緑寿庵清水
緑寿庵清水(りょくじゅあんしみず) 2008年05月17日訪問
白沙村荘を後にして、次の吉田神社へと向かうため今出川通を西に進む。本来は東大路通との交差点である百万遍を南に下るべきだが、お土産を買うために緑寿庵清水へ寄り道する。角にある思文閣本社を目印として、東大路通の一本西側の鞠小路通を南に入る。すぐに道が二股に分かれる角が現れる。緑寿庵清水はその角の先にある。
子供の頃食べたコンペイトウは着色剤で濃く色付けされた、とても甘いお菓子であった。一度に何個も頬張ると、食べ終わった後も口の中に甘い香りが残って取れない印象が強い。そのため子供のためのお菓子であって大人が食べるものではないとずっと思い込んでいた。
7~8年前にご近所の方から京都の老舗の金平糖を頂き、食べる機会を得た。小さな袋に小分けされた金平糖を一粒口に含むと、すぐに香りが広がった。上品な甘さで香りを殺すことのない程度に味付けされている。そして簡単に溶け去ることがなく、ずっと口の中で香りを保っているので、ついつい噛み砕いてしまう。噛んでみると、なかなか歯応えがあり、簡単に溶けなかった訳が分かる。そして全てが口の中から無くなると、それまであった香りも甘味もきれいに消え去る。そしてもう一粒口に運びたくなる。
東京でも百貨店の特選銘菓のコーナーに、緑寿庵清水の金平糖が数ヶ月に一回入荷することを知り、予め予約を入れて待つことをした。入荷状況も不定期で購入できる量も多くなかった。さらに入荷される金平糖の種類も限られていることを知り、何年も前から何時か京都を訪れた際に訪問しようと考えていた。
最初に緑寿庵清水を訪れた時は、店舗の位置が良く分からず、このあたり一帯を彷徨った記憶が残っている。それ程広くない店舗の中に入ると想像していたより多くの商品が並んでいた。東京で入荷できる小袋に入った金平糖の他に、綺麗な箱につめられたもの、季節限定商品などが存在していること、そして陶器のボンボニエールに納められた金平糖を見ることができた。ボンボニエールとはボンボン菓子を入れるための容器のことで、皇室の引き出物として使われるおめでたい品でもある。
緑寿庵清水は慶応年間(1865~1868)創業の金平糖専門店である。
公式HPでは「日本で唯一の金平糖専門店」としているが、確認する方法もないので金平糖の専門店ということに留めておく。 金平糖の語源はポルトガル語のコンフェイト (confeito)。初めて日本に金平糖が伝わった時期については諸説ある。天文19年(1550)ポルトガルの貿易船が平戸に来航し、平戸領主の松浦隆信に南蛮菓子を献上したことが文献に記録されている。この時に金平糖はカステラや有平糖などともに伝えられたのが最初のものだとされている。永禄12年(1569)ルイス・フロイスは京都で織田信長と面会している。この時の献上品の中に金平糖などが含まれていた。当時のキリスト教宣教師は布教のために南蛮菓子を配布したとされている。
金平糖は非常に気の長い作業が必要とされる。緑寿庵清水では餅米を細かく砕いたイラ粉というものを核として使用する。この核を回転している大きな釜の中に入れ、十分に温まったところにグラニュー糖を煮溶かした蜜をふりかける。そして水分を蒸発させてはまた蜜をかける、という作業を三週間近く繰り返す。結晶の出来具合を見ながら釜の回転速度や釜の角度を調整、蜜の濃度を濃くしたり薄くしたりと完成するまで釜から目を離すことができない。また砂糖を結晶させるため、作業場の室温を下げる訳にはいかないため、夏場は50度を越える環境で作業を続けることとなる。金平糖が高価な和菓子であるのは手間隙かけて作り上げるための人件費と考えてよいだろう。
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