文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御所 その4

京都御所(きょうとごしょ)その4 2010年1月17日訪問

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京都御所 南西隅

 京都御所 その3では、延暦13年(794)の平安京造営時の内裏から、安土桃山時代の内裏までの変遷について見てきた。内裏が火災などで焼失した際には、大内裏の官衙、京中の後院そして公家邸宅を仮御所として利用している。内裏は天徳4年(960)9月23日夜に炎上している。この時も内裏が再建されるまで仮御所が定められた。罹災と内裏再建を繰り返す中で、公家邸宅の仮御所が内裏に準ずるものとなり、平安京の里坊内に里内裏が生まれるようになっていく。 内裏の再建は平安時代の間は行われてきたが、鎌倉時代に入った安貞元年(1227)4月22日の類焼以降は行われることが無かったようだ。これは朝廷の権威の低下及び経済的な衰退によるものかもしれない。いずれにしてもかつての平安京の内裏は荒廃し、天皇は里内裏そのものを内裏としなければならなかった。そして冷泉富小路殿、五条大宮殿、二条殿、大炊御門殿など多くの里内裏が生まれたが、最終的には、平安京北辺四坊二町にあった土御門東洞院殿が内裏として使われるようになっていった。この内裏は現在の京都御所の西南隅に位置していたが、その規模は方1町、すなわち119m四方(1尺=2.96445m)と、現在から考えてもかなり小規模なものであった。
 明徳3年(1392)閏10月5日に南朝の後亀山天皇により三種の神器が土御門殿に移され、南北朝が統一されたことにより、土御門東洞院殿が内裏として固定されるようになる。つまり、これから600年余の間、規模は違えども現在の京都御所の地に内裏が存在していたわけである。室町時代には足利幕府によって内裏の修造が行われたが、応仁の乱の間は足利氏の室町第に玉座を移さざるを得ない状況にもなっている。
 さらに戦国時代の終結により織田信長や豊臣秀吉によって御所の修造も行われたが、その規模が著しく拡大することはなかったようだ。相変わらず人臣の邸とさほど変わらない規模の内裏であった。ただし秀吉の京都都市改造の一環として御所の周囲に公家の邸宅を集住させる政策が執られ、やがて御所を中心とした公家町が生まれることとなる。

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京都御所 南東隅

 この項では以上の内裏の変遷の続きとして徳川幕府による御所造営の歴史について見てゆく。
 関ヶ原の戦いから大坂夏の陣の間に位置する慶長11年(1606)と同16年(1611)の2回にわたって徳川家康は内裏の造営に着手している。最初の慶長11年の内裏拡張工事では後陽成院の院御所の造営であり、内裏主要部に対する変更は無かったようだ。2回目の慶長16年(1611)の改修は、同年4月の後水尾天皇の即位に合わせたものであった。この時、天正17年(1589)に秀吉によって造営された紫宸殿を泉涌寺の海会堂に改め、他の殿舎も建替えを行い内裏の一新を図っている。また内外の築地は諸大名に築かせていることから、豊臣家に対する優位性を示す行動であったのかもしれない。さらに工事は続き、翌17年(1612)12月11日に木作始式を行い、慶長18年(1613)12月には一応の完成をみている。同年12月19日に後水尾天皇も仮内裏から新内裏へ還幸されている。江戸時代には計8度の造営が行われているが、慶長度造営が最初のものであった。 元和6年(1620)6月18日、二代将軍秀忠の女和子が後水尾天皇の妃として入内している。これに合わせて元和5年(1619)頃より小堀遠州によって女院御所造営工事が進められた。その敷地は内裏の北にあった旧後陽成院御所の敷地の一部を併合し、前例のないほどの規模の女御御所と御里御所が造営された。
 この慶長・元和度造営の規模は南側115間半、東側103間、西側119間、北側136間(6尺5寸間=1.083間=1.97m)とほぼ正方形に近い敷地であった。天正度の内裏の東に設けられた正親町院御所の敷地を取り込んで東側に拡張している。また紫宸殿前に天正度造営にはなかった南門を設けたことにより、それまでの里内裏の様式を脱することとなった。

 寛永3年(1626)後水尾天皇の二条城行幸が行われている。この行幸のため、寛永元年(1624)より作事奉行は小堀政一で改修されている。これは元和6年(1620)の和子の入内の際に、二条城から御所への行列を作るため、元和5年(1619)から遠州によって行われたものに次ぐ改修であった。二条城行幸では舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催され公武の融和が成されたが、半年後の寛永4年(1627)には、有名な紫衣事件が起こっている。

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京都御所 北西隅
南西隅・南東隅の石垣部分との違いに注目

 遡ること慶長18年(1613)幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図る目的で、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定め、さらに慶長20年(1615)に禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じている。それにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。これを知った幕府は、寛永4年(1627)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じている。さらに同じ年には徳川家光の乳母である春日局が無位無官で朝廷に参内するなどもあり、僅か半年で朝幕の関係は冷え込んでしまっている。寛永4年(1627)11月、幕府は小堀政一を仙洞御所造営の奉行に任じている。仙洞御所は元京都新城の地に建設され、その敷地の北側には大宮御所も造営される。これは後水尾天皇の在位中であることから、譲位を迫る行為でもあった。遠州は寛永5年(1628)3月頃までに、二条城より行幸御殿(梁行11間、桁行14間)、御次之間(梁行5間、桁行18間)、中宮御殿(梁行5間、桁行8間)と四脚門と唐門を現在の仙洞御所のある場所に移築している。さらに同年(1628)2月頃から新築建物の建設に取り掛かっている。これには意外な年月を費やしている。後水尾天皇は仙洞御所の工事状況とは関係なく、寛永6年(1629)11月8日に明正天皇に突然の譲位を行っている。女一宮を禁中に据え、自らは中宮御殿、すなわち元和度に造営された女御御所に移られている。そして寛永7年(1630)12月10日に新造なった仙洞御所に後水尾上皇が移られている。なお仙洞御所の作庭は、寛永11年(1634)の仙洞御所庭泉石構造の奉行拝命後の仕事である。

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京都御所 北西隅 皇后門と穴門
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京都御所 西面 清所門と宜秋門

 上記の事件に一応の終結が付いた後、幕府は慶長造営の内裏を取壊し、再び小堀遠州を総奉行として本格的な内裏造営、すなわち後水尾天皇より譲位された明正天皇のための新内裏建設を目的とした寛永度造営に着手している。徳川幕府にとっては2度目の造営であり、小堀遠州にとっては、元和度の女御御所、寛永度の仙洞御所造営に引き続く総奉行でもあった。寛永18年(1641)正月26日木作始めが行われ、6月10日に立柱、そして翌19年(1642)6月18日に明正天皇が仮御所からの還幸を果たしている。寛永度造営の工事坪数は4085坪と慶長度の2783坪を遥かに超える大工事となった。

 寛永度造営の内裏は、わずか10年余の後の承応2年(1653)6月23日の禁裏清所より発火した火事により炎上している。この時に被災した範囲は内裏とその西の公家屋敷数軒と限られたものであったようだ。そのため、仙洞、新院、女院の三御所への延焼はなかった。
 三度目の造営となる承応度造営は承応3年(1654)3月12日の木作始によって開始している。禁裏造営に関しては官費によって賄われるが、築地については慶長の時と同じく、大名に課金を命じている。同年8月22日に内侍所等の立柱上棟が行われたが、9月20日に後光明天皇が仮内裏で崩御されたため、一時工事は中断している。明暦元年(1655)11月10日に後西天皇が新内裏に還幸されている。この承応度造営は焼失した寛永度の内裏の跡に建てたため、敷地の大きさに変化はなかった。南側115間半、西側129間2尺、北側115間5寸であった。

 寛永度内裏が火事により焼失したため、承応度内裏の主要建物は銅瓦葺としたが、新造まもなく再び炎上している。万治4年(1661)正月15日、関白二条光平室賀子内親王家より出火があり、内裏、後水尾院の法皇御所、東福門院の女御御所、明正院の新院御所等が炎上し、公家屋敷119、社寺16、民家558が焼失している。寛永度造営後僅か5年余で、徳川幕府は再び御所、さらに仙洞、女御そして新院の御所造営を行わねばならなくなった。寛文2年(1663)5月2日に木作始、6月2日に内所の立柱、11月5日に上棟式が行われている。翌寛文3年(1664)正月27日に神器が新造の内侍所御本殿に渡御、4月27日に新内裏で霊元天皇の即位式が行われている。この度の造営では、4人の大名が御手伝いとして任命され、一万石あたり人夫100人までを出させている。つまり度重なる造営で、幕府も財政的基盤が緩みつつあったための処置である。
 寛文度造営の規模は前内裏とほぼ同じものであった。南側115間3尺6寸、西側128間6尺2寸、東側128間5尺7寸6分であった。細かい点では若干の変化があったものの、承応度造営の内裏の配置計画がほぼ踏襲されている。ただし建物は次第に複雑化しているため、寛永度造営の敷地では手狭になりつつあった。

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京都御所 清水谷家の椋

 上記の寛文度内裏が再び焼失したのは霊元天皇が在位中の寛文13年(1673)5月8日のことであった。8日の夜丑時、関白鷹司房輔邸より火事が起こり、本院御所を除く、内裏、仙洞御所、女院御所、新院御所等が焼失している。多くの公家屋敷も焼失、町数130、家数13000余を焼き払う寛文大火となった。
 延宝度造営は仙洞御所と女院御所から始められた。延宝3年(1675)正月19日に内裏の木作始が行われ、同年11月9日に地鎮祭が行われている。そして同月16日に上棟式が行われ、新内裏還幸は27日に行われることが定められていた。しかし延宝3年(1675)11月25日の午刻に再び火事が発生し、延宝大火となった。前回の火災で焼け残った本院御所もこの大火で焼失している。新築なったばかりの新内裏は類焼を免れたので、当初の予定通り11月27日に還幸が行われている。延宝度内裏の規模は承応度造営とほぼ同じものであった。南側115間3尺3寸9分、西側129間6寸、北側112間5尺6寸、東側129間3尺2寸9分であった。

 東山天皇の宝永5年(1708)3月8日の午刻、油小路姉小路より発した火は、西南の強い風に吹かれ再び大火となる。火は東北に広がり、内裏を始めとし仙洞御所、女院御所、東宮御所、中宮御所、女一宮御所など焼いた。北は今出川、南は四条、東は鴨川、西は堀川までの地域が焼失する宝永大火となった。町数417、家数13370戸が灰燼に帰した。宝永度造営が徳川幕府にとって通算6度目の造営となった。今回の火災で焼失した公家殿上人には所司代より邸宅を新営するための費用が頒布されている。また新内裏も天正度造営以来の拡張がなされ、東西方向は今日の規模となっている。
 宝永5年(1708)9月2日に内裏の木作始が行われ、翌宝永6年(1709)3月29日に立柱式、7月26日に上棟式、9月15日に地鎮式、そして同月26日に工事が完了している。この間に東山天皇は仮内裏において中御門天皇に譲位をされており、新帝が新内裏に入られたのは11月16日のことであった。新築時には中御門天皇が若年であったため女御御所が建設されなかったが、正徳5年(1715)に女御御殿が竣工している。
 宝永度造営によって内裏は敷地面積14,265坪から22,201坪へ大きく拡大された。この拡張の結果、ほぼ矩形であった内裏が南側125間半、西側198間となった。つまり東北隅に大きな切り欠けを造ったため、東側は150間で西に折れる。50間で北に折れ再び48間で北側の73間半の築地に達する。欠け部分が東西50間南北48間であったことが分かる。

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京都御所 穴門

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