文書と写真・地図による「記憶」の再現

日野誕生院

浄土真宗本願寺派 日野誕生院(ひのたんじょういん)  2008/05/11訪問

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日野誕生院

 法界寺の山門を出て、東に進むとすぐに法界寺の築地塀が終わる。その先は誕生院保育園のアコーディオン門扉が続く。そのおかげで中の様子が良く分かった。保育園の園庭の一角、法界寺の池泉を背にした場所に、小さな基壇と塀そして門が築かれ、誕生院のえな塚と産湯井がその中に納められている。この地は浄土真宗の宗祖 親鸞聖人の生誕地であり、えな塚と産湯井は聖人誕生の遺蹟として護られている。

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日野誕生院 えな塚と産湯井 右は法界寺の阿弥陀堂と薬師堂の屋根
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日野誕生院 法界寺薬師堂と保育園

 えなとは胞衣とも書き、出産時のへその緒を示す。古来生まれた子供の健やかな成長や立身出世を祈い家の間口や土間に胞衣壺に入れて埋納する習俗がある。あまり目立たないが京都にも多くの胞衣塚が残されている。
道路沿いの門扉から法界寺側を見るとやはり同じ門扉が設置されていることが分かる。昔は法界寺から誕生院に通り抜けできたという話しをどこかで見聞きした記憶があるが、このような現状ならば本当の話しかもしれない。今は園児を守るため門扉が設置されているのは当然の処置である。

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日野誕生院 石段

 日野誕生院は誕生院保育園の先のT字路の突き当たりの丘の上にある。

 日野の地と日野家については法界寺の設立について書いてきた。法界寺建立後の日野家は、政治の表舞台に留まり、戦国時代に入るまでは常に影響力を持ち続けてきた。
 鎌倉末期 正中元年(1324)の正中の変、元弘2年(1332)の元弘の乱において後醍醐天皇の倒幕計画に日野資朝や日野俊基が協力し、結果的には鎌倉幕府の滅亡と建武の新政を迎える契機となった。
 室町幕府成立後は3代足利義満の日野業子・康子、4代足利義持の日野栄子、6代足利義教の日野宗子・重子姉妹、8代足利義政の日野富子と4代の将軍の御台所を輩出し、9代足利義尚の代まで足利将軍家と結縁を続け、権勢を誇ってきた。
 親鸞は承安3年(1173)に、現在の法界寺付近に日野有範の長男として誕生する。有範は11代日野家当主の日野実光の兄弟にあたるので日野家の庶流となる。さらに後年親鸞は娘覚信尼を同族庶流の日野広綱に嫁がせているため、本願寺を率いた大谷家は日野家の流れをくむこととなった。

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日野誕生院
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日野誕生院
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日野誕生院

 もとより親鸞は自らについての記録を残さなかった上、同時代の記録も少なく判明していないことが多くあった。江戸時代末期の文化年間(1804~17)本願寺第19代本如宗主は、この日野家邸跡を調査し、法界寺境内地が宗祖親鸞聖人の誕生地とした。法界寺と交渉し一部を譲り受けた。文政11年(1828)には、本願寺第20代広如宗主が有範堂を建立した。もちろん聖人の父 日野有範に因んだ命名である。これが日野誕生院の始まりである。
 文久2年(1862)には、この生誕の地を講持する目的の日野誕生講が始まる。明治11年(1878)第21代明如宗主は、この堂宇を日野別堂誕生院と改名し、本願寺の飛地境内とした。立教開宗700年記念法要が大正12年(1923)に執り行われ、記念事業の一つとして誕生院の本堂・書院の改築が計画された。そして昭和6年(1931)に本堂が完成し落慶法要が営まれている。平成18年(2006)には、親鸞聖人750回大遠忌法要の記念事業として本堂と書院の改修が行われた。

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日野誕生院
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日野誕生院

 大樹の傍に石段があり境内はその上に広がる。
 親鸞聖人が誕生した時代を思い起こされるように意図したといわれる建物は本堂と前庭に回廊を巡らせた構成となっている。本堂内陣中央の厨子に本尊阿弥陀如来像、脇侍として左に親鸞聖人幼童の御影像、右に日野有範公の木像が安置されている。前庭には八角の青銅製灯籠一基を中央に、周囲を白砂で敷き詰めている。もちろん一般的な真宗寺院の様式ではないし、何をイメージしていたのかもなかなか思い浮かばない。
kaizanさんのブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/katuradakaizan/14663054.html : リンク先が無くなりました )にはこちらの住職さんから、「中庭は比叡山延暦寺の根本中堂を模している」「本堂内部は大阪の四天王寺の雰囲気をも持っている」というようなお話しを伺っている。 現在の根本中堂は江戸時代 寛永19年(1642)の建物であるし、建物規模も宗派も違う。回廊で廻らした空間構成と中庭の扱いならば寺院よりは神社あるいは廟所により近いものがあるかもしれない。いずれにしても小規模な建物にもかかわらず、前庭に置かれた八角の灯籠に対する中心性の高い空間が作り上げられている。

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日野誕生院

 ところで法界寺の項で参照した日野薬師の都名所図会を再度眺めてみると、池のほとりに井戸らしきものが描かれていることに気がつく。都名所図会の初版は安永9年(1780)に刊行されている。今回参照しているものは天明6年(1786)の再板されたものらしい。第19代本如宗主が聖人誕生の地を探査していたのが文化年間(1804~17)ということだから、それ以前に描かれていた図会であることは間違いない。そこに井戸と塚らしきものが見えるのは面白い。

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日野誕生院 石段脇の大樹

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