南千住 回向院 その10
南千住 回向院(みなみせんじゅ えこういん)その10 2018年8月12日訪問
南千住 回向院 その9では、桜田門外の変に関わった人々の埋葬がどのように行われたかと文久2年(1862)11月の改葬について見てきた。この項では安政の大獄、桜田門外の変以外の事件に連座し回向院に葬られた人々と明治以降の回向院について書いていく。
既に安政の大獄と桜田門外の変に連座した人々については見てきた。これ以外には、先ず坂下門外の変に関係した人々が埋葬されている。回向院の公式HP(http://ekoin.fusow.net : リンク先が無くなりました )の回向院にご縁のある方々(http://ekoin.fusow.net/309.html : リンク先が無くなりました )では、坂下門外の変に関する人々として、川辺左次衛門、高畑房次郎、小田彦三郎、黒沢五郎、 河野顕三、中野方蔵、平山兵介、河本杜太郎、横田藤太郎、児島強介、得能淡雲の11名を上げている。
坂下門外の変とは、大老・井伊直弼が暗殺された後に幕閣を主導した磐城平藩主・安藤信正を排除するために文久2年(1862)正月15日に行われた襲撃事件である。安藤は直弼の開国路線を継承し、桜田門外の変で失墜した幕威を取り戻すため公武合体を推進した。そのために幕府が選択したことは和宮降嫁であった。これが尊王攘夷派志士の反発を買い安藤暗殺へと向かって行った。
この日、登城する老中・安藤信正を桜田門外で襲撃したのは、高畑房次郎、小田彦三郎、黒沢五郎、河野顕三、平山兵介、河本杜太郎の6名で、いずれも坂下門外で闘死している。
高畑は常陸久慈郡児島村の農・権衛門の二男で文久元年(1861)5月28日の東禅寺英公使館襲撃で負傷している。小田は書院番頭源太左衛門の二男で水戸藩士。安政5年(1858)の長岡屯集に加わっている。黒沢は常陸多賀郡河原子村の医・緩平の子、高畑と同じく東禅寺英公使館襲撃に加わっている。河野は下野河内郡吉田村の医師・甲田意伯の二男で大橋訥庵の門人。河野は宇都宮藩側から参加した唯一の人物である。平山は新番組の兵蔵繁纓の二男で身と藩士。平山も東禅寺英公使館襲撃の一員であった。河本は上野群馬郡川村村の豪農・謙助の子で越後魚沼郡十日町の医・柳玄の養子。
安藤に傷を負わせたものの命を奪うことができなかったのは、同盟を組んでいた長州藩の離脱、そして宇都宮藩に捜査の手が及んだため、水戸藩関係者中心で実行しなければならなかったこと、さらには守衛側が桜田門外の変の失敗を教訓としていたことに尽きる。それでも、安藤を負傷させたことにより、襲撃側は安藤の政治的生命を奪うことができたので一応の成果を得たと見てよいだろう。
上記の11名の内、襲撃者6名を除く川辺左次衛門、中野方蔵、横田藤太郎、児島強介、得能淡雲の5名の事件後を見ていく。
川辺左次衛門は佐治元重の子、水戸藩士で小普請組。川辺は襲撃者の内の一人であったが、当日の朝遅れ参加することが叶わなかった。そのため長州藩桜田藩邸に桂小五郎を訪ね、後事を託して自刃している。川辺の最期の様子は、当時桂の従者を務めていた伊藤博文の「伊藤公実録」(啓文社 1910年刊)に詳しく描かれている。桂は「国家の為めに死ぬる場合はまだ幾度もあらう、決して此度に限りたることではない、どうか暫時何れの地方にでも潜伏して居ては呉まいか、其旅費は私が調達するから」と云って説諭したが聞かなかった。川辺は、少し認めるものがあるから席を外してくれと云い、その場で遺言状を書き認め、脇差で腹を切り、咽喉を横に貫いて鍔元まで刺し透し打ち伏して居た。川辺は咽喉を横に掻き刎ねんとしたが力が足りなかった。伊藤が脇差を引き抜いて後ろに寝かしたところ、出血が激しく絶命したという。藩邸の役人が出てきて善後策を評議したが、いつかは世間に漏れるので幕府に届け出ることに決まった。これにより川辺左次衛門の遺骸は小塚原へ送られたのであろう。 中野方蔵は佐賀藩士、足軽鉄砲組頭与兵衛の二男。嘉永以来勤皇思想に傾倒。藩校弘道館で学んだ後、昌平黌に遊学し坂玄瑞ら尊攘派の志士たちと交流を深める。大橋訥庵に師事し多賀谷勇等と輪王寺宮の擁立運動を図るが未遂に終わる。坂下門外の変が起こると、方蔵も関与を疑われ逮捕、投獄される。義祭同盟の盟友であった江藤新平や大木喬任らが藩に働きかけ、幕府に助命と身柄の引き渡しを求めたが叶わず、文久2年5月25日伝馬町獄舎で病死、享年28歳。
横田藤太郎は下野芳賀郡真岡荒町の商・藤四郎の長男。安政2年に長崎、京都などの西国を遊歴、後に大橋訥庵に学ぶ。坂下門外の変に連座して下野茂木で捕らえられ、文久2年6月11日、伝馬町獄舎で病死、享年23歳。
児島強介は下野宇都宮の商・小畠四郎左衛門の二男。手塚氏の養子となり大橋訥庵に学ぶ。訥庵の命で老中・安藤信正襲撃の準備を行うも、病で実行には加わらずに捕縛される。文久2年6月25日伝馬町牢獄で獄死、享年26歳。
得能淡雲は伊予大洲藩士・人見極馬の別名。藤森弘庵に朱子学を学ぶ。安政の始めから雲水姿で諸国を巡り尊攘を説く。坂下門外の変の連累として幕府に捕らえられ文久2年8月7日伝馬町牢獄で獄死、享年28歳。討死6名、切腹1名、獄死4名の11名が回向院の葬られた坂下門外の変に関係した人々である。
明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)では、この11名に大橋訥庵、菊池教中、松木練次郎の3名を加えた14名を坂下門外の変の殉難者としている。
儒者の大橋訥庵は長沼流兵学者・清水赤城の四男。江戸で佐藤一斎に学び、天保12年(1841)日本橋の豪商・大橋淡雅の養子となり大橋姓を名乗り、思誠塾を開き子弟に儒学を指導する。嘉永3年(1850)には下野宇都宮藩主・戸田忠温の招きにより、江戸藩邸に於いて教授を行っている。訥庵の尊王攘夷論は次第に過激になり、安藤信正の推進する公武合体に対して反対を表明するようになる。文久元年9月、訥庵は児島強介を水戸に赴かせ水戸激派との連携を模索する。外国人を襲撃し幕府を混乱させることを目指した訥庵と、安藤信正暗殺を優先する激派の間には隔たりがあった。文久元年の年末に計画した襲撃が延期され、文久2年の正月を迎える。正月8日、訥庵は一橋家近習の山本繁太郎に慶喜への上書取次を依頼する。このことにより一連の計画が幕府の知るところとなり、同年1月12日、訥庵は南町奉行に逮捕される。宇都宮藩家老・間瀬和三郎らによる赦免運動により、同年7月8日に訥庵は出獄し宇都宮藩邸に預けられる。しかし7月12日早朝に急死する。享年47歳。死因は毒殺であったという。訥庵の遺骸は谷中天王寺の大橋家墓地に葬られる。
宇都宮藩士の菊池教中は佐野屋・大橋淡雅の長男であったので訥庵の義弟であった。安政の大地震で壊滅的な打撃を受けた佐野屋は、鬼怒川沿岸の岡本・桑島の新田開発に着手する。財政難に苦しむ宇都宮藩の藩政と一致し、佐野屋と宇都宮藩の結びつきは強固なものとなる。万延元年には功績が認められ士籍に列せられる。しかし坂下門外の変に連座し捕縛、入獄となる。出獄直後の文久2年8月8日に病死している。台東区の天龍寺と宇都宮の生福寺に墓。
最後の松木練次郎は磐城平藩士、襲撃の際に駕籠脇で奮戦し重傷を受ける。同年8月12日に江戸で死す。享年16歳。つまり松木は守衛側の死亡者であった。
次に東禅寺英公使館襲撃事件を見ていく。事件の発生した東禅寺は東京都港区高輪にある臨済宗妙心寺派の別格本山。海上禅林佛日山東禅興聖禅寺で江戸四箇寺の1つ。安政年間(1855~60)以降、西洋人用の宿舎に割り当てられ、安政6年(1859)に日本初のイギリス公使館が置かれた。この東禅寺で文久年間(1861~63)に二度の襲撃事件が起きている。一度目は文久元年(1861)5月28日、水戸藩脱藩浪士14名による公使・オールコック襲撃事件(第一次東禅寺事件)である。オールコックは長崎から陸路で江戸に入り、事件の前日の5月27日に東禅寺に入っている。28日夜、攘夷派浪士14名が警備に就いていた旗本、郡山藩士、西尾藩士と交戦している。書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷、護衛側は幕臣で外国御用出役の江幡吉平が闘死している。
襲撃側は水戸藩士の有賀半弥、常陸久慈郡染和田村の田楽師の古川主馬之介が闘死、下野芳賀郡高岡村の農・徳兵衛の子の小堀寅吉が負傷して自刃。水戸の矢師榊忠兵衛の三男・榊銊三郎は襲撃時に負傷して就縛。同年12月15日に伝馬町牢獄で斬首。
常陸那珂郡小舟村の農・次郎吉の子の中村貞介と常陸那珂郡誉田村の農の山崎信之介が襲撃後東禅寺から逃れて品川の旅館虎屋で包囲され自刃。石井金四郎も一時逃れて自刃を図ったが、捕えられ翌29日に伝馬町牢獄内で死亡。東禅寺での死亡が3名、現場から脱した後の死亡が3名、併せて6名が翌29日までに亡くなり、1名が捕縛されている。
14名の襲撃者の内、7名が現場から離脱している。
宇都宮の商人、水戸馬喰町で刀研ぎをして志士と交わった中村乙次郎は奥州郡山に隠れたが捕らわれ、同年5月に水戸で斬首。
書院番組正節の二男で、百石取りの水戸藩士であった前木新八郎と使番直元の三男で元水戸藩士の森半蔵は常陸那珂郡入本郷に潜伏した。同年8月26日に捕吏に囲まれ自刃。
清左衛門の子で水戸藩士・町方同心の池田為吉は逃亡後捕えられ、文久2年閏8月14日に水戸藩の獄内で獄死。
逃走した黒沢五郎、高畑房次郎はその後、坂下門外の変に参加し闘死している。また岡見留次郎は西国に逃走し天誅組の変に参加、敗走後捕えられ斬首。以上で7名、襲撃者の中で明治時代を迎えることが出来た者はいなかったようだ。
また水戸藩甲冑師四方吉義親の子の千葉昌平は計画に加わっていたが直前に発病したため参加できなかった。筑波山麓に潜伏中を捕えられ、同年11月25日伝馬町牢獄内で獄死。
第一次東禅寺事件が発生してから丁度1年と1日経った文久2年(1862)5月29日に再び東禅寺で外国人襲撃事件が起こる。これが第二次東禅寺事件である。襲撃者は警護の任に就いていた松本藩士・伊藤軍兵衛であった。兼ねてから東禅寺警衛のために出費を強いられていることに不満を感じていた軍兵衛は、公使を殺害し東禅寺警衛の任を解くのが上策と考え行動に出た。呉服橋の藩邸を抜け出し東禅寺に忍び込みイギリス水兵2名を殺害、早朝に藩邸に戻り遺書を認めた後に自刃している。軍兵衛の遺体は外国掛により東禅寺に移され外国人の一閲に供された後、北町奉行石谷穆清に差し渡されている。そのため小塚原刑場に遺棄されたが、大橋訥庵によって頼三樹三郎と同じく回向院常行庵に埋葬されている。明田氏の「幕末維新全殉難者名鑑」では14名が東禅寺事件の殉難者としている。内1名が守衛側の死者であるので外国人襲撃側の死者は13名であった。この内、回向院に埋葬されたのは石井、榊、千葉と第二次東禅寺事件の伊藤の4名で、第二次東禅寺事件の当日闘死あるいは自刃した5名は含まれていない。伊藤を除くと、何れも捕縛されて伝馬町牢獄に送られた者という事である。
ただし、現場で闘死した古川主馬之介の墓碑、古川忠興之遺墳が昭和47年(1972)7月に回向院に建立されている。右側面には確かに「東禅寺事件同志」とある。現地で見た時は、昭和17年(1942)10月27日に小塚原烈士遺墳再建会の建立した墓碑と同じように見えたが、戦後に建てられたものである。明田氏の「幕末維新全殉難者名鑑」にも「東京都荒川区・回向院に墓」の記述がない。現場で同じく闘死した有賀半弥や負傷して自刃した小堀寅吉の墓が水戸常磐墓地にあるのに対して古川主馬之介の墓は「幕末維新全殉難者名鑑」には記載されていない。
「南千住 回向院 その10」 の地図
南千住 回向院 その10 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
回向院 | 35.7322 | 139.7978 | |
01 | 泪橋 | 35.729 | 139.7994 |
02 | 延命寺 | 35.7316 | 139.7978 |
03 | 円通寺 | 35.734 | 139.7928 |
04 | 素戔雄神社 | 35.7371 | 139.796 |
05 | 荒川ふるさと文化館 | 35.7375 | 139.7954 |
06 | 千住大橋 | 35.7393 | 139.7973 |
07 | 千住宿 | 35.7505 | 139.8028 |
08 | 奥の細道矢立初めの地 荒川区 | 35.7331 | 139.7985 |
09 | 奥の細道矢立初めの地 足立区 | 35.7412 | 139.7985 |
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