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妙心寺 塔頭 その5



妙心寺 塔頭(みょうしんじ たっちゅう) その5 2009年1月12日訪問

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妙心寺 塔頭 海福院

玉鳳院と龍泉庵、東海庵、霊雲院、聖澤院の本派四庵以外の43の塔頭を南西、北西、北東、南東そして一条通の北側の5つのエリアに分けて見て行く。

北東エリア
23光国院 元和 6年(1620) 開山 梁南禅棟 妙心寺100世
                開基 松平忠隆
24雲祥院 慶長 3年(1598) 開山 海山元珠 妙心寺105世
                開基 千坂宗策(亀仙庵)
25長慶院 慶長 5年(1600) 開山 東漸宗震 妙心寺71世
                開基 木下家定の妹
26桂春院 慶長 3年(1598) 開山 水庵宗掬 妙心寺73世
                開基 津田秀則(見性院)
27大雄院 慶長 8年(1603) 開山 慧南玄譲
              勧請開山 蘭叔玄秀 妙心寺53世
                開基 石川光忠
28養徳院 天正11年(1583) 開山 功沢宗勲 妙心寺67世
                開基 石川光重
29蟠桃院 慶長 6年(1601) 開山 一宙東黙 妙心寺79世
                開基 前田玄以
30海福院 元和 2年(1616) 開山 夬室智文 妙心寺135世
                開基 福島正則

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妙心寺 塔頭 光国院 山門

23 光国院 龍泉派

 光国院は北総門を入ったところを左に曲がり、隣華院の北側を真直ぐ進んだ先に位置する。元和6年(1620)美濃加納城主松平忠隆が、父忠政の菩提を弔うため、尾張の総見寺の梁南禅棟を請じて創建した塔頭。
松平忠隆の祖父は三河国作手の国人で加納藩初代藩主の奥平信昌である。桶狭間の戦い後に三河国における今川氏の影響力が後退する中、信昌は、徳川家康の傘下に入る。さらに元亀年間(1570~73年)には武田氏の三河国への侵入を契機に武田氏に属している。元亀4年(1573)家康は三河における武田勢力を牽制するため、自らの長女・亀姫を信昌に娶らせ帰参させている。関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)信昌は加納で隠居し、三男の忠政に藩主の座を譲る。慶長19年(1614)の大坂の陣へは末男の松平忠明の下へ美濃加納の戦力を派兵している。翌慶長20年(1615)に死去。
 慶長7年(1602)に信昌から家督を継いだ松平忠政は生来病弱で、藩政も父の信昌に任せていた。そして慶長19年(1614)7月、大阪の陣に出陣することなく、また父に先立って死去する。享年35.家督は幼少の忠隆が継いでいる。
 松平忠隆は慶長13年(1608)美濃加納藩第2代藩主松平忠政の長男として生まれている。上記のように父である忠政が慶長19年(1614)に亡くなると、祖父の信昌が忠隆に代わって藩政を執るが、翌年には祖父も亡くなる。その後、祖母の亀姫が亡くなる寛永2年(1625)までは補佐を受ける。忠隆も病弱だったため寛永9年(1632)25歳の若さで死去する。忠隆の死の間際に男子が生まれるが、幕府は病弱を理由に家督相続を認めなかった。そのため加納藩奥平氏は改易されている。
 正保2年(1645)に天祥院を開創した松平忠弘の父は奥平信昌の末男で大阪の陣に参加した松平忠明である。父忠政の菩提を弔うために光国院を建立した松平忠隆とやはり同じように、父忠明を祀るために天祥院を開いた松平忠明は従兄弟の関係にあった。しかし松平忠明の家系は移封を繰り返しながらも忍藩で幕末を迎えたのに対して、松平忠隆は忠隆の死を持って終わっている。

 開祖の梁南禅棟は妙心寺100世で、寛永2年(1625)東海派の淡道宗廉を開祖として、千種有能の室長姫が開創した大法院の中興も行なっている。この時から大法院は龍泉派となっている。
 光国院は慧照院の北、もとの麟祥院の西に位置し、勅使の休憩所として使用された名院であった。明治11年(1878)に松平忠明が忠隆の菩提所として寛永年間(1624~44)に創建した実相院を併合、さらに明治の末、忠隆の祖母亀姫の菩提所であった盛徳院の地に移建されて今日にいたる。天祥院、光国院、実相院、盛徳院そして如是院と奥平氏に関わる塔頭が実に多く妙心寺にあったことが分かってくる。

 現在の建物は、大光院庫裏を修復したものとされている。大光院は現存していないが、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には
     大光院〔同所東側にあり、林泉妙境なり〕

とある。

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妙心寺 塔頭 雲祥院 山門

24 雲祥院 東海派

 雲祥院は光国院の東側に長慶院と並ぶ。慶長3年(1598)に細川氏家臣長岡是庸が妙心寺105世海山元珠を開祖に請じて建立した塔頭。また雲祥院は、上杉景勝の臣千坂宗策が創建した亀仙庵を前身とする。
 この「細川氏家臣長岡是庸」とは誰だろうか?上卿三家の家老ニ座の米田氏の米田求政から数えて4代目に養子で入っている米田是庸という人物がいる。肥後細川藩3代藩主細川綱利の時代、寛文9年(1696)陽明学を研鑚学習してきた藩士19人が追放される事件が起きる。幕府が陽明学を「異学」としたため、細川藩も過剰に追随したためであろう。藩主の甥にあたる長岡元知が、綱利の処分に対して譴諫し、永蟄居を申し付けられている。先の米田是庸は元知の嫡子であった。父の元知が永蟄居に、そして子の是庸は継嗣がなかった米田(長岡)是長の養子とした。この人物が「細川氏家臣長岡是庸」なのだろうか?創建時期が全く合っていない。ちなみ笹尾哲雄著の「近世に於ける妙心寺教団と大悲寺」(文芸社 2002年刊)によると慶長3年(1598)に創建されたのは上杉家の老臣・千坂対馬守宗策居士による亀仙庵としている。

 「上杉景勝の臣千坂宗策」は上杉氏の四家老の一つ、千坂家の千坂景親であろうか。景親は天文5年(1536)に越後国蒲原郡に生まれている。上杉謙信が上杉の名跡を継いだ時に、謙信の重臣となる。景親は謙信家臣団にあっては、本営を警固する、親衛隊的な立場にあり、そのため謙信の本営が敵襲により危機に陥らないかぎり、景親には出動の機会はない。そのため景親の名前が合戦記に登場することが少ない。謙信の没後は、上杉景勝に仕える。
 景親は外交・情報収集能力に優れていたため、合戦での活躍ではなく、上杉家の外交役として活躍する。天正14年(1586)に景勝の上洛に付き従っている。また慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後には徳川家との和睦を主張し折衝役を務める。慶長8年(1603)米沢藩の初代江戸家老となる。慶長11年(1606)71歳で死去。

 開山の海山元珠は、南化玄興の法を嗣いでいる。豊臣秀吉の世嗣鶴松の夭折に伴い東山に祥雲寺を開き、開山に南化玄興を迎えている。この祥雲寺の2世住持に海山元珠が就いている。また方広寺鐘銘事件の際、家康に媚びることなく文英清韓の文才を支持したといわれている。鐘銘の作者である文英清韓は、東福寺南禅寺の住持を務め、東福寺の塔頭 天得院に住していた。この後、家康によって祥雲禅寺の寺領と寺宝は知積院に払い下げられている。 祥雲寺にあった豊臣棄丸座像が隣華院に残されているのは、海山元珠が祥雲禅寺から追い出される際、この木像を背中に負って、南山玄興ゆかりの隣華院に移ったからだとされている。既に南山玄興は慶長9年(1604)に入寂している。海山は元和2年(1616)妙心寺に瑞世して105世を継ぎ、元和7年(1621)に直江山城守の室の帰依を受けて妙心寺に宝林院を開いている。これは後の丹波宝林寺となっている。海山は寛永9年(1632)に入寂している。67歳。

 寺伝では明治11年(1878)に瓊林院に合併され、雲祥院の院号が残された。瓊林院は元和3年(1617)熊谷半次が鼇山禅師を開祖に請じて創建されている。当初は桂林院と称していた。合併後の雲祥院は明治42年(1909)に全焼したが、のち再建されている。

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妙心寺 塔頭 長慶院 山門
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妙心寺 塔頭 長慶院

25 長慶院 聖沢派

 長慶院は雲祥院の東にあり、現在の妙心寺の寺域の東北端に位置する。慶長5年(1600)妙心寺71世東漸宗震を開祖とし木下家定の妹によって創建された塔頭。
 木下家定とは、北政所と呼ばれる高台院の兄であり、尾張国の杉原定利と朝日殿の間に長男として生まれる。兄弟には高台院、長生院、杉原くま。この他に弟が1人いたとされている。長慶院を創建したのは杉原くまである。くまは生年も生まれた順番もはっきりしていなが、恐らく天文10年代(1541~50)に生まれたのではないかと考えられている。高台院と長生院は、朝日殿の妹である七曲殿とその夫の浅野長勝に養女としている。そのため高台院は浅野家の娘として、木下藤吉郎と結婚している。長生院も安芸国広島藩主の祖となる浅野長政と結婚している。これに対してくまは、医者の三折全成に嫁いでいる。
 寛永元年(1624)高台院と共に病に罹り。くまは8月に死去。高台院はその1ヵ月後の9月6日に死去している。くまの戒名は長慶院殿寮嶽寿保大姉。

 開山の東漸宗震は天文元年(1532)美濃で生まれている。妙心寺63世以安智察に入門、参禅する。若狭の発心寺・播磨の随鴎寺の住持を経て、紫衣を賜い、妙心寺長慶院に住む。
東漸は高台院の帰依も受けていたが、高台寺の開山招請には応じなかったが、長慶院の要請には応えたようだ。そして慶長7年(1602)東漸は入寂する。71歳。
 ちなみに、安藤次男 梶原逸外著の「古寺巡礼 妙心寺」(淡交社 1977年刊 旧版)に掲載されている妙心寺法系図の東漸宗震には、

     長慶院(木下肥後守室)

と記されている。
 寛文2年(1662)には林豁が取正庵を建立し、延宝8年(1680)には5世の卓宗和尚が長慶院を再興している。明治11年(1878)に京都府下相楽郡の末寺、妙法寺と合併する。本堂を取り壊し、寺号を妙法寺と改めたが、同38年(1905)に長慶院の称に復帰した。現存する門は、伏見城の東門とされている。

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妙心寺 塔頭 桂春院 山門
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妙心寺 塔頭 桂春院 庫裏
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妙心寺 塔頭 桂春院

26 桂春院 東海派

 桂春院は長慶院の南に位置する。慶長3年(1598)妙心寺73世水庵宗掬を開祖とし、津田秀則が見性院を創建したとする説。あるいは石川貞政が妙心寺183世桂南守仙を開祖とし見性庵を創建してとした説もある。寛永8年(1631)に貞政が本堂を再建したとき、両親の法号にちなんで桂春院と改号している。
 津田秀則は美濃岐阜城主である織田信忠の次男として天正9年(1581)に生まれている。異母兄に織田秀信がいる。文禄4年(1595)兄とともにキリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。そして慶長3年(1598)に見性院を創建する。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、兄と共に西軍に属し、美濃岐阜城に籠城する。戦後、兄秀信は改易となり、秀則は豊臣家を頼り大坂城下に移り住む。豊臣家の滅亡にともない、京都に移り住む。晩年は剃髪し、宗爾と称した。寛永2年(1625)京都で死去、45歳。
 石川貞政は、天正3年(1575)石川光政の子として美濃に生まれている。豊臣秀吉に出仕し、秀吉股肱に重臣となり、近江長浜城主に封じられている。秀吉の没後、徳川家康の会津征伐に従軍し、関ヶ原の戦いで東軍として福島隊に属し戦う。その後、豊臣秀頼に仕えて5020石を知行する。慶長19年(1614)片桐且元が大坂城を退去すると前後して貞政も退去し、高野山に上り剃髪している。大坂の陣では徳川方として戦い、旗本となる。寛永年間に編纂された「寛永諸家系図伝」では、姓を石川から石河と改めている。直参旗本として江戸に在勤したが、老後、京都に移り北野今小路に閑居し、余世を茶道に親しんだ。明暦3年(1657)83歳の高齢で歿する。法名は桂春院殿前壱州大守安叟禅石大居士。墓は桂春院境内東の墓地にあり、一族歴代の墓も傍らにある。

 見性庵の開祖とされている妙心寺73世水庵宗掬は美濃鏡島城主石川家の出身である。宗掬は天文2年(1553)の生まれで、慶長17年(1612)に入寂していることから、天正3年(1575)生まれの石川貞政より一世代前の人とも言える。桂南守仙も石川光成の二男とされ、水庵宗掬の法を嗣いでいる(水庵宗掬―周南宗諌―周室紹盛―桂南守仙)。守仙は天正17年(1589)生まれとされているから、ほぼ貞政と同世代人と見ることができるだろう。

 石川貞政が寛永8年(1631)に本堂を修復したときに、近江長浜城から茶室、書院等を移建している。無明慧性墨蹟(重要文化財)を有する。

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妙心寺 塔頭 大雄院 山門

27 大雄院 東海派

 大雄院は桂春院の南に位置する。慶長8年(1603)慧南玄譲を開祖に、法祖である蘭叔玄秀が美濃鏡島城主石川家の人であることから勧請開祖としている。開基は石川光忠で、播州竜野城主であった父石川紀伊守光元の菩提と、祖父石川伊賀守光重以来代々の香華所として創建している。
 石川光忠は文禄3年(1594年)豊臣家家臣で播磨国竜野城主の石川光元の子として生まれる。母は石清水八幡宮の正法寺・志水宗清の娘で、最初に竹腰正時に嫁ぎ竹腰正信を生む。夫と死別後、石川光元の側室となり光忠を生む。しかし光元の正室に男子が産まれたため、お亀の方親子は実家に帰された後、奥勤めに入る。文禄3年(1594年)22歳の時、家康に見初められ側室に入り、文禄4年(1595)に仙千代(6歳で夭折)、慶長5年(1600)尾張徳川家の祖である五郎太(後の徳川義直)を生む。同じ年に起きた関ヶ原の戦いで、石川光元は西軍に与して改易されている。そして翌慶長6年(1601年)に没している。
 光元の子の光忠は、尾張藩主の徳川義直は義兄弟という関係になり、慶長13年(1608)に召し出され、慶長15年(1610)美濃国と摂津国に合計1万300石の知行を賜る。そして慶長17年(1612)家康の命で徳川義直に付属し、名古屋城代となる。そして大坂の陣の際に、義直に従い出陣している。寛永5年(1628)死去。享年35。
石川光忠が大雄院を建立した慶長8年(1603)は、父の死後であるものの未だ家康によって召し出される以前のことであった。
 また祖父の石川光重は、天正11年(1583)に妙心寺67世功沢宗勲を開山として養徳院を創建している。光重は豊臣秀吉に仕え、天正16年(1588)聚楽第行幸の際に天皇の鳳輦に供奉、また、相国寺領の丹波志津子郷における山林伐採の係争を処理するなど、秀吉の側近として活躍している。恐らく戦場で武功を上げる武将ではなく、優秀な行政官だったのではないだろうか。
 石川氏の系図を見て行くと、石川光重の兄は美濃鏡島城主の石川光政でその息子に貞政と勝政がいることに気が付く。すなわち桂春院を創建した石川貞政と勝政兄弟、大雄院に祀られている光元、貞清、一光そして一宗兄弟は従兄弟の関係にあることが分かる。賤ヶ岳の戦いで戦死した一光を除き、残りの5人は関ヶ原の戦いに参戦している。光元、貞清、一光は西軍に与している。そのため、一光は切腹の上で晒し首、光元は戦の翌年に自害したと言われ、貞清も武士を捨て商人になっている。一方勝政は徳川秀忠に従い信濃上田攻めに加わり、貞政も東軍の福島隊に属し戦い、石田隊の服部新左衛門を討ち取り一番首の功名となっている。 これらをまとめると、美濃鏡島城主の石川光政の子たちは、関ヶ原の戦いで豊臣から徳川に乗り換え、その後も徳川家旗本として残って行く。それに対して石川光重の子たちは西軍についたため、商人になった石川貞清以外は不幸な末路を迎えることとなった。ただ、お亀の方によって尾張藩主の徳川義直は義兄弟になった石川光忠が、尾張徳川家の中で新たな芽となって育っていったことは特筆できる出来事であろう。

 創建時には伏見にあった石川屋敷の建物を移し、寛文10年(1670)に新しく建て替え、現存の方丈は享保12年(1727)光忠の100年遠忌を営むにあたって再度建直したものである。方丈の襖絵72面は江戸末期の蒔絵師で有名な柴田是真の筆。

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妙心寺 塔頭 養徳院 山門
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妙心寺 塔頭 養徳院 庫裏

28 養徳院 東海派

 養徳院は大雄院の西に位置する。天正11年(1583)妙心寺67世功沢宗勲を開祖とし、石川光重が父光延の菩提を弔うために創建された菩提所塔頭。功沢は石川光延の子であり、功沢のあとを嗣いだ水庵宗掬も石川氏出身である。既に桂春院や大雄院で記した通り、美濃石川氏のための塔頭。当初は、現在の大雄院、幡桃院、海福院・雑華院の敷地を含む広大な領地を有していたが、しだいに衰微縮小され、安政6年(1859)の再建時に現在の堂宇が建立されている。このとき現在の小方丈の北にあったものが、昭和10年(1935)に現在地に移されている。

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妙心寺 塔頭 蟠桃院 山門
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妙心寺 塔頭 蟠桃院

29 蟠桃院 東海派

 蟠桃院は養徳院の北に位置する。慶長6年(1601)妙心寺79世一宙東黙を開祖と迎え、前田玄以が創建した塔頭。
 前田玄以は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶、武将、大名そして豊臣政権における五奉行(筆頭 浅野長政:司法 石田三成:行政 増田長盛:土木 長束正家:財政 前田玄以:宗教)天文8年(1539)前田基光の子として美濃国に生まれる。はじめは尾張小松原寺の僧侶であったが、後に比叡山延暦寺に入る。しかし織田信長に招聘されて臣下に加わり、後に信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となる。天正10年(1582)の本能寺の変に際しては、信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命で嫡男の三法師を連れて京都から脱出、美濃岐阜城、さらに尾張清洲城に逃れる。信忠は皇太子の誠仁親王を脱出させた後に自害する。
 天正11年(1583)から信長の次男・信雄に仕え、京都所司代に任じられるが、天正12年(1584)に羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉に仕える。豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、天正16年(1588)の後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍する。また寺社の管理も任され、キリシタンを弾圧する。しかし後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採る。慶長3年(1598)秀吉の命により豊臣政権下の五奉行の1人に任じられる。
 秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力する。慶長5年(1600)石田三成が大坂で挙兵すると西軍に加担、家康討伐の弾劾状に署名する。一方で家康に三成の挙兵を知らせるなど内通行為も行っている。豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、病気を理由に最後まで出陣しなかった。これらの働きにより関ヶ原の戦いの後は丹波亀山の本領を安堵され、初代藩主となる。慶長7年死去。享年63。
 玄以が重用されたのは、他の豊臣家の武将達と異なり朝廷に対する影響力であったとされる。また秀吉から信任も厚く、「智深くして私曲なし」とされた。

 玄以没後は堀尾忠氏や稲葉貞通などが、蟠桃院を外護している。これは玄以の娘が、堀尾忠氏正室そして稲葉貞通継々室となるなど姻戚関係で結ばれていたためと考えられる。
 開山の一宙東黙の実兄は伊勢田丸城主の牧村利貞であり、文禄2年(1593)朝鮮(文禄の役)で病死する。享年48。天正11年(1583)に開山一宙東黙、開基牧村利貞で雑華院が創建されている。そして、この2人の父は稲葉重通で、さらに重通の養子の福は春日局である。また一宙の法祖である虚庵慧浜も斎藤利三の弟で、美濃の崇福寺の5世住持を務めている。斎藤利三は本能寺の変で織田信長を自害に押しやった明智光秀の重臣である。つまり稲葉氏、斎藤氏、明智光秀、春日局、そして妙心寺の高僧達は美濃という地縁で緊密に結びついていたことが分かる。その現われが妙心寺の境内に塔頭という形で見ることができるといったら大袈裟だろうか?

 ちなみに崇福寺の公式HPに掲載された崇福寺の歴史(http://www.ccn.aitai.ne.jp/~soufuku/rekishi.html : リンク先が無くなりました )には、中興開山独秀乾才、2世仁岫宗寿、3世快川紹喜、4世拍堂景森、5世虚菴慧浜、6世一宙東黙とある。これは、安藤次男 梶原逸外著の「古寺巡礼 妙心寺」(淡交社 1977年刊 旧版)に掲載されている妙心寺法系図と全く同じである。
 一宙のあとを嗣いだ妙心寺153世雲居希膺は伊達家の帰依を受け、松島・瑞巌寺の中興を果たしている。また蟠桃院の檀越に伊達家を迎えたことで寺統を保持したとされている。雲居希膺は天正10年(1582)伊予国上三谷に生まれる。東福寺内の永明院を経て、妙心寺蟠桃院の一宙東黙に参じる。しかし蟠桃院で出家中の武将塙直之(鉄牛 司馬遼太郎の「言い触らし団右衛門」)に出会ったことで冬の陣の大坂城に入る。戦いの後に捕らえられ、再び妙心寺に戻り一宙の法を嗣ぐ。若狭小浜、摂津勝尾山に隠棲し、後水尾上皇の帰依を受ける。伊達政宗の子忠宗の懇請を受け、中興開山として松島瑞巌寺に入る。瑞巌寺99世。正保2年(1645)妙心寺に入るも、再び松島に帰り万治2年(1659)入寂。

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妙心寺 塔頭 海福院 山門

30 海福院 東海派

 海福院は蟠桃院の西に位置する。元和2年(1616)福島正則が妙心寺135世夬室智文を開祖に請じて創建された塔頭。正則は豊臣秀吉に仕えていたが、関ヶ原の戦いでは徳川方に属す。その改心を、造寺的善行で家康に表示しようとし、夬室と正則の子忠勝が当院を建立したともいわれる。
 福島正則は永禄4年(1561)尾張国海東郡に福島正信の長男として生まれる。母は豊臣秀吉の叔母にあたる松雲院であったことから、幼少より小姓として秀吉に仕え、天正6年(1578)播磨三木城の攻撃で初陣を飾る。天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首という大功を立て、賤ヶ岳の七本槍(福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元)の一人に数えられる。
 武断派の正則は文治派の石田三成らと朝鮮出兵を契機として、一気に険悪な関係となる。前田利家の死後の慶長4年(1599)加藤清正と共に三成を襲撃する。徳川家康に慰留され襲撃を翻意したことから、家康との関係が形成されて行く。そして慶長5年(1600)会津征伐に従軍。三成挙兵の報を受けた小山評定において、正則は家康につくことを誓約し、反転西上の方針が決定する。戦後安芸広島と備後鞆49万8200石の大封を得る。慶長17年(1612)病を理由に隠居を願い出るが許されず、大阪の陣でも従軍はなかった。
 家康死後まもなくの元和5年(1619)台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を幕府に無断で修理したとされ、武家諸法度違反に問われる。高井野藩4万5000石に減封転封され、嫡男忠勝に家督を譲り、隠居する。元和6年(1620)忠勝が早世したことで、正則は2万5000石を幕府に返上する。寛永元年(1624)高井野で死去。享年64。戒名は海福寺殿月翁正印大居士。

 開祖の夬室のあとを嗣いだ斯経慧梁は白隠慧鶴の法嗣であり、町尻家の帰依を受ける。海福院は町尻家の香火寺ともなっている。福島正則の娘が水無瀬兼俊の室となっている。公家の町尻家は、水無瀬兼俊の子の具英が祖となり、町尻具英→兼量→兼重→兼久(説久)→説望→量原→量聡→量輔→量衡と続く。宝暦事件に連座する町尻説久が斯経に帰依したため、町尻家の菩提寺になったとされている。町尻家を福島正則の縁者とするには少し遠い関係のように思える。

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妙心寺 塔頭 桂春院の塀

「妙心寺 塔頭 その5」 の地図





妙心寺 塔頭 その5 のMarker List

No.名称緯度経度
23  妙心寺 光国院 35.0255135.7213
24  妙心寺 雲祥院 35.0253135.7221
25  妙心寺 長慶院 35.0253135.7224
26  妙心寺 桂春院 35.0248135.7224
27  妙心寺 大雄院 35.0241135.7222
28  妙心寺 養徳院 35.0242135.7215
29  妙心寺 蟠桃院 35.0249135.7213
30  妙心寺 海福院 35.0241135.7212

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