宗忠神社
宗忠神社(むねただじんじゃ) 2008年05月17日訪問
吉田神社の末社・大元宮から境外末社・竹中稲荷社へつながる道を進み吉田山の東麓を下って行く。竹中稲荷社の鳥居が始まる右手前に宗忠神社へとつながる道が現れる。この道は宗忠神社の境内へ脇から入る口で、正式な参道は吉田山の東麓を下ったところから始まる。
宗忠神社は黒住教の神社で、創建が文久2年(1862)と新しく、祭神として教祖である黒住宗忠を祀る。旧社格では県社。
本殿は流造で、明治45年(1912)に改築されている。奥の北社祭神は天照大御神、南社祭神は黒住宗忠が祀られている。北社は二条家から移されている。拝殿は昭和12年(1937)に改築。他には加賀国の霊峰白山を神体山とする白山比咩大神を祀る白山社、赤木忠春神を祀る忠春社がある。
黒住教とは、岡山県岡山市今村宮の神官・黒住宗忠が文化11年(1814)に開いた教派神道で、神道十三派の一つであり、同じ江戸時代末期に開かれた天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられている。教派神道とは神道十三派(戦前に政府から宗教団体として公認されていた13の神道系教団)に代表される神道系新宗教教団のことである。
教祖である黒住宗忠は、安永9年(1780)備前国御野郡中野村の今村宮に仕える禰宜の家の三男として生まれる。宗忠の幼少時代は、備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行であったという言い伝えが残っている。文化7年(1810)31歳で家督を継ぎ禰宜となり、左京宗忠と改名する。文化9年(1812)両親を相次いで失い、極度の絶望状態に陥った宗忠は、翌年に肺結核を患っている。文化11年(1814)死を覚悟した宗忠は冬至の朝の太陽を浴びる中で、天照大神と一体となる神秘的な経験をする。この霊的体験を天命直授と呼び、黒住教を立教する契機となる。病気の癒えた宗忠は、天命を悟り新たなる宗教的活動を開始している。
「天照大神の神徳に感謝し、心を陽気にして生活すればあらゆる願いが成就される」と宗忠は説いている。宗忠の教えは体系的なものではなく、教義も7カ条の「日々家内心得の事」があるだけで、その時々に心に浮かんだことを話すことが多かった。嘉永3年(1850)71歳で亡くなるまで、神道講釈を行いながら様々な託宣や病者の救済を行い、布教活動を続けた。信者は庶民階級に留まらず、武士階級へも広がっていった。信仰の深まった者を神文衆と呼び、教団組織の基盤としながら中国地方を中心に信仰を広めていった。
黒住宗忠の死後、宗忠の神号獲得から宗忠神社創設までは、黒住教六高弟のひとりとされる赤木忠春の尽力によっている部分が大きい。
忠春は文化13年(1816)美作国久米南条郡八出村の庄屋陶太郎左衛門の子として生まれている。後に同郷の大庄屋赤木常五郎の養子となる。天保8年(1837)に両眼を失明したことを契機として、黒住宗忠と会い黒住教に入門する。宗忠が没した直後の嘉永4年(1851)京都へ出て布教を始める。黒住教の合法化を計るため、吉田家に接近している。神号獲得のための請願運動が功を奏し、安政3年(1856)宗忠大明神の神号を得る。
京での布教も熱心に行い、関白九条尚忠は娘・夙子の病気治癒を契機として入門している。この九条夙子は、弘化2年(1845)13歳の時に東宮統仁親王の妃となり、翌年には統仁親王が即位し孝明天皇となっている。この夙子の病気治癒の逸話は、黒住教のコラム・道ごころに詳しく書かれている。 この他にも、最後の関白、人臣としては最後の摂政となった二条斉敬の場合も、同様に令息の病気治癒によって入信している。また三条実美も一時門人であったとされている。このように忠春は公卿へも影響を広げることによって、文久2(1862)京都神楽岡に宗忠神社の建立の許可を得ることに成功している。この敷地も吉田神社より譲り受けている。これも 道ごころ によると以下のようにされている。
吉田神社宮司のご母堂が赤木高弟のお取り次ぎで奇跡的なおかげをいただいていたこともあったと思われます。
それだけ吉田神社の宮司ご自身が「宗忠大明神」へのご信仰があつかったということであろうと思います。
なお、この文書の最後の方で、夙子の病気治癒の逸話は入内後のことであるとされている。朝廷内の高官や皇后が信奉する宗忠神社では、創設直後にもかかわらず国事に関する御祈念だけでも五十数回に及んだとされている。そして慶応元年(1865)には孝明天皇の唯一の勅願所になっている。このような宗忠神社の急ピッチの発展の中、赤木忠春は別派独立の嫌疑を受け、元治元年(1864)に破門されている。この後、身の潔白を証明しようとするが、慶応元年(1865)果たせずに亡くなっている。
赤木忠春が頼った関白九条尚忠も摂政二条斉敬も朝廷の高官であり、孝明天皇に大きな影響を与える位置にあった。そして政治的な立場も朝廷と幕府の間を取り持つことを重視した公武合体派の公卿であった。孝明天皇も討幕の意思が最後までなかったから、これらの公卿の政治思想が朝廷の本流であって当然のことである。
そして文久3年(1863)8月18日に起きたクーデターにより、三条実美を含めた尊皇攘夷派の公卿7名が都落ちしている。これを契機に朝廷内の公武合体派は勢力を取り戻している。そしてそれは、孝明天皇が崩御される慶応2年(1867)まで続く。そのような政治状況の中で、皇祖神天照大神を崇拝することを前面に押し立てた布教活動が、尊皇あるいは尊皇攘夷と強く結びついて行ったことは想像に難くない。そして京から遠く離れた岡山の地にある本部が赤木忠春を破門に処したのは、宗忠神社の政治的色彩が濃くなることを危惧した結果だとも考えられる。このままでは黒住教自体が、幕末期の政争に押し潰されてしまうと感じたのかもしれない。
いずれにしても黒住教が明治以降、いち早く別派独立の許可を得ることが出来たのは忠春の築いた人脈によるところが大きかった。非常に考えさせられるものが宗忠神社の歴史にはある。
境内に色とりどりの七夕飾り 岡山・宗忠神社で28日まつり
宗忠神社で28日から2日間、「七夕まつり」が開かれる。同神社では27日午前中から準備が行われ、東北三大祭りの一つ「仙台七夕まつり」から譲り受けたくす玉と吹き流しの七夕飾り約30本を参道に飾り付けた。