京都御苑 厳島神社
京都御苑 厳島神社(きょうとぎょえん いつくしまじんじゃ) 2010年1月17日訪問
白雲神社、宗像神社に続き京都御苑内三つ目の神社として厳島神社について書く。厳島神社は宗像神社のさらに南、九条家の庭園の傍らに建つ。主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神、そして祇園女御を配祀する。配祀神はもともと平清盛の母の霊であったが、後にその姉の祇園女御に変えられと考えられている。 応保2年(1162)2月に平清盛は日宋貿易の拠点として、摂津国兵庫津の大輪田泊の前面に防波堤となる築島に着手するが、同年8月の大風によって破壊される。翌長寛元年(1163)3月に工事を再開している。この島の規模は、「平家物語」長屋本巻第十二 兵庫島築始事によると「一里三十六町」とされていることから、承安4年(1174)には37ヘクタールほどに達している。この人工の島は経が島、経ヶ島あるいは経の島とも呼ばれ、後世になって兵庫津に因み兵庫島とも称されている。しかし神戸市の公式HPにあるように、近代以降の都市化により正確な位置を確定することは困難になっている。一応、神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南でJR西日本和田岬線以東の地であったと考えられている。そして承安5年(1175)には修築工事の一応の区切りを迎えたようだ。ただし大輪田泊の開発自体は清盛の時代では完成せず、平家政権滅亡後に工事再開を許された東大寺の重源によって建久7年(1196)に成されたとされている。
大輪田泊の修築工事の中でも築島工事は難航を極めたようで、迷信を信じる人々は海神の怒りを鎮めるための人柱を立てることを進言している。「平家物語」巻六 経の島には、清盛が人柱を捧げずに工事を進めるため、石の一つ一つに一切経を書いて埋めたとされている。また、諸説あるようで松王丸が囚われの人々の身代わりとなり人柱となったという伝説や松王丸の墓を祀る来迎寺(築島寺)なども残っている。清盛は難工事の末に完成した経が島に、安芸国の厳島神社の宗像三女神を勧請し社殿を築いたことは、現在の厳島神社の社頭に掲げられている駒札にも記されている。
厳島神社に配祀されている祇園女御は、源仲宗の妻、あるいは仲宗の子・惟清の妻、さらには宮廷仕えの女房と諸説ある女性。女御の宣旨は下されなかったが、居住地に因なみ祇園女御、または白河殿と呼ばれていた。白河法皇晩年の寵愛を受け、長治2年(1105)祇園社の南東に堂を建立している。堂内には丈六阿弥陀仏を安置し人々の耳目を驚かせたということよりも、妃や中宮にも劣らない権勢を振っていたと考えられる。
「平家物語」巻六 祇園の女御の事には以下のように記されている。
またふるい人の申しけるは、清盛公は只人にはあらず。まことには白河院の御子なり。
この章は祇園女御が法皇の子を身籠ったまま清盛の父平忠盛に下賜されたという内容となっている。ただし鎌倉時代以降に成立した平家物語をそのまま信じることは難しい。滋賀県多賀町の胡宮神社が所蔵する「仏舎利相承系図」には、清盛の生母は祇園女御ではなく、その妹と記されているため、近年では清盛の母を祇園女御ではなくその妹とみる説の方が優勢となっているようだ。上記の系図を信ずるならば、清盛3歳の保安元年(1120)に母は病没し、叔母にあたる祇園女御が清盛を引き取り猶子としている。鳥羽天皇の中宮で、崇徳・後白河両天皇の母となった藤原璋子(待賢門院)も祇園女御の猶子となっているので清盛が祇園女御の猶子となっても不思議はないのかもしれない。
駒札によると、神社が現在の地に遷座した時期は、天明8年(1788)に発生した天明の大火により旧地悉く燃え尽きたため不詳としている。上述のようにもともと厳島神社は経が島に祀られていたが、室町時代後期第12代将軍・足利義晴によって細川高国邸に移築、それを明和8年(1771)に九条道前が幕府に乞うて現在地へ再移築したとされている。因みに九条道前はその前年の明和7年(1770)6月5日に既に没しているが、この話は成立するであろうか?また上京区の公式HPに掲載されている上京区の史蹟百選/厳島神社では以下のように記している。
笠木を唐破風形にした石鳥居は、京都三珍鳥居の一つで、重要美術品に認定されており、清盛が厳島に建立したとの説もありますが、室町時代の作と考えられています。
京都三珍鳥居とは、太秦の木嶋坐天照御魂神社の三本柱鳥居、北野天満宮内の伴氏鳥居と厳島神社の唐破風鳥居である。
また重要美術品とは、文化財保護法施行以前の旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に基づき日本政府が、日本国外への古美術品の流出防止を主目的として認定した有形文化財のことであり、1950年の文化財保護法施行により前記の法は廃止されたものの重要文化財に格上げ指定された場合、あるいは重要美術品等認定物件の海外輸出が許可された場合を除き、認定効力を保つこととされている。恐らくこの石鳥居も未だ重要文化財に指定されていないため、表記上は重要美術品のままとなっているのであろう。今後、重要美術品の取り消しが行われない限り、重要文化財への格上げを待つしかないようだ。
この記事へのコメントはありません。