炭屋旅館
炭屋旅館(すみやりょかん) 2008/05/14訪問
錦市場を出て、御幸町通を北上し、三条通に入る。三条麩屋町通の角にある あぶらとり紙のよーじや三条店をのぞく。新しいお店と思っていた よーじやも明治37年(1904)に六角御幸町あたりに国枝商店という屋号で店を開いたのが始まりと聞く。この数年の人気の盛り上がりは別としても長く女性に愛されてきた店であることは確かである。
三条通の町並みを眺めた後、本日の宿へと麩屋町通を南に入る。
俵屋や柊屋と比較して、炭屋の旅館としての歴史はそれほど長くはない。
もともと刀の鍔や襖の引手とかを商う鋳物屋だった。3代前の堀部鍈之介がお茶やお花そして謡曲を趣味としていた。鍈之介は裏千家の家元とも強いつながり持ち、家元をはじめ同行の人々を自らの邸に招いたおもてなしを日常のように行っていたらしい。そして京都の外から稽古に来る人を泊めていた。この地は観世流や金剛流などの家元も多く、稽古に来て泊まる場所としては適していたのだろう。お礼を置いて帰ることを何回も繰り返すうちに、宿屋とした方が気苦労も無くなるということで旅館となったのは、大正5~6年(1916~1917)頃のことだったらしい。
先代も先々代と同様に趣味の人であったようで、裏千家の老分も務めていた。老分とは家元を後援し、流儀の発展に貢献したことが認められた門人に与えられる称号である。そのため家元と一緒に全国を献茶に出かけて行くことも度々あった。行く先々で、お茶をするなら炭屋においでと言って回った。そのお蔭で、京都に行くなら炭屋に行こうと全国的にお茶の宿ということで知られるようになった。正式に政府登録の旅館となったのは、昭和に入ってからのことらしい。
この二代に渡る家業にとらわれない、いわゆる文化活動によって、炭屋の現在の位置づけが出来上がったと言っても良いかもしれない。そのため毎月、先代と先々代の命日に当たる7日と17日には釜を懸け、宿泊している人々にお茶を供している。
炭屋には5つの茶室があり、その内の2つ、すなわち玉兎庵と一如庵が現在、使われている。
麩屋町通に面した炭屋の造りは簡素なものである。通りに面した1階部分は塀と犬矢来のような柵が巡らされ、玄関と勝手口以外の開口部分はない。また2階部分の窓にも葦簀が吊るされているので、ほぼ外からは中の様子を窺い知ることは出来ない。このあたりは都心の旅館として当然の構造でもある。通りの先からも見えるように道路上に張り出した細長い看板に白地に黒文字で炭屋と黒地に白抜き英語名で書かれている。夜間には中の蛍光灯が点灯する。この看板の様式はこの通りに面して建てられた旅館に共通している。
麩屋町通に面した間口は非常に狭い。そして玄関の造りも一般の民家とそれ程変わらない。先ほどの通り上部に張り出した看板と玄関の上に置かれた小さな炭屋と記された表札を除けば規模的にも民家に近いものがある。このあたりがもともと旅館としてではなく、茶事を行うように建てられた炭屋の出自を現しているのかもしれない。
円弧状に張り出した表札の掛かる玄関の先には障子の入った窓と、右手側に導くように造られた路地がある。玄関の左には吉井勇の歌碑が置かれている。
「京に来て うれしとおもふ しつかなる 利休このみの 宿のひと夜を」
右手には格子戸があり、ここが炭屋の玄関となっている。格子戸内側から見ると、露地がそれ程広くないことがよく分かる。戸の内側には打ち水の桶と柄杓が置かれている。右側の壁には笠が掛けられ、その下には多分煙草盆が置かれ、ここが旅館であることを表わしている。靴を脱ぎ框を上がると、正面には衝立ではなく衣桁に幕が掛けられている。屏幔と呼ぶのでしょうか?適切な日本語が分からない。到着したお客を迎えるためでなく、奥に続く廊下への視線を遮るため置かれているのだろう。
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