文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 その他の邸宅 その3



京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく)その3 2010年1月17日訪問

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京都御苑 その他の邸宅 その3
桜町 左京一条四坊十二町

 京都御苑 その他の邸宅 その2に続き左京一条四坊の変遷を見て行く。

 藤原道長の妻・源倫子の鷹司殿の所在地。「延喜式 巻四十二(九絛家本)」の付図には「鷹司殿」、「拾芥抄」には、「鷹司殿 同(土御門南)万里小路東 従一位倫子家 或富小路」と記され、東京図にも「京極殿」の西側に「鷹司」とある。源倫子は非常に長命で天喜元年(1053)90歳で死去している。道長の死後、この邸宅で70歳の祝賀会を開いている。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
大宮御所 左京一条四坊九町

 近江守藤原惟憲の邸宅が所在した地。陽明門大路(近衛大路)に面していたことから陽明門第とも呼ばれていた。惟憲は藤原北家勧修寺流の駿河守藤原惟孝の長男。官位は正三位、大宰大弐。長和2年(1013)正四位下と一条朝末から三条朝にかけて順調に昇進する。近江守や播磨守と大国の国守を務める一方、藤原道長の家司を務める。寛仁元年(1017)敦良親王(後朱雀天皇)が道長の外孫として初めて皇太子に立つと、その春宮亮に任ぜられている。
 長和5年(1016)陽明門第から出た火は隣接する道長の土御門第を始めとし二条京極の法興寺をも焼き、土御門通から二条通までの五百余家を灰燼に帰している。土御門殿の再建責任者には惟憲がなり、寛仁2年(1018)完了している。道長の権勢を利用して一間ずつを諸国の受領に割り当てるなどの横暴を極めた。なおかつ惟憲は自らの陽明門第も同時に竣工させている。「平安京提要」(角川書店 1994年刊)は惟憲の陽明門第から出火により土御門殿が焼失していることから、陽明第の所在地を左京一条四坊十町と推測している。

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京都御苑 その他の邸宅 その3 
大宮御所正門 仙洞御所参観入口  左京一条四坊十町
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京都御苑 その他の邸宅 その3
大宮御所 左京一条四坊十町
2014年10月8日撮影

 平安時代後期、この町の北西の角には小規模な神社が祀られていた。内裏を退出した太政大臣・藤原宗輔が近衛万里小路あたりを通りかけた際、車の中で笛を吹いていると、この社の神が陵王の装束を着けて現われ、笛の音に合わせて見事な舞を見せたという話が「古今著聞集」に残されている。社の場所の「近衛より南万里小路より東のすみなる社」は、この町の北西角にあたる。宗輔は権大納言藤原宗俊の子で、堀河または京極と号する。漢籍や有職故実に通じ、音楽に秀でていたことから上記のような逸話が生まれたのであろう。宗輔は早くに父を失い、信任されていた堀河天皇が早世するなど、昇進が遅れ46歳で参議となった人でもある。長承元年(1132)56歳で権中納言の時、僅か13歳で権中納言となった藤原頼長に出会う。頼長は昇進を繰り返し久安5年(1149)には左大臣まで登りつめるが、強引な政治手法が敵を生み、保元元年(1156)に発生した保元の乱で崇徳上皇側につき敗死する。宗輔は保元の乱の処罰を受けなかったばかりか、頼長死亡に伴う人事異動によって右大臣に任命されている。応保2年(1162)86歳で没している。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
仙洞御所正門 左京一条四坊十一町

 平安時代前期の歌人・紀貫之の邸宅が所在した町。「拾芥抄」には下記のように記されている。

桜町 同(中御門北)万里小路東 南庭多桜樹
故号 歌仙貫之之家

 貫之が南庭に桜樹を多く植えたことから、この名が付いたとしている。現在、富小路広場の片隅に桜町の駒札が建つ。貫之邸の説明の後には、源氏物語の末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守中川家がこの付近を想定して描かれたと記している。
 また平安時代後期には、右大弁平範家の邸宅があったことが「拾芥抄」の東京図から分かる。さらに平安時代末期には、右中弁藤原経房の邸宅が所在したとされている。経房は源頼朝に信任を受けて初代関東申次に任ぜられた人物でもある。初めは邸宅のあった通から勘解由小路と名乗ったが、後に京の東郊の吉田に別邸を建てたため吉田と改めたとされる。なお経房は範家の娘を妻に迎えている。ほぼ同じ頃、中右記を残した藤原宗忠の邸宅・中御門北亭がこの地に所在したと考えられている。宗忠は藤原道長の玄孫にあたり、中御門流の2代目となる。宗忠は五条烏丸の土地を勤務の都合上、美濃源氏の土佐入道頼仲の富小路邸と交換したということを、「中右記」長治2年(1105)2月28日の条に記している。天永3年(1112)の左京一条四坊十三町の火災の際は西風によって宗忠邸の類焼を免れている。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
桜町 左京一条四坊十二町

 平安時代末期、この町は右衛門権佐藤原重隆の邸宅と若干の民家があったようだ。重隆は承保3年(1076)藤原北家勧修寺流の参議藤原為房の三男として生まれている。堀河朝では蔵人、白河院では殿上人を務め、殿上人の作法故実書「蓬莱抄」や公事の指図書「雲図抄」を著している。元永元年(1118)に死去。重隆の邸宅は天永3年(1112)に民家から出火した火災により焼失している。その後の町に、源長経という人物の邸宅があったが、承安5年(1175)の火災で焼失している。
 平安時代末期の勘解由小路富小路には土佐守藤原季行の邸宅があり、近衛天皇の中宮藤原呈子の御産所にあてられた。

 鎌倉時代初期には摂政太政大臣九条良経の本邸・中御門京極第が左京一条四坊十三町に所在したと考えられている。良経の中御門京極第は後京極殿と呼ばれていた。九条良経は摂政関白九条兼実の次男で嘉応元年(1169)に生まれている。和歌や書道、漢詩にも優れた良経は建久7年(1196)に政変(建久七年の政変)に巻き込まれ、父兼実とともに朝廷から追放され蟄居を余儀なくされている。しかし正治元年(1199)左大臣として復帰を果たし、建仁2年(1203)には土御門天皇の摂政となる。建仁4年(1204)は従一位、太政大臣となるも、元久3年(1206)3月7日深夜に頓死。享年38。
 良経の母の藤原兼子は藤原季行の娘にあたるため、良経の後京極殿は藤原季行からの伝領されたものかもしれない。太田静六は「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)で、鎌倉時代における貴族の邸宅の一例として後京極殿を取り上げている。良経は建久七年の政変から復活した後に後京極殿の造営に着手している。南側の藤原重頼の邸宅(左京二条四坊十六町)が治承3年(1179)3月26日の火災で焼亡した際の状況は「山槐記」に残されている。これによると中御門大路北には記すべき邸宅がなかったようなので、良経が造営を始めた時は空地であったのかもしれない。建仁3年(1203)11月に上棟、元久2年(1205)にはだいたいの造作が完了している。同年7月から庭園関係の記録が増えてくる。「明月記」の元久2年(1205)7月21日の条には、「為御覧中御門殿御池造作渡御、雖憚身依仰参入、午時許退下、南庭池橋可作由、依仰沙汰之」とあるように後京極殿には南池があり、南庭から中島に橋をかけるようにと良経の沙汰があったことが記されている。そして同年10月11日の条には「戌時許殿下自京極殿還御三条坊門殿、玄時許出洞院面見物、殿下御移徒也」と後京極殿へ移っている。「愚管抄」には新営なった後京極殿の様子を下記のように記している。

中御門京極ニイヅクニモマサリタルヤウナル家ツクリタテゝ。山水池水峨々タル事メデタクシテ。元久3年3月13日トカヤニ。絶タル曲水ノ宴ヲコナハントテ。

 良経は同年3月3日に曲水の宴を計画していたが、2月28日に熊野本宮が罹災したため、開催を延期している。そして宴を開くことなく、3月7日夜に急死している。良経の死後、後京極殿はほとんど使用されることなく、荒廃が進んでいったようだ。後を継いだ九条道家は一条殿に居住することが多く、後京極殿で暮らすことはなかった。建暦2年(1212)道家の内大臣就任の際、宣旨を受ける入内の出立所、そして大饗の場として使用された記録が残っている。このような儀式を行うための利用だけとなり、留守居以外に居住する者はなかったと考えられている。明月記の建永元年(1206)6月11日の条には、「月前参中御門殿、見廻南庭橋金物被放取云々、眼前荒廃一身哀衝」と良経の死後三か月にして橋金物が剥ぎ取られるなど荒廃が進んでいたことが分かる。
 なお、「寝殿造の研究」には、拠点不明としながらも裏松固禅が収集した後京極殿の一部の指図を掲載している。太田は寝殿の母屋内に柱が建てられ、母屋と庇を通じて東西に2分している点に注目し、やがて現われる書院造の原型を後京極殿に見出している。ただし、溝口正人氏は「藤原良経の中御門京極殿の施設構成について」(日本建築学会東海支部研究報告 1995年2月)で、この院宮及私第図の「伝後京極殿第図」に対して「同時代史料に基づかない後世の想像図」としている。この点は注意すべきだろう。 裏松固禅は宝暦8年(1758)の宝暦事件に連座し、初めに遠慮、次に永蟄居を命ぜられ出家させられている。その30年の蟄居生活の間に「大内裏図考證」を著している。天明8年(1788)の内裏焼失後の再建の重要な資料となったことから、勅命により赦免される。褒賞として錦5把、銀10枚を下賜されている。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
富小路広場 左京一条四坊十三町

 平安時代末期、この町には藤原重方の邸宅があったが、治承3年(1179)に焼失している。また左京一条四坊十二町と同様に、この町に紀貫之の家があったとする言い伝えも残っている。この町は現在の仙洞御所の東南部分に該当するため、北東の阿古瀬淵に残る紀氏遺蹟碑とは関係なさそうだ。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
仙洞御所洲浜 左京一条四坊十四町
2008年5月13日撮影

 北側の十六町と合わせて藤原道長の邸宅・土御門殿があった。道長は正暦2年(992)には既にこの邸宅を入手していたが、当社は北側の十六町のみであった。この十五町を加えた時期を太田静六は「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)で長徳2~3年(996~7)頃と推定している。道長は長保元年(999)土御門殿で新しい馬場を開いている。土御門殿が2町の大きさがあるならば馬場を作ることも可能であると太田は考えている。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
仙洞御所 阿古瀬淵と六枚橋 左京一条四坊十五町
2014年10月8日撮影
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京都御苑 その他の邸宅 その3
仙洞御所 阿古瀬淵と六枚橋 左京一条四坊十五町
2014年10月8日撮影

 上記のとおり、十五町と十六町は合わせて藤原道長の土御門殿となる。最初に入手したのは十六町だったが、長徳2~3年(996~7)頃に十五町を加え南北2町の邸宅となっている。土御門殿の変遷については、既に京都御苑 土御門殿に記したので、そちらを参照してください。
 道長が土御門殿を入手した経緯について2つの説があるようだ。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)は、源雅信の邸宅が、雅信の死後に娘の倫子を経て婿の藤原道長に伝領されたとしている。これに対して、太田静六著「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)と「平安京提要」(角川書店 1994年刊)では、元々この町には雅信の弟である右大臣源重信の邸宅があったとし、倫子の叔父にあたる関係で道長が引き継ぐこととなったと推測している。
 東三条殿、枇杷殿、二条殿、一条殿など京中に多数の邸宅を所有していた道長が、倫子と最も長く生活したのが土御門殿であった。また東隣に法成寺を造営したことからも、土御門殿を自らの住居として造っていたことが分かる。土御門殿は最初の造営を含めると道長の生前に2回、死後も火災による焼失のための再建が2回行われている。そのため土御門殿は4つの期間に分けることができる。

 道長が土御門殿を入手したのは正暦2年(992)頃とされている。正暦元年(990)に父の兼家が死去し、東三条殿の本院は東三条院藤原詮子に、南院は関白となった嫡男道隆に継承されている。藤原詮子は道長の同母姉で円融天皇女御、一条天皇生母である。そして長徳元年(995)に道隆が没すると、東三条殿は全て詮子の所有となる。このような経緯から、東三条殿を継承していない道長にとって、父の死後に新たな邸宅として土御門殿を造営する必要があったのであろう。
 第一期土御門殿は十六町1町に造られたが、造営後10年以内に拡張しているのは、道長の普請道楽だけからではなく、東三条院藤原詮子の御所が必要であったからであろう。上記のように長徳2~3年(996~7)頃には2町規模の邸宅に改造し、念願の馬場を設けている。第2期に比べ第1期土御門殿は古風な造りであったようだ。この時期の土御門殿については、杉山信三と太田静六がそれぞれの復元図を作成している。特に「寝殿造の研究」では太田が自らの復元案を提示し、杉山復元案との違いを記している。

 左京一条四坊十町でも記したように、長和5年(1016)7月20日、近江守藤原惟憲の陽明門第から出た火は土御門殿を始めとし二条京極の法興寺まで及び、土御門通から二条通までの五百余家を灰燼に帰している。第二期土御門殿の再建は、道長の家司でもあった藤原惟憲が責任者となり進められ、2年後の寛仁2年(1018)には完成したと考えられている。前年の寛仁元年(1017)に太政大臣宣下と道長の権勢が最も拡張した時期の造営だったため豪華絢爛であったことは言うまでもない。ただしその造営方法については、一間ずつを諸国の受領に割り当てるなど、その権勢を最大限に利用したものでもあった。そして新造した邸宅には、諸国で富を蓄えていた受領達が競って献上した調度品が山を成したとされている。同年10月22日には後一条天皇を始めとし、東宮敦良親王(後朱雀天皇)、太皇太后藤原彰子、皇太后藤原妍子、中宮威子の五人が土御門殿に行啓している。天皇と東宮は道長の孫であり、三后は全て道長の娘というのは前代未聞のことであった。

 道長の死後の長元4年(1031)12月3日、第二期土御門殿は罹災している。同6年(1033)には第三期土御門殿として再建したが、長久元年(1040)9月9日に再び焼失している。同3年(1042)頃には第四期土御門殿として再建されている。この第四期も天喜2年(1054)12月8日に焼失と短命に終わっている。第二期土御門殿が失われた長元4年(1031)から20余年の間に3度の焼失と2回の再建を繰り返したこととなる。後半の土御門殿は、上東門院藤原彰子や後朱雀天皇、後冷泉天皇の里内裏として使われることが多く、道長の生前とは役割が異なっている。

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京都御苑 その他の邸宅 その3
博覧会場跡 左京一条四坊十三町

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No. 名称 緯度 経度
  左京一条四坊九町
  左京一条四坊十町
  左京一条四坊十一町
  左京一条四坊十二町
  左京一条四坊十三町
  左京一条四坊十四町
  左京一条四坊十五町
  左京一条四坊十六町
  左京一条四坊九町 35.0231 135.7646
  左京一条四坊十町 35.0219 135.7646
  左京一条四坊十一町 35.0205 135.7647
  左京一条四坊十二町 35.0194 135.7647
  左京一条四坊十三町 35.0194 135.7661
  左京一条四坊十四町 35.0205 135.7661
  左京一条四坊十五町 35.0219 135.7661
  左京一条四坊十六町 35.0231 135.7661

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