御門京極殿の記載がない。京内に所在するならば東京極大路西であることは決まるが、中御門大路の南北のどちらにあったかが問題となる。溝口正人氏は「藤原良経の中御門京極殿の施設構成について」(日本建築学会東海支部研究報告 1995年2月)において、明月記の承元2年(1208)4月8日の条を取り上げ、中御門京極殿の位置を中御門大路の北側としている。

巳時計東北有火、馳参京極殿、中御門南、京極西焼亡、騎馬馳参中御門殿、留守男之外無人、煙炎如飛、燃付無隙、(中略)
大将殿侍等漸出来、人数自然出来火滅了、上皇御幸中御門面、火滅後大将殿令渡給、即還御

 元久3年(1206)九条良経が亡くなった後、承元2年(1208)4月に中御門南京極西が焼亡する火事が発生したが、この時中御門京極殿は延焼を免れている。延焼の可能性のある場所に中御門京極殿があったとすると、火元となった中御門大路の南側の左京二条四坊十六町ではなく大路を挟んで北側の左京一条四坊十三町にあったと考える方が合理的であろう。

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京都御苑 その他の邸宅 その4
閑院宮邸跡 左京二条三坊十六町

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