文書と写真・地図による「記憶」の再現

嵯峨野の町並み その6

嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その6 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問

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大悲閣千光寺からの眺望

 二尊院 時雨亭跡からの眺めは、残念ながら木々が密生しているためあまり良いものではなかった。恐らく展望台として整備していないためであろうが、そのような整備を行われずに今のままの姿であることを望む。

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大悲閣千光寺からの眺望 比叡山と双ヶ丘
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大悲閣千光寺からの眺望 双ヶ丘
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大悲閣千光寺からの眺望 比叡山と仁和寺

 この日は大悲閣千光寺大河内山荘常寂光寺、そしてこの二尊院と、少しづつ北に移動しながら眺望を見比べる楽しみがあった。特に大河内山荘から常寂光寺にかけての位置から眺める京都の町並みと比叡山の姿は大変美しい。仁和寺から双ヶ丘にかけての柔らかな山並みと五重塔を始めとする寺院の伽藍は、洛西からの眺めに欠かすことはできないものだろう。大悲閣千光寺は南北の位置関係よりは、西に離れたことによって異なった眺望となった。眺望の範囲は広いものの京都の町並みから少し離れてしまった印象が強い。ここからの眺望は京の町並みと共に足元に広がる嵐山の自然風景を一緒に楽しむべきものであろう。 二尊院の時雨亭からの眺めは視界が開けていないものの、常寂光寺から僅かに北に移動した分、眺めの印象が大きく変わった。この地にもう少し高い見晴らしの良い場所があるならば、似たような光景が得られたのではないかとも思う。その昔、後水尾法皇が山荘を探して洛北の岩倉から洛西の衣笠にかけて探したことが分かったような気がした。

 時雨亭跡から湛空上人廟に戻り、角倉家墓地、三帝の塔などを回り本堂に戻ってきたころには、既に嵐山花灯路が始まる時刻になっていた。昨年も嵐山花灯路を見たので、この催しについての説明は行わず、花灯路の写真だけを掲載し嵯峨野の町並みについて再び考えてみる。

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大河内山荘からの眺望
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大河内山荘からの眺望
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大河内山荘からの眺望 双ヶ丘

 古代の嵯峨野は、葛野川すなわち現在の桂川が度々の氾濫を繰り返したため、沼沢地であった。そして多くの未墾地を開拓したのは秦一族とされている。葛野川に大堰が完成したのは6世紀の頃とされているので、罧原堤を築き田野の開拓がなされたのも同時代だったと考えられている。「日本三代実録」の元慶6年(882)12月21日の条に以下のように記されている。

山城国葛野郡嵯峨野。元既不制。今新加禁。
樵夫牧竪之外。莫鷹追一レ兎。

 嵯峨は延暦13年(794)の平安遷都以降は禁野とされて宮中の遊楽の地とされてきた。嵯峨天皇が即位したのは大同4年(809)のことであったが、既に皇子時代から嵯峨に山荘を所有していたと考えられている。そして即位後は離宮として利用している。「日本後記」の弘仁5年(814)閏7月27日の条に以下のように記されたのが嵯峨院の初見である。

辛丑 遊猟北野。日晩御嵯峨院
侍臣衣被

 嵯峨天皇は嵯峨を余程気に入ったようで、度々嵯峨院へ行幸されている。弘仁14年(823)淳和天皇に譲位され後院を冷泉院に決めた後も嵯峨を訪れている。ついに承和元年(834)には嵯峨院内に御所を新造し、同年8月9日に正式に遷居している。檀林皇后も上皇に従い嵯峨院で暮らし、承和3年(836)頃に檀林寺を建立したとされている。嵯峨院が大覚寺に改められたのは、嵯峨天皇の皇女であり淳和天皇の皇后となった正子内親王の時代であった。

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大覚寺 2008年12月21日撮影
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清凉寺 2008年12月21日撮影

 ほぼ同じ時代に嵯峨野には源融の山荘の棲霞観があった。源融は嵯峨天皇の12男で侍従、右衛門督、大納言などを歴任し従一位左大臣に至っている。六条河原院を造営したことから、河原左大臣と呼ばれている。「日本三代実録」の元慶4年(880)8月23日の条に以下のように記されている。

太上天皇遷水尾山寺。御嵯峨棲霞観。(中略)
棲霞観者。左大臣山荘也。故有也。

 融が寛平7年(895)に没すると、棲霞観は棲霞寺に改めている。その後、寛和3年(987)唐から帰国した東大寺の僧・奝然が愛宕山を中国の五台山となぞらえ大清凉寺と号する寺院の建立を計画したが、果たせずに長和5年(1016)に没している。奝然の弟子の栴檀が棲霞寺内の釈迦堂に釈迦如来増を奉安し、勅許を受け五台山清凉寺と号したことが現在の清凉寺の始まりとなっている。

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二尊院からの眺望
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二尊院からの眺望
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二尊院からの眺望 比叡山と仁和寺

 平安時代前期の嵯峨野の様子は、上記のように禁野に定められた中に、先ずは嵯峨院の前身となる山荘が神野親王によって建てられ、それが嵯峨院となった。そして上皇が嵯峨院に移るとともに檀林皇后により檀林寺が建立される。この2つの中核となる施設とほぼ同時期に源融によって棲霞観が造営されている。
 「よみがえる平安京」(淡交社 1995年刊)によると、天長5年(828)の状況をまとめた「山城国葛野郡班田図」より記載された216町の内、田は約19町、畠も約17町に過ぎずなかった。この時代の嵯峨野のほとんどが野か山であったことが分かる。桂川の右岸の松尾辺りが比較的早くから開拓されたのに対して、嵯峨野の開拓がなかなか進まなかったのには、この地の大部分が洪積台地上にあり農業用水を得ることが困難だったと同誌では推測している。
 嵯峨院などの造営が行われる以前から、葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡には条里プランが制定され、条里地割が行われていたと考えられている。それは平安京遷都よりも前のことだと考えられている。「平安京提要」(角川書店 1994年刊)に掲載されている金田章裕氏の「郡・条里・交通路」には、平安京周辺4郡の条里プラン概要図が掲載されている。条里プランは1町(109.09m)四方の正方形で土地が区画され、六町四方で里となる。つまり1里は109.08×6=654.48m四方の区画である。葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡の4郡では既にこのような条里地割が行われ、開発が開始したと考えられている。

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二尊院 時雨亭跡からの眺望

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