醍醐寺
真言宗醍醐派総本山 醍醐寺(だいごじ) 2008/05/11訪問
随心院の総門を出て、前を通る道を南に下る。途中で府道36号大津宇治線を越える。この道は旧奈良街道と呼ばれている。随心院を出てから、およそ20分で醍醐寺の総門に到着した。
真言宗醍醐派総本山で、山号を醍醐山と称する。世界遺産にも登録されている。
貞観16年(874)空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に祀ったのが醍醐寺の開山となる。山岳信仰の霊山であった笠取山に登った聖宝は白髪の翁の姿で現れた地主神 横尾明神より醍醐水の湧き出るこの山を譲り受けたという伝承も残っている。
上醍醐を中心に多くの修験者の霊場として発展した醍醐寺は、醍醐天皇が自らの祈願寺とし手厚い庇護を掛けるようになると、延喜7年(907)上醍醐に薬師堂が建立され、その後五大堂も落成し伽藍の完成を見る。続いて醍醐山麓の広大な平地に大伽藍が計画される。延長4年(926)釈迦堂が建立され、ついで天暦5年(951)の五重塔の落成により下醍醐も完成する。
以後も皇室、貴族や武士の支援を受けて三宝院をはじめとする諸院の建立され、真言密教の中心的な寺院となっていった。
醍醐寺も他の寺院と同じように幾たびか兵火を受けている。特に応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))の際は下醍醐では五重塔を残しほぼ全て焼失し、上醍醐も荒廃してしまった。しかし慶長3年(1598)の豊臣秀吉による「醍醐の花見」を契機に紀州などからの寺院建築の移築や金堂や三宝院の建設などが行われ、現在見るような姿となった。
醍醐寺は下醍醐だけでも広大な境内に多くの堂宇が点在している。総門から入り、三宝院など塔頭の並ぶ区域を過ぎると正面に西大門が現れる。秀吉の命により再建がなされたに仁王門。完成は秀吉の死後の慶長10年(1605)に豊臣秀頼による。下醍醐の堂宇はこの先にあり、ここより醍醐山の傾斜が始まる。
モミジの坂を登りきると右手に国宝 醍醐寺の五重塔が現れる。醍醐天皇の菩提を弔うため、第一皇子・朱雀天皇が承平6年(936)に着工し、第二皇子・村上天皇の天暦5年(951)に完成した。醍醐寺のなかでも唯一の創建当時からの建物。高さは約38メートルで屋根の上の相輪は約13メートルあり、相輪が塔の三分の一を占めている。
国宝に指定された五重塔は室内小塔を除くと9基ある。この中で醍醐寺の五重塔は法隆寺、室生寺に次ぐ古塔である。これらを年代順に並べて比べて見ると、古い時代に美しいものが多くあることに気がつく。古建築の専門家ではないが、建物本体と屋根とのバランス、屋根の大きさ・勾配、軒先を結ぶ減衰線など、五重塔の印象を左右する構成要素は多くあるように思う。これらのいずれかに問題があるものはすぐに気がつく。しかし美しいものの理由を見出すのは非常に難しい作業である。この五重塔を前にした時にそのようなことを感じた。経験の蓄積や工法の進歩などでは埋めることのできない美意識が実現されていることを確認できた。
五重塔に面して清瀧宮本殿がある。醍醐寺の鎮守社で、永長2年(1097)に上醍醐より分身を移したものであり、現在の社殿は永正14年(1517)に再建された。
五重塔の左側には国宝 金堂が建てられている。金堂は延長4年(926)醍醐天皇の御願いにより、釈迦堂として建立された。現在の建物は、慶長5年(1600)豊臣秀頼が紀州湯浅より移築したもの。醍醐寺の本尊として薬師如来坐像が安置されている。
不動堂、祖師堂、真如三昧耶堂の先に、朱塗りの門が現れる。これをくぐると鐘楼堂、大講堂の先に池の中にある島に朱塗り反り橋が架けられ弁天堂が祀られている。成就院の先は上醍醐につながるので、ここが下醍醐の最深部となる。
都名所図会の下醍醐は西大門、金堂を中心に描かれている。
これだけ広い境内なので、拝観者の管理も大変なのだろう。拝観時刻も終わりに近づくとお寺の関係者と思われる方から、何度もこれから先に進むと帰ってこれませんよと言われた。来た道を西大門まで戻れないようならば、弁天堂から外部の道に出ることも教えられた。定刻までに西大門まで戻ることはできたが、もう少し余裕を持って計画すべきだった。
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