高台寺 その6
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その6 2009年11月29日訪問
浄蔵貴所や瞻西が住した以外にも、謡曲で有名な自然居士も雲居寺を住居としていた。この禅宗系の勧進聖は生没年不詳とされている。しかし永仁4年(1296)に制作されたと考えられている「天狗草紙」に蓑虫、電光、朝露と共に放下の禅師4人組の歌舞説教が描かれていることから、鎌倉後期の聖とされている。円爾弁円派であったことから東福寺 即宗院に自然居士の墓が残されている。もっとも説教者の祖として日本各地を巡ったため、居士の墓とされるものは全国に点在している。脇田修・脇田晴子著の「物語 京都の歴史 花の都の二千年」(中央公論新社 2008年)では、自然居士を鎌倉新仏教の教宣として、曹洞宗の道元に対する比叡山の弾劾と共に触れている。そして単なる破戒僧ではなく雲居寺や法城寺に居住した在家の帰依者であり、大悟の禅者にして庶民に分かりやすく法を説いたため、人気を得たとしている。なお、謡曲「自然居士」は雲居寺の境内で七日説法の結願から始まる。 伊藤克己氏は「大徳寺創立の歴史的前提 ―東山雲居寺と宗峰妙超の「社会的性格」―」(駒澤史学39・40号 1988年刊)で、雲居寺は社会的に非人と位置付けられる人々が居住する場であり、しばしば境内において施行が行なわれていたことを指摘している。先に説明したように鳥戸郷から八坂郷が葬送の地であり、中世において非人が葬送に際して重要な役割を果たしていたため、この地に居住することが多かった。
雲居寺で忘れることが出来ない人物に、大徳寺の開山となる宗峰妙超である。既に大徳寺 その2で触れたように、延慶2年(1309)から正和2年(1313)までの5年間の妙超の事跡は明らかでない。そのため五条橋下に暮らす乞食の仲間に混じり、鴨川上流から流れてくる野菜を拾って食したともいわれている。沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」には
衲子わずかに六七輩、刻苦自らはげみ寒気を忘るるに至る
とあるようだが、弟子の若い雲水と共に貧寒に堪えて人知れぬ修行を行なっていたのであろう。また正中の宗論のために行方不明の妙超を探していた後醍醐天皇は、妙超のまくわ瓜好きを利用して、五条橋下で瓜の施行を行なったという挿話が残っている。橋下に集まった乞食たちに、官吏は「脚なくして来たれ」と言ったため、誰も施行を受けることが出来なかった。これを聞いて妙超は官吏に近づき、「無手で渡せ」と答えたため行方が判明したとされている。頓知問答等は後世の作と考えられているが、この時期の宗峰妙超は乞食=非人の中で暮らしていたことは確かであったようだ。
その後の経緯は不明だが、「東寺長者補任」永享8年(1436)11月9日条に、「夜、八坂塔、雲居寺同極楽堂、金堂、双林寺悉焼失。依清水坂火出之」とある。同11年(1439)、足利義教の命で再興されたが、応仁の乱(1467~77)の兵火に焼かれ廃寺となっている。
「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1993年刊)には京極通錦小路にあった了蓮寺の本尊阿弥陀仏は雲居寺の遺仏と記されている。制作年代は不詳であるものの元禄6年(1693)頃のものと考えられている洛中絵図の寺町通沿いに了蓮寺が描かれている。錦小路の突き当たり光徳寺の西側、すなわち錦天満宮の北側に存在していた。天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の了蓮寺の項にも本尊が四尺五寸の阿弥陀坐像で「当寺本尊初め東山雲居寺にありし時、」とある。現在、田中門前町の百万遍知恩寺の西側に浄土宗の了蓮寺があるので、ここに移転したのであろう。この他にも雲居寺にあった仏像の頭部を持つ阿弥陀如来坐像が十念寺にもある。国史大辞典(吉川弘文館 第1版第1刷1980年刊)の雲居寺の項の最後に以下のように記されている。
慶長10年(1605)高台寺建立のため取り除かれ、寺町今出川の十念寺に合併された。
そして参考文献として、川勝政太郎の「洛東雲居寺と瞻西聖人」を上げている。この論文は昭和26年に発行された「史迹と美術 214号」(史迹美術同攷会 1951年刊)に掲載されている。この中で川勝は以下のように書いている。
平安後期以来ここ霊山に近く位置して名寺として知られたのでありましたが、応仁の乱の兵火に伽藍は亡び後に再興したものも慶長十年(1605)高台寺を建立する際に地所を取り上げられて、十念寺(上京区寺町今出川上ル)に合併された由です。殆どあるかなきかの寺になっていたのでありましょうが、これで事実上廃滅してしまったわけであります。
(略)
雲居寺を合併したといふ上京の十念寺に雲居寺の古仏と伝える丈六の阿弥陀坐像が本尊として安置されています。
十念寺は浄土宗西山光明寺派に属し華宮山 宝樹院と号する寺院。永享3年(1431)に後亀山天皇の皇子・真阿上人が、足利幕府第6代将軍足利義教の帰依を受け、当時元誓願寺小川にあった誓願寺の山内に住房宝樹院を建てたのが始まりとされている。その後、宝樹院が十念寺に改まった経緯は不明であるが、天正19年(1591)秀吉の命により現在の寺町今出川上ルに移転している。川勝政太郎の説に従うならば、寺町今出川に移転してから合併したこととなる。
先に記したように「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)によると、雲居寺は「伝て高台寺方丈の地、及其東西に亘る所と云ふ」と現在の高台寺の位置にあったと考えられている。さらに瞻西が建立し、法然が百日参詣した証応弥陀院も「今高台寺春光院の前の池のある所。即ち勝応弥陀院の旧址なり」としている。謡曲「熊野」に出てくる「寺は桂の橋柱」は、高台寺の塔頭岡林院の地にあった桂橋寺のことであり、雲居寺と共に応仁の乱の兵火に焼かれ廃寺となっている。本尊の観世音像祇園町の仲源寺(目疾地蔵)に移されたとしている。
京都坊目誌にはこの他にも、「下河原町の東に在りと。今は詳ならず。或云今の高台寺方丈の地より。東北雙林寺の間にありしと。」する金山院の址、「下河原町高台寺中に在り。今其地を詳にせず。或云ふ高台寺総門の東辺に当ると。」する引攝寺の址などを記している。また「下河原町高台寺の地にあり。高台寺十境の中に岩栖洞あり則ち是なり。」とある岩栖院の址、「元岩栖院中にあり。風景極て佳なり。京洛を眺望すと。或説に高台寺の時雨亭は桃山より移す所なるも。其地は竹間亭の跡なりと。」とする竹間亭や、「同域内にあり。今詳ならず」とする振鷺亭址などがあったことも分かる。
岩栖院は次の項で触れることとする。桂橋寺については雲居寺の一宇であるが、開基不詳とされている。
金山院の地には鳥羽院政期の中納言・藤原家成の別業があった。久寿元年(1154)家成が亡くなると、この別業の地に葬られている。長男の藤原隆季が雲居寺に一宇を建立し、鷲峰山金仙院(金山院あるいは金山寺)と号している。隆季が創建した金仙院は長男の隆房、そして孫の隆衡を経て隆親に継がれている。すなわち四条家の開祖となった藤原隆季から代々四条家によって護持されてきた。四条隆親が亡くなると二家に分かれる。隆親の長男の房名が四条家を継ぎ、三男の隆良が新たに鷲尾家を起こしている。鷲尾家の鷲尾は、その宿所の東山鷲尾による。
藤原家成は岡崎に善勝寺を建立したが、応永年間(1394~1427)には既に荒廃していた。これを金仙院に合わせたが、金仙院も応仁の乱の始まる直前の文正年間(1466~7)には衰退していたようだ。また鷲尾家の別業も応仁元年(1467)8月の兵火により焼亡している。ただしこの後も南霊山の北下に鷲尾家の所有地は残っていた。この鷲尾家と高台寺との関係については次の項で触れることとする。
引攝寺は建仁元年(1201)4月藤原宗貞が建立し、翌年の8月に僧源空、すなわち法然上人が慶している。これは比叡山の僧徒が専修念仏の停止を迫って蜂起する以前の事である。引攝寺は何時頃に衰亡したかは明らかでない。
「高台寺 その6」 の地図
高台寺 その6 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 高台寺 台所坂 | 35.0005 | 135.7802 |
02 | ▼ 高台寺 庫裏 | 35.0008 | 135.7808 |
03 | ▼ 高台寺 遺芳庵 | 35.0011 | 135.7813 |
04 | ▼ 高台寺 偃月池 | 35.001 | 135.7815 |
05 | ▼ 高台寺 臥龍池 | 35.0008 | 135.7818 |
06 | 高台寺 書院 | 35.0009 | 135.7812 |
07 | 高台寺 方丈 | 35.0007 | 135.7812 |
08 | ▼ 高台寺 方丈南庭 | 35.0005 | 135.7812 |
09 | ▼ 高台寺 勅使門 | 35.0004 | 135.7812 |
10 | ▼ 高台寺 観月台 | 35.0009 | 135.7814 |
11 | ▼ 高台寺 開山堂 | 35.0009 | 135.7816 |
12 | ▼ 高台寺 臥龍廊 | 35.0009 | 135.7819 |
13 | ▼ 高台寺 霊屋 | 35.0009 | 135.7821 |
14 | ▼ 高台寺 傘亭 | 35.0006 | 135.7826 |
15 | ▼ 高台寺 時雨亭 | 35.0005 | 135.7826 |
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