京都御苑 出水の小川
京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ) 2010年1月17日訪問
出水口より京都御苑に入ると右手にせせらぎが見える。傍らに立つ駒札には出水の小川と記されている。明治時代に御所の防火用水を確保するため、琵琶湖疏水を使用した御所水道が作られている。出水の小川は1981年に御所廻りの御溝水から導水して作られたせせらぎである。しかし1992年の御所水道が停止したため、井戸からくみ上げた地下水を循環ろ過して使用しているという。この情報だけではよく分からないので、御所で使われる水について少し調べてみる。
先ず、御所水道について触れる前に、同じく疎水を使用して先行して作られた本願寺水道を見て行く。既に渉成園 その3で本願寺水道について記しているが、2008年以降に分かったことも含め改めて書く。本願寺水道は新営なった真宗本廟(東本願寺)の堂宇を火災から守るために作られた水路であり、水源を琵琶湖疏水に求めている。もともと疎水の起工趣意書には、①水車動力 ②通船運輸 ③灌漑用水 ④精米水車 ⑤防火用水 ⑥飲料水 ⑦河川の浄化 7項目をあげているため、本願寺水道の開設は⑤の防火用水に該当する。設計者は琵琶湖疏水と同じ田邊朔郎であった。なお水力発電は当初は無く、途中での方針変更によって生まれている。 本願寺水道を開設するために、蹴上のインクライン頂上に長さ19メートル、幅9メートル、深さ3メートルの専用の貯水池を設けている。そして長さ54メートル、幅0.9メートル、高さ1.35メートルのトンネルを掘り、疎水を貯水池に導いている。貯水池からは東本願寺までの送水には鋳鉄管を使用している。その経路は、先ず蹴上より三条通を西に進み、次に白川疎水の西岸に沿って東大路通に入り、八坂神社の前で四条通に入り西に向かう。その後、南に進路を替え建仁寺の西側、大和大路通を南に下り五条通に出る。鴨川を五条大橋の桁下で渡り、渉成園を経由して東本願寺北側の松林に設けた貯水池に至る。この間の敷設工事のみを取り上げると、僅か45日間で完工している。
大窪健之氏の「文化遺産を守る歴史的防災水利プロジェクト ~百余年前に敷設された本願寺水道を訪ねて(http://www.bunkaisan.or.jp/PDF/12.pdf : リンク先が無くなりました )」(NPO法人災害から文化財を守る会 2006年12号)によると、本願寺水道は総延長4662メートルに及ぶが、鴨川と高瀬川そして東本願寺の外堀以外は地下を通っているため、目に触れる機会がない。一般水道とは別に敷設されたため、専用マンホールを建仁寺前の大和大路通に設けている。貯水池の建設、疎水との接続、そして蹴上から東本願寺までの配管工事は明治27年(1894)7月より始まり翌28年(1895)3月に完了している。さらに明治30年(1897)8月までに、総延長3541メートルに及ぶ境内配管工事及び消防設備のドレンチャーと放水銃の整備が完了している。 第一疎水の着工が明治18年(1885)で、5年後の明治23年(1890)に竣工している。この第一疎水と疎水分線の建設には125万円を要している。本願寺水道敷設工事は第一疎水完成から4年経て始められており、工事総額は14万4303円に達している。これは当時の京都府の年間予算の4分の1に匹敵するもので、門徒衆が捻出したとされている。同時期に行われた御影堂、阿弥陀堂の再建とともに東本願寺にとっても明治期の一大事業であったことは間違いない。
東本願寺は、天明8年(1788)の天明の大火から元治元年(1864)のどんどん焼け(禁門の変の火災)までの70余年で4度に及ぶ甚大な被害を受けている。特にどんどん焼け後の御影堂と阿弥陀堂の再建は、明治13年(1880)に起工し明治28年(1895)までの15年間を費やしている。前述のように、この両堂を永く守るために本願寺水道は作られている。
水源地である蹴上の貯水池と東本願寺の地盤面との間には、48メートルの高低差がある。これは御影堂の最高高さに9mを加えた数字である。直径30センチの仏国クエージ水道社製鋳鉄管に毎秒13.9リットルの水を送ることにより、最大水圧51.2t/m2を得る。口径100mmの放水口で高さ14.4m、口径50mmでは40mに達した。これにより御影堂の屋根まで水を噴き上げることが可能となる。普段は御影堂門前の蓮型の噴水、外堀の水、蓮型の手水鉢に使用されているが、非常時には境内83箇所の消火栓と本堂屋根のホースからの放水に切り替え、堂宇を水煙で包み込み消火と延焼を防ぐ。
本願寺水道も施工後100年を経過し鋳鉄管の老朽化も進む。水道管自体がその水圧に耐えられなくなり始めたため、2008年頃より送水を止めている。また1979年にはドレンチャーや屋外消火栓の整備が行われたことのより、本願寺水道の役割は終わっていたといっても良いだろう。現在は1年に1回、本願寺水道の水道管が埋設された道をたどる催しが行われている。
第一疎水と疎水分線が完成した後、京都御所の池泉と御溝水の用水を疏水分線と鴨川の両方から引水する御用水が施工されているが、この御用水については後で改めて触れることとする。これとは別に、田邊朔郎による防災と御用水を目的とした御所水道建設は、日露戦争の勃発などにより遅れていたが、ようやく明治43年(1911)6月に予算が承認され、明治45年(1912)5月に第二疎水や蹴上浄水場と同時期に完成している。
紫宸殿の棟上分の落差を確保するため大日山に貯水槽が設けられ、蹴上第三トンネルの西の取水口から約30メートルを揚水している。揚水に用いた渦巻ポンプは第一疎水と第二疎水に1台ずつ配管され、さらに予備として1台の計3台が九条山浄水場ポンプ室に設置された。ポンプ室と御所の間には専用複線式電話線と信号線を備えていた。京都御所を守るために万全な方策が採られていたことがわかる。大日山の貯水槽は直径23.4メートル、深さ3.6メートルのレンガ張り鉄筋コンクリート製で第一疎水、第二疎水用に2槽設けられた。そして御所までの凡そ4300メートルを口径600ミリの鉄管で結んでいる。
九条山浄水場ポンプ室の設計は片山東熊と山本直三郎の共同設計で明治45年(1912)に竣工している。建築様式としてはネオ・ルネッサンスになるのであろう。小品ではあるものの、均整の取れた美しさを備えた上品な建築という印象を受ける。片山東熊は赤坂迎賓館(旧東宮御所)や京都国立博物館を手がけた明治時代を代表する宮廷建築家でもある。そのような経歴を持つ片山がポンプ建屋の設計をすることが奇異に感じられたことから、皇太子(大正天皇)が大津から船で疎水を抜ける計画があったのでこのような意匠で建てられたという逸話が語られている。しかし明治天皇が崩御されたので疎水下りは実現されなかったというオチも付け加えられている。果たしてそれが真相だろうか?水路閣やトンネルの開口も含めて疎水に関係する施設は、経済的な理由から簡略化されることなく、全てにおいて丹精に造られている。これは古都の景観に新たな技術や異なった文明の産物を持ち込む為の配慮、あるいはそれを造る者の礼儀として行われてきたといった方がよいだろう。
平成19年(2007)3月20日から琵琶湖疏水記念館で開催された展示会「琵琶湖疏水と京都御所用水」のポスターに使用された写真は京都御苑内での導管敷設工事を写している。工事箇所は京都御所南東側建春門前で大宮御所の北側築地の近くである。この写真は明治44年(1911)2月21日に撮影されたもので、田邉家寄託資料とあることから、設計者の田邊朔郎が工事記録として保管していたものであろう。小沢晴司氏の「御所水道について(http://www.bunkaisan.or.jp/PDF/21.pdf : リンク先が無くなりました )」(NPO法人災害から文化財を守る会 2009年21号)によると、その経路は三条蹴上から、三条通、仁王門通、岡崎通、春日通(春日上通?)、川端通を経て、鴨川を荒神橋の下流側の専用水管で渡る。河原町通、広小路の地下を通り清和院御門から御苑内に入り建春門前に至ったという記述にも一致する。また、上記撮影箇所付近での京都市埋蔵文化財研究所による「平安京左京一条四坊九町跡」(京都市埋蔵文化財研究所発掘調査概報 2002-8)報告調査書も、「明治時代に設置された御所水道によって掘り返されていた」とある。 昭和29年(1954)8月、鴨川の花火で残り火の付いた落下傘花火が御所に落ち、小御所が炎上している。御所水道が稼動し高圧水が噴出されたことにより、他の殿舎への類焼を免れている。非常に痛ましい事件ではあったが、これが明治時代末期に整備された御所水道が防災という目的で力を発揮した唯一の事件でもあった。
駒札にもあるように、本願寺水道と同じく御所用水は既に停止している。昭和49年(1974)に局部的に調査を行ったところ、破損の可能性が現われている。昭和58年(1983)に本格的な改修調査と改修方法の検討が行われたが、昭和61年(1986)に地下水をポンプで揚水する方式に変更されている。そして平成3年(1991)末より、御所水道管内に発泡モルタルの充填が行われ、平成4年(1992)には御所水道の取水が停止されている。
現在の京都御所及び京都御苑で必要とされる池水は、予備を含めた8本の井戸を用いて地下数十メートルの地下水をくみ上げている。
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